「霊による歩み」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・10・24

「霊による歩み」

廣石 望
エゼキエル書 37,1-14;ガラテヤ書 5,16-26

 

I

キリスト教は霊の宗教です。ヨハネ福音書は、「神は霊である」(4,24)と端的に言い切っています。パウロもまたこう言います。「神の霊があなた方のうちに宿っているかぎり、あなた方は肉ではなく、霊の支配下にいます。キリストの霊を持たないものは、キリストに属していません」(ロマ8,9)。使徒言行録の2章に報告された、いわゆる聖霊降臨節(ペンテコステ)の出来事は、原始キリスト教会の出発を記す出来事でした。聖霊を受けた者たちを代表して説教するペテロは、こう言います。「悔改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」(使2,38)。このように、新約聖書に収められた多くの書物が、生きて働く霊の現実についてさまざまに証言しています。

 

さらには古代教会で長い時間をかけてゆっくりと形成された、いわゆる「三一論」において、霊は神が持つ三つのペルソナの一つです。教理史的に見れば、聖霊論は、先ず神論そして次にはキリスト論がそれぞれに一応の決着を見たあとで集中的に論じられました。このことは、〈父〉なる神と〈子〉なるキリストの関係を創り出す「場」ないし「力」として聖霊がある、という事情に対応しています。

 

イエスの〈父〉なる神は生きておられます。〈子〉イエスは生きて私たちに働きかけておられる。復活のイエス・キリストを通して信徒たちに注がれる〈霊〉なしに、キリスト教信仰はありえません。キリスト教が霊の宗教である、というのはそういう意味です。

 

 

II

 

もっとも私たちは、高度に発展した物質・機械文明の中に生きています。そこには〈霊〉の出番はあまりありません。しかしよく見ると、私たちの周囲には様々な「霊」が溢れています。ご先祖様や死者たちの霊、都会にも出没する幽霊たち、そして現代宗教が追い求めるさまざまな「霊的」と言われるパワー。いったい〈霊〉とは何なのでしょうか? 

 

聖書の伝統では、日本語で「霊」と訳されるのは、主としてヘブライ語の“ルーアハ”、あるいはギリシャ語の“プネウマ”という言葉です。前者は人の「息」、後者は「風」が原義です。「神の息/ルーアハ」の働きは、先ほどお読みした、預言者エゼキエルが見たという「枯れ骨の復活」の幻に、まことに鮮烈に表現されています(エゼキエル37,1-14)。また「風/プネウマ」としての霊について言うなら、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」というヨハネ福音書の印象的な言葉(ヨハネ3,8)を覚えておられる方が多いのではないでしょうか。

 

さらに日本語の「霊」という言葉の意味を知りたいと思いまして、手元の古語辞典を紐解きますと、「レイ」ではなく「タマ」の読みで出ていました。「未開社会の宗教意識の一つ。最も古くは物の精霊を意味し、人間の体内からぬけ出て自由に動き回り、他人のタマと逢うこともできる。人間の死後も活動して人をまもる。人はこれを疵づけないようにつとめ、これを体内に結びとどめようとする。タマの活力が衰えないようにタマフリをして活力をよびさます」とあります。ちなみに霊魂の意味での「タマ」は、玉手箱というときの「玉」と同根であり、こちらについては、「人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代(よりしろ)となる、まるい石などの物体が原義」とあります。そして、タマフリという儀式は、「人の霊魂が遊離しないように、憑代(よりしろ)を振り動かして活力をつける」ものだそうです(岩波『古語辞典』捕訂版)。

 

このように見てまいりますと、聖書の伝統でいう「霊」と日本の古語でいう「タマ」とは、それが自由であること、命の活力と関係があること、そしてその活力は人間と人間を超えるものとの交流に関わるという点で、驚くほどよく似ています。

 

しかし違うところもあります。聖書のいう「霊」は〈物の精霊〉でなく、何よりも先ず「神の霊」、聖霊です。さらにタマフリに使われる「玉」のような物体を霊媒として用いる習慣は、ユダヤ教の伝統にはありません。エルサレム神殿は建造物としては確かに「物」ですが、その至聖所にはヤハウェ神の御神体はありませんでした。もちろんこれは、神の像を刻んではならないという十戒の第二戒に対応します。紀元前63年、ローマの将ポンペイウスがエルサレムを占領し、至聖所にまで踏み込んで神殿を汚したとき、彼はじつは大いに驚き、度肝を抜かれただろうと思います。彼はユダヤ人の神の御神体を見たかったに違いありません。ところが至聖所はがらんどう同然。僅かな宗教祭具とメノラーと呼ばれる燭台、そして何よりも至聖所の内壁に収まりきらない仕方で描かれた巨大なケルビムの姿が、空虚な空間の中で、イスラエルの神が霊であること、至聖所はその霊なる神が臨在する場であることをシンボリカルに表現していました。

 

ユダヤ教から生まれた原始キリスト教は当初、独自の神殿も祭司も持たないという意味で、古代の宗教世界にあって異色の存在でした。キリスト教徒は、普通の家で礼拝を守り、その家の食卓と食器を使って聖餐式を祝いました。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18,20)というイエス・キリストの言葉が、彼らの合言葉です。

 

 

III

 

さてパウロは、先ほどお読みした『ガラテアの信徒への手紙』で、先ず〈肉〉との対比において〈霊〉について語っています。彼は言います。「私が言いたいのは、こういうことです。〈霊〉の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して〈肉〉の欲望を満足させるようなことはありません」(16節)。

 

パウロの言う〈霊〉と〈肉〉の対立は、肉体を霊魂の牢獄と見なしてこれを蔑視するような思想とは関係ありません。この対立は、むしろ人の生き方全体と関係しています。『ガラテアの信徒への手紙』は、パウロが設立したガラテア教会の信徒たちを、誤った福音理解から引き戻すために執筆されました。<洗礼を受けても、それに続いて割礼を受け、律法を守りつつ生活しなければ、真のキリスト者とは言えない>と主張する、ユダヤ地方からやってきた律法主義的キリスト者たち、そしてその意見に心を動かされつつあったガラテアの信徒たちに向かって、パウロは、それは「〈霊〉で初めて〈肉〉で仕上げる」ようなものだと切って捨てます(ガラテア3,2-3)。つまり、割礼を受け律法に従って生きるというような、傍目には極めて禁欲的で、まことに立派で敬虔な生き方も、実際には神の現実に逆らい、これを台無しにする生き方である場合があるわけです。

 

次ぎにパウロは「霊に導かれているなら、あなた方は律法のもとにはいません」(18節)と言って、さらに〈律法〉との対比において〈霊〉について語っています。律法は、神の意思として人間に与えられた「戒め」です。この点に関して、パウロとガラテア教会の信徒に割礼を要求したキリスト者との間に、意見の違いはありません。しかし彼らは、パウロから見ると、明らかに「律法のもとに」いた。それに対して霊に導かれる者は、律法のもとにはいない。これはどういうことでしょうか? パウロが「肉の業」と「霊の実」を対照させていることが、そのことを考える手がかりになると思います。

 

19節以下でパウロは、悪徳表と徳目表をあげながら、「肉の業」と「霊の実」の対比を通して、〈肉〉と〈霊〉の対立関係を説明します。先ず「業」が複数形であるのに対し、「実」の方は単数形です。つまり「多くの業」と「一つの実」が対比関係にあります。次ぎに「律法の業」と言わずにわざわざ「肉の業」と言われているのは、行動する主体に強調点があることのしるし、他方で「霊の業」でなく「霊の実」とあるのは、主体そのものよりも、それを導くものに強調点があることのしるしでしょう。これらのことを考慮すると、およそ次ぎのように言えると思います。一方で「業」とは、私がある掟・戒めに従って行動し、それによって正当な報いを要求する権利を獲得することです。そして他方で「実」とは、私とは異なる力が、私を通して何かを育て、そのことが私にとっての生きる根拠、その可能条件になることです。E・フロムに従って、「業」は〈持つこと〉、「実」は〈存在すること〉に基づく生き方である、と言うこともできるでしょう。

 

すなわち、〈肉〉による生き方が様々な「業」に基づいて〈持つこと〉を要求する生き方であるのに対して、〈霊〉による歩みとは一つの「実」にあって〈存在すること〉です。この二つの生き方の違いを、パウロは悪徳表と徳目表を対立させることで、いっそう際立たせています。悪徳表には、肉のさまざまな業として、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴、その他この類のもの」(19-21節)という具合に、性・異教的迷信・紛争そして酒に関する悪徳がズラリと並べられています。これに対して徳目表の方では、「霊の実とは愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(22-23節)と言われており、これに「これらを禁じる掟はありません」(23節)というコメントがついています。ここで「掟」と訳されているのは“ノモス”というギリシャ語、要するに「律法」という言葉です。パウロによれば、律法の全体は、直ぐ前の文脈で言われているように、「あなたの隣人を愛せ」という一言において既に満たされているのでした。(14節)

 

「律法のもとにいる者」は神が与えた掟を誤解します。自分の行動に基づいて正当な権利を要求するために、律法を利用するからです。それの結果、皮肉なことに、様々な「肉の業」が生み出されます。これに対して「霊に導かれる者」は、自分を通して働く神の力から生きます。そのような者は、事実上、隣人愛を生きる。つまり律法の彼方で霊から生きるものが、律法の本来の戒めを実際に満たすわけです。そして、このことが可能になるのは、パウロによれば、「キリスト・イエスのものとなった人たちが、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」からに他なりません(24節)。「共に十字架につける」という表現で考えられているのは洗礼式だろうと思います。水に浸されて、シンボリカルにイエスの死を共に死んだ者たちは、行為主体としては一旦死んだのです。ですから今は、死せるイエスに新しい命を与えた神の霊をたよりに生きるばかりです。

 

最後にパウロは言います。「私たちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」(25節)。この一文は、パウロにおけるいわゆる直説法と命令法の一致としてつとに有名です。私たちが現実に霊の導きに従って生きている、ということを指摘する「直接法」が先ずあり、次ぎにそれに基づいて、だから私たちは霊に従って歩もうではないかという「命令法」が現れる、というわけです。しかし仮定文として現れる「直説法」と、帰結文として現れる「命令法」は、相互に非常に密接に結び合わされており、単なる文法的メルクマールによりつつ「直説法」と「命令法」に分けること自体に少々無理があるように思います。ですから私は、この一文を次ぎのように訳したいと思います。「私たちは実際、霊から生きる力を受けている。ならば私たちはまた、霊に足並みを合わせていようではないか」と。霊による歩みは、私の歩みではあるけれど、私自身の行動能力の産物ないし業績ではありません。霊は、譬えて言なら、素晴らしい音楽のようなものです。人は、よい音楽に出会うと、労働で疲れた手をふと休め、思わず耳を傾けます。そして知らぬ間に、ハミングしながら体を揺らし始める。やがて人々は立ちあがり、手を取り合ってステップを踏み始めるでしょう。身のこなしは十人十色。ステップにも違いはあるかも知れない。パートナーや踊りの輪も、置かれた状況によっていろいろでしょう。しかし、私たちを運んでゆくのは、一つの同じ旋律です。

 

「私たちは実際、霊から生きる力を受けている。ならば私たちはまた、霊に足並みを合わせていようではないか。」私たちキリスト者に求められているのは、何よりも先ず、霊の調べに注意深く耳を傾けること、そしてそれに静かに身を委ねることです。十字架と復活の調べは、私の救い主イエス・キリストの、したがって人類全体と死と再生の歌です。これに逆らって自分の歌をわめくのは止めたいと思います。そういうことをする人に対してできるのは、私たち自身がかつてそうされたように、手を差し伸べ、「どうぞ」と言って踊りの輪に招き入れることだけです。仮にそれが足をひきずるような踊りであったとしても、あるいはもう立つことができなくてただ横たわっていたとしても、それは霊によって自由にされた者たちの歩みです。そのとき私たちは一つなる「霊の実」、すなわち神の新しい創造です。

 



The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help