創世記は12章から族長物語に入り、これが最後まで続きます。 この族長とは当時、紀元前2千年頃の遊牧民の小さな部族のリーダーであった、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフたちの物語です。 族長物語には一応歴史的事実性の裏付けがありますが、全体としては歴史というよりは歴史的伝説の段階で、教訓的な側面が目立ちます。 さて16章はアブラム(旧名)と妻サライの夫婦関係をめぐる物語です。 アブラム一族はカナンに移住して既に10年が過ぎ、その間に様々な波乱がありました。 飢饉を避けてエジプトに行けば、ファラオがサライを見染めたのでアブラムが「妹です」と嘘をついて宮殿に召し入れさせたり、甥のロトを救出したり、次から次へと事件が起こります。 そんな中で、きょうのテキストは妻サライの女奴隷であったエジプト人ハガルとアブラム夫婦の間に起こった事件が題材です。 アブラムとサライには子供がありませんでした。 これは当時の族長制度では大問題で、部族の後継者がいないという事態です。 サライは跡取りを得るために自分の侍女のハガルに子を産ませようと夫にもちかけます。 そうしてハガルはアブラムの側女となり、妊娠します。 ところがハガルは奴隷なのに自分が族長の子を身ごもると、女主人サライを軽んじたというのです。 なにか数千年の隔たりを超えて、現代の私たちの生活の中にも起こりそうな話です。 一夫多妻制と一夫一婦制との違いはありますが、夫婦の間に他の異性が割り込んで一騒動というのは現代とちっとも変わりません。 ハガルがアブラムの子を宿した途端、主人サライを見下げるようになったというのは、奴隷とはいえ同性の主人に対して優越感を抱いたのでしょう。 当時子供が生まれないのは神の恵みが薄いからだという考えがありましたので、サライとしてもハガルの態度を見過ごせなかったのでしょう。
もとはと言えば自分の蒔いた種なのに、サライはそれをすっかり忘れているのです。 サムエルの母ハンナもザカリヤの母エリサベツも子供が生まれず悩んだ話がありますが、当時の思想に照らし合わせれば、サライとハガルのやりとりが目に見えるようです。 夫アブラムからハガルの扱いを取り付けたサライはハガルにつらく当たりました。 こうなると主人夫婦の方が立場が上ですから、アブラムは結局は我が身可愛さで、サライがハガルに何をしようと見て見ぬ振りをしたことでしょう。 6節後半、きょうのテキストの始まり部分です。 どんな仕打ちをしたか知れませんが、ハガルにとっては辛かったのでしょう。 彼女は逃亡しました。 シュル街道というのはカナンからエジプトに向かう内陸の道です。 ハガルはエジプト人奴隷なので、故国へ逃れようとしたのでしょう。 ところがシュル街道沿いの泉のほとりでハガルは主の御使いに出会ったと7節にあります。 泉とあるのは、内陸部を通る荒地のシュル街道上の一つのオアシスでしょう。 8節からは主の御使いとハガルのやりとりが始まります。 もしかすると彼女は妊娠した身体ですから、疲れ果てて死に直面したような状態だったのかもしれません。 神さまはハガルのすべてを見通した上で、『あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか』と聞かれています。 この声は、希望を失っ人間にとっては包み込むような優しさを感じられたに違いありません。 神さまは人間の前に先回りして言葉をかけておられるのです。 不幸の中にあっても、神の言葉を発見することの大切さを思います。 ハガルは日頃から神さまとの交わりをある程度持っていたのかも知れません。 『どこへ行こうとしているのか』とは、「どうするつもりか」ということでもあります。 失意のどん底で、そのように優しく声をかけられれば、大抵の人間は「これではいけない」と気づき、新しい決心をすることでしょう。 人間に何か新しいことを決心させる神の言葉がここにあります。 これは古代の荒野であろうと現代の東京であろうと同じです。 確信の生まれない人生は無意味です。
さて、傷心のハガルを見捨てられない神さまは、彼女にもう一度サライのもとに帰りなさいと言われます。 9節。 一度逃亡しているのですから、帰れば以前にも増して苦難が待っているかも知れません。 しかしサライといえども信仰者なのです。 そこしかあなたの帰る道はないのだから、心をしっかりもって耐えてみなさい、という神さまの声だったのではないでしょうか。 その証拠に10節で神さまはこういう約束をしています。 『わたしは、あなたの子孫を数え切れないほど多く増やす』。 さらに11節では、『今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから』とも言われています。 その際、「神がお聴きになった」という意味のイシュマエルと名付けなさいとも命じられています。 神さまはハガルに悪いようにはしないよ、と約束されたわけです。 イシュマエルはやがて神の約束通り、当時のアラビア人の先祖となったと25章に出てきます。 彼女はアブラムとサライの許へ戻ります。 そのことはテキストに続く15,16節の記述でわかります。 そこからアブラム夫妻とハガルの間が平穏のうちに元に戻ったようすが窺えるからです。
さて、テキストには書いてないのですが、皆さんは主の御使いの言葉をいただいたハガルはどうしたと思われますか? 私はアブラム夫妻の所に戻ったと見ていますから、信仰的にも目覚めたのではないかと考えます。 普段からアブラム夫妻の信仰生活を見ていたのですから、危機に瀕する中で神さまに豊かな言葉をかけられたことがきっかけで、本当の意味での信仰心が生まれたのではないかと思うのです。 人生のすべてが平穏無事だという人はいないでしょう。 いろいろな困難に出くわして人間は信仰を得ます。 苦難の中で神さまの存在が分かるのです。
13節にはハガルの喜び、感謝の言葉が記されています。 自分に語りかけてくれた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイです』と言っています。 エル・ロイ、私を顧みられる神だ、と言ったのです。 エルというのは、本来はカナンの神殿の最高神を表わす固有名詞ですが、これが神を意味する普通名詞として旧約では使われます。 サムエルやイシュマエルの語尾のエルです。 エル・ロイは「私を見たエル」或いは「私が見たエル」という意味です。 13節の後半の文はちょっと意味が分かりません。 『神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったから……お分かりになりますか? 口語訳では「“ここでも、わたしを見ていられる方の後ろを拝めたのか”と言ったことによる」とありました。 この方が意味が分かります。 まあ、原文が訳しにくいということです。 とにかくエル・ロイという神さまの名の由来を説明しようとしている一文であることには違いありません。
口語訳の「神の後ろを拝む」という言い方には意味があります。 それは一つには、神さまは顔を直接見ることはできない聖なるお方だから後ろしか拝めないということです。 この思想は旧約全体を貫いている思想でしょう。 またもう一つは、後ろ姿であっても、神さまを拝んだのだからなお生きることを許されている、という意味です。 これなどは信仰を与えられた後の感謝とも言えるのではないでしょうか。 この物語を読んでいてあらためて思ったことは、私たちは困難に出会った時、神さまに関わって解決すべきだろう、ということです。 解決すると言っても、目の前に幻が見えるというようなことはまずないでしょう。 後で、「ああ、そうだったのか」と思うことがほとんどだと思います。 この物語ではハガルは言わば逃亡奴隷として社会から見捨てられた存在です。 そういう彼女を神さまは顧みられて、今なお厳然として存在されると、言っているのです。
私たちは自信を無くした時、自己嫌悪に陥った時、こんな自分でも生きて行く意味があるのだろうか、と思うことがあるでしょう。 しかし、そういう私たちのために神さまはみ言葉をくださり、イエス・キリストを十字架にかけてまで私たちを救おうとなさっている事実を決して忘れまいと思います。 この意味で、新約聖書のイエス・キリスト十字架の信仰は旧約聖書のハガルの信仰にまでさかのぼることができるのではないでしょうか。 もし時間がありましたら、この後のストーリーの展開を読んでみてください。 ハガルの子イシュマエルが生まれてから14年後に、老齢のサラにイサクが授けられます。 18章にある物話ですが、サラは男の子が産まれるという告知に「ひそかに笑う」のです。 ここにはたった14年間であっても信仰生活をまっとうすることはそう容易いことではないことが言われています。 しかもサラは一子イサクを授けられた後も神さまに叱られています。 これらの物語は昔話の他人事ではないのです。 私たちが一人であっても夫婦であっても、節度を保ちながら信仰の道を歩むことがどんなに難しいか思い知らされます。 誰でも絶対他人には話せないこと、取り返しのつかないことがあるはずです。 それを思う時、私たち人間は、神さまの赦しがなければ生きられないなとつくづく思います。 私たちは皆ヘボ信仰ですが、神さまの約束の道を歩んでまいりましょう。 先ほど読んだ第Iペトロ書のみ言も味わいましょう。 祈ります。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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