よく見る「占い」ですが、クリスチャンは見るのもやるのもダメなんでしょうか?
日本で生活すると、あらゆるところに占いがある。日本人は占いが大好きだ。朝の情報番組では、必ず占いコーナーがある。星座占い。血液型占い。手相占い。神社のおみくじ。姓名判断。タロット占い、などなど・・・。名前の画数まで気にするのは、世界でも珍しい風習ではないだろうか。
この占いをどの程度信じているかも、人によって様々である。私はクリスチャンの家庭ではなかったのだが、自分からおみくじを引きに行ったことはないし、テレビの星占いを関心を持って見た覚えはない。一方で、占いをある程度本気で信じている人もいる。画数で名前を変えたり、ラッキーアイテムを必ず身につける、という人もいるのではないだろうか。コワモテのお兄ちゃんが意外と、大切にお守りをいつも身につけている、というのも割と「あるある」だろう。
さて、日本では日常的に身の回りにある「占い」だが、クリスチャンはどう占いと付き合っていくべきなのだろうか。ある人は、絶対関わってはいけないと言うし、そこまで深く考えなくても良いという人もいるだろう。見るのはOK? やるのはOK? それとも、全部ダメ? さて、聖書は占いについて何と書いてあるのか、見ていこう。
議論の大前提として覚えておいてもらいたい。基本的に、イエスへの信仰は、誰かを縛るものではなく、解放するものである。信仰は、人を自由にする。それについては以前、別記事を書いたので、詳しくはそちらを参考願いたい。
まとめると、クリスチャンに「禁止事項」は基本的にはないのである。だから、この記事の主眼は「クリスチャンは占いやったらダメ」というものではなく、「聖書は占いについて何と語っているか」という点である。
もちろん、イエスの教えをどのように受け取るかによって、それぞれが判断する生き方の基準はあるだろう。自由だからといって、なんでもしていいわけではない。自由にされたからといって、すぐに人を殺しまくるのはオカシイ。それは誰でも分かる。
福沢諭吉が英語の「freedom」を「自由」と「御免(ごめん)」のどちらに訳すかで迷ったというのは有名な話だが、私は「御免」の方が本来の「自由」のニュアンスを的確に捉えていると感じる。神の許可する範囲での自由、といったニュアンスがあるからだ。
聖書は、人は基本的に自由だが、全てが益となるわけではないと語る。
「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。
(コリント人への手紙第一 6:12)
問題は、どこにその基準を置くかなのだが、その基準を作るのに、大切なのは聖書の価値観を知るという一点に尽きる。では、「占い」について聖書を見ていこう。
「占い」に類する言葉は、意外と多く登場する。以下、まとめてみた。
<旧約聖書>
「カサム」:占う。動詞。20回登場。
「ケセム」:占い。名詞。11回登場。
「ナハシュ」:まじないをする、占う。動詞。11回登場。
「ナハシュ」:まじない、占い。名詞。2回登場。
「アナン」:占い。卜占(ぼくせん)。動詞。「雲」が語源。「雲」によって天気を予報することから派生した単語。11回登場。
※なお、新改訳聖書第三版では、「カサム・ケセム」を「占い」、「ナハシュ」を「まじない」と区別して訳出しているが、新改訳聖書2017版では「カサム・ケセム」を一部、「占い」に変更している(出エジプト44:5節、15節)。他の箇所では「まじない」のままである。その2節の訳出に、どのような意図があったのか分からないが、原語が違うのだから、やはり従来どおり「まじない」とした方がいいのではと個人的には思う。ちなみに聖書協会共同訳は新改訳三版のような区別となっている。
<新約聖書>
「プソン」:占い。動詞。1回のみ登場(使徒16:16)
「マントゥオマイ」:予言。動詞。1回のみ登場。(使徒16:16)
聖書に「占い」に類する単語は、合計で57回登場することになる(※もっとあったらご指摘願う)。割と多いなぁという印象だ。つまり、それほど重要ということである。
他にも、「呪術者」や「霊媒師」などと訳出される単語もあるが、今回は「占い」に限る。さて、占いについて代表的な聖書の言葉を見てみよう。
<イスラエルへの掟>
まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神が何をなさるかは、時に応じてヤコブに、すなわちイスラエルに告げられる。
(民数記23:23)
この箇所の強調点は、「イスラエルと他の民を区別する」という点である。同様の記述は、実に多い(第二列王記17:17、エレミヤ27:9、など)。この時代、占いやまじないは、よくある宗教的な行為だった。神は、他の宗教とイスラエルの神への信仰を明確に区別するために、このような指示をしたのだろう。他の民族は、占いによって未来を知るが、イスラエルには神ご自身が何をするか示すという点が強調されている。
<イスラエルの祭司たちへの掟>
あなた(イスラエル)の神、主があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなた(イスラエル)は、その異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねてはならない。あなた(イスラエル)のうちに、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者(ぼくしゃ)、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行う者はみな、主が忌み嫌われるからである。(中略)あなたは、あなたの神、主のもとで全き者でなければならない。確かに、あなたが追い払おうとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきた。しかし、あなたの神、主はあなたがたがそうすることを許さない。
(申命記 18:9~14)
これは、占いなどに関する、一番基本的な聖書の言葉である。神は、イスラエルの民、とりわけ預言者や祭司たちに対しては、明確に占いやまじない、霊媒や口寄せを禁止した。神は一貫して、「自分が先に何が起こるか決定するのだ」と強調している。大切なのは、これは当時のイスラエルへの命令であり、外国人である現代の私たちへの直接的な命令ではないという点だ。それを忘れてはならない。ただ、神に聞くという姿勢は参考になる。
<偽預言者たちへの非難>
彼ら(偽預言者)はむなしい幻を見、まやかしの占いをして、「主<しゅ>のことば」などと言っている。主が彼らを遣わしたのではないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。あなたがたが見ているのはむなしい幻、あなたがたが語るのはまやかしの占いではないか。「主<しゅ>のことば」などと言っているが、わたし(神)が語っているのではない。
(エゼキエル書 13:6~7)
これは、他の宗教との対比ではなく、同じイスラエル人たちの中での対比である。神の声を聞いて、そのまま預言していた預言者たちと、自分勝手に預言していた偽預言者たちが、比較対象だ。神は、偽預言者たちの預言を「まやかしの占い」と言い、厳しく非難した。神の声を聞く行為と、それ以外の行為が「占い」とされ対比されているのが、ここのポイントである。
<まとめ>
・「占い」は「未来を知る」ための宗教的行為だった。
・イスラエルにとって「未来を知らせる」のは神ご自身であった。
・神は、イスラエルの民に対して、占う行為を明確に禁止している。
・ただし、この命令はイスラエルに対するものであって、外国人に対するものではない。
・ニセの預言をする行為も「占い」と呼ばれ、神に批判された。
・神は「私こそが未来に何が起こるか決め、そして知らせる存在なのだ」と強調している。
さて、もっと大きなスケールで聖書を見てみたい。占いに関する代表例を3つ挙げよう。占い師バラム。霊媒をしたサウル。そして、エペソの信者たちのリアクションから学びたい。
<バラクとバラム>
旧約聖書で最も有名な占い師は、バラムであろう。簡単に箇条書きで説明する。
1:バラクという王様がいた。バラクはイスラエルが勢いづいていているのでビビりまくり、何とかして、イスラエルを滅ぼせないかと、占い師バラムに使者を遣わした。(※なぜこんなややこしい名前を並べたのかと、神に文句を言いたくなるが、「オバマ大統領が王様」と覚えれば簡単だ。バラク・オバマだから。オススメの覚え方である)。
2:ロバが喋るなど、紆余曲折を経て(※民数記22~24章参照)、占い師バラムは、バラク王のところへ行く。
3:占い師バラムは、バラク王にせがまれ、3回イスラエルを呪おうとするが、その度に神からお告げを受け、逆にイスラエルを祝福してしまう。(※実は、先述した民数記23:23の言葉は、直接的にはバラムの言葉だが、これは神が彼に告げた託宣である)
4:結果的に、バラム王はイスラエルを呪うことはできなかった。
5:占い師バラムは、結局あっさりと殺されてしまった(ヨシュア記13:22)。
占い師バラムは、イスラエルを呪おうとしたが、結局のところ出来なかった。そして殺されてしまった。バラムは、その後も聖書の中で「反逆の象徴」として描かれている。まさに不名誉な称号を得てしまったわけだ。
<サウル王と霊媒師>
さて、イスラエルのリーダーの中で、占い・霊媒をした人がいる。それはサウル王である。簡単にまとめてみた(※詳細はサムエル記第一28章を参照)。
1:ペリシテ人(当時、イスラエルの最大の敵)たちが攻めてきた。
2:預言者サムエルは既に死んでいた。ほかの祭司たちが預言しようとしても神からの応えがなかった。為す術がないサウル王は、恐れて震えた。
3:どうにもならないので、サウル王は霊媒師に頼った。サウルは霊媒師たちを国外追放していたので、ばつが悪く、こっそり変装して出かけた。
4:変装したサウルは、霊媒師に預言者サムエルの霊を召喚するよう願う。サムエルの霊は出てきたが、サウルは「神に見捨てられた」という事実を知っただけであった。
5:結局、サウル王は、ペリシテ人との戦いで、息子たちもろとも戦死してしまう。その後、王位はダビデに引き継がれたのであった。
サウル王が霊媒師たちを国外追放していたことから、占いや霊媒は決して正しい行為と言えなかったと分かる。しかし、預言者サムエル亡き今、サウル王に残された選択肢は霊媒師に頼るというものだけだった。結局、サウルは自分が神に見捨てられたと知っただけで、死んでしまったのであった。この故事は、占いがネガティブに扱われていると同時に、当時の人々が禁止された占いという習慣をやめられなかったという事実も示している。
<エペソの信者たち>
新約聖書の時代の信者たちは、占いにどのような対応をしていたのだろうか。エペソ(今のトルコ)の信者たちについて、以下のような記述がある。
このこと(※使徒パウロのマネをして霊を追い出そうとした人たちが、えらい目にあった)がエペソに住むユダヤ人とギリシア人のすべてに知れ渡ったので、みな恐れを抱き、主イエスの名をあがめるようになった。そして、信仰に入った人たちが大勢やって来て、自分たちのしていた行為を告白し、明らかにした。また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持ってきて、皆の前に焼き捨てた。その値段を合計すると、銀貨五万枚になった。
(使徒の働き 19:17~19)
エペソにいた信者たちは、イエスを信じた。その結果、それまでやっていた宗教的行為を離れ、魔術書を焼き捨てたと記録がある。つまり、イエスを信じた後は、そのような占いに頼らなくなったのである。「使徒の働き」は、他にも魔術師エルマ(エリマ)との対決(使徒13章)や、占いをする女の霊を追い出す(使徒16章)などの記述もある。
これら3つのエピソードで分かるのは、「聖書は占いについて否定的なニュアンスで語っている」という事実である。占いはいつも悪者の象徴として描かれ、その人たちの行く末は破滅である。エペソの信者たちは、外国人も含めて、占いや魔術などの行いを捨てた。それは、イエスへの信仰を持つようになったからである。
聖書は「占い」について否定的である。しかし、聖書をよく読むと、実はイスラエルの民も、「占いチック」なことをやっていたという衝撃の事実が分かる。それは、祭司の儀式に関わる部分である。
さばきの胸当てにはウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの息子たちのさばきを胸に担う。
(出エジプト記 28:30)
ウリムとトンミムというのは、謎も多いのだが、どうやら「YES/NO」を決めるための「くじ」のようなものだったと言われている。ウリムは「光」の意味。トンミムは「完全」を意味する。おそらく、特別な石のようなものを、祭司のポケットに入れて、くじびきのような形にし、「白か黒か」「是か非か」「半か丁か」的な形で、未来を占っていたのではないだろうか。
前述したサウル王も、預言者サムエルの死後は、祭司のウリムとトンミムで神のお告げを知ろうとしていたようである。
サウルは主に伺ったが、主は、夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。
(サムエル記第一 28:6)
ウリムとトンミムによる「さばき」は、祭司およびレビ人の特権であったようだ(民数記27:21、申命記33:8など)。そして、少なくとも紀元前450年頃、エズラやネヘミヤの時代までは使用されていた方法だと分かる(エズラ2:63、ネヘミヤ7:65)。
他にも、ユダヤ人たちには「プル」という「くじ」で物事を決める習慣があった。また、先述の使徒の働きの記述からも、当時の人々がまじないや占いを(してはならないと命じられているにも関わらず)し続けていたのは、明白である。
では、これらの習慣は、現代の私たちが占いをしていい理由になるのだろうか。ポイントは、占いをする動機にある。
そもそも、なぜ占いをするのだろうか。その理由を考えてみると、スッキリする。占いとは、未来に起こりうることを、事前に知る行為である。なぜ知りたいのだろうか。それは、人間は先に起こることが分からないからである。先に何が起こるか分かれば、悪いことを避けられる。
要するに、人間、先のことが分からないと不安なのだ。なぜ占いをするのか。その理由は、「不安や恐れ」が根底にあると言っていい。言い換えれば、自分の運命や運勢、行く末を知って安心したいというのが、占いをする最大の理由だろう。バラク王も、サウル王も、不安で不安で仕方がなかった。だから占いをするのだ。
そう考えるとき、クリスチャンが占いをするという行為は、聖書の価値観とは、少しズレているのではないだろうか。聖書は恐れについてこう言っている。
神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちに留まっておられます。(中略)愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
(ヨハネの手紙第一 4:16~18)
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
(ローマ人への手紙 8:38~39)
クリスチャンにとって、自分の未来がどうなろうが、死のうがどうしようが、それを恐れる必要はないのである。むしろ、「恐れには罰が伴う」とさえ書いてある。神という存在は、愛そのものだ。その愛が心のうちにあるのであれば、自分の未来を心配する必要はない。ゆえに、イエスを心の中で信じるクリスチャンは、占いに頼らなくていいのである。クリスチャンは、自分の未来について、不安になる必要はないのだ。
これが、クリスチャンの魅力である。クリスチャンになったら、もう未来のことで不安になる必要はない。どんな災難が起ころうと、神の愛から私たちを引き離せはしない。だから、堂々と神・イエスに信頼して人生を謳歌すれば良いのだ。
もう一つ大切なのは、「神の主権」を認識することだ。未来を決めるのは神であり、この世の中のすべてを動かしているのも神である。その「のり」を占いという行為で、超えてはいけない。
イスラエルの人々の「ウリムとトンミム」に始まる占いチックな行為も、元をただせば、「神の指示を仰ぐため」である。行動はどうあれ、彼らのモチベーションは「神の声を聞く」というものだった。それは自分勝手な「占い」という行為とは、少し毛色が違うのではないだろうか。聖書において、神は一貫して、神が未来を定めると強調している。物事を成すのも神、そしてそれを告げるタイミングや方法を決めるのも神ご自身である。
人間は、先に何が起こるか分からない。クリスチャンであっても、預言という特別な能力を神から与えられている場合でない限り、明確な未来は分からない。預言者であっても、その預言は「本当かどうか吟味すべきもの」である(コリント人への手紙第二14章を参照)。本当に未来がどうなるのかは、神のみぞ知るのだ。イエス自身でさえも、世の終わりがいつ来るか知らないという記述もあるくらいだ。
しかし、クリスチャンが確信を持って宣言できる未来がある。それは、イエスがいつの日か、この地上に戻ってくるという希望である。イエスは十字架で私たちの罪のために死に、三日目に蘇り、弟子たちに現れ、天に上った。イエスは、私たちのために天に場所を用意し、またこの地上に迎えに来て下さる。私たちは終わりのラッパの合図とともに復活する。そしてイエスと会う。イエスはその後また帰ってきて王となる。その後、新しい天と地が創造される。私たちは、イエスと永遠を喜ぶ。これがクリスチャンが持っている希望である。これは、信じるだけで与えられる希望である。聖書は、この希望について、様々な形で約束している。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方(イエス)に信頼する者は、だれも失望させられることがない」
(ローマ人への手紙 10:9~11)
わたし(イエス)の父(神)の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
(ヨハネの福音書 14:2~3)
イエスが昇っていかれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ。白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、そうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」
(使徒の働き 1:10~11)
私(パウロ)があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと。また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。(中略)死が一人の人(アダム)を通してきたのですから、死者の復活も一人の人(イエス)を通して来るのです。(中略)しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。それから終わりが来ます。
(コリント人への手紙第一 15:3~24)
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響とともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主<しゅ=イエス>と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。
(テサロニケ人への手紙 4:16~18)
クリスチャンは、このような変わらない希望を持っているのだから、占いに頼る必要は、もとよりないのである。
さて、以上、聖書の価値観を述べたが、最後に、現実的に日本に満ち溢れる「占い」とどう付き合っていけばいいのか、私なりの考えを述べたいと思う。
まず、何度も述べたように、クリスチャンは未来を恐れる必要もないし、恐れてはいけない。だから、恐れから未来を知ろうとする「占い」に頼る必要はないし、頼らない方が良い。これは明確である。だから、占いを見たりするのはオススメできない。自分からタロット占いをやったり、星座占いを他の人を対象にクリスチャンがやってあげたりっていうのは、もっとオススメしない。
クリスチャンの中には、「預言」の賜物(≒神からの才能)を持っている人がいる。この「預言」については、いつか記事を書きたいと思っているが、これはノストラダムスの「予言」とは違い、神の言葉や思いを取り次ぐ、「預言」である。だから、「言葉を預かる」と書く。これは、少々デリケートな話題なので、深入りは避けるが、巷には「●●カフェ」とかのたまって、この預言を占いチックなものにしてしまっている不届き者もいるようだ。懸命な読者は、そのようなキリスト教ビジネスに騙されぬよう、気をつけるようオススメしたい。
占いは避けたほうが賢明だが、人間関係上、避けられないケースもある。例えば、一緒に神社でおみくじを引こうと誘われた場合などである。おみくじは、信じない人にとってはただの紙切れなので、霊的な効果は全くない。ただ友達と「大吉だった」「凶だった」と言って、楽しみたいというのだけが理由であれば、全く問題ないだろう。私だったらやらないと思うが。
テレビの占いなんて、インチキもいいところだ。以前「日付を間違えて放送してしまいました」などと訂正放送をやっていたのも見たことがある。有名な脚本家の三谷幸喜さんは、売れない放送作家だった時代に占いコーナーを担当したそうだが、その際、毎日、広辞苑の適当なページをひらいて、そこに書いてあったものをラッキーアイテムに指定していた・・・なんていう馬鹿みたいな話もある。
つまり、テレビの占いや血液型占い、星座占いなんていうものは、もとよりほとんどの人が本気で信じていない、ただのお楽しみクイズなのだから、別に気にする必要はないだろうというのが、私の意見だ。しかし、占いや魔術、オカルト系のものというのは厄介なもので、一度のめり込むと、どんどん深みにハマってしまう魔力がある。だから、私のオススメとしては、そういう類のものからは、一歩距離を置いた方が良い。何にしても「心の動機」が一番である。
占いなどというもので、いちいち心が盛り上がったり、沈んだりしていたら、人生ツマラナイ。変わらない神に希望を置く人生の方が、1億倍楽しいと、私は思う。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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