クリスチャンの埋葬は、どのようにすべきなのか? クリスチャンではない人に聞かれたので考えてみました。
「クリスチャンって死んだ後、死体の埋葬はどうするの? 土葬じゃないといけないの?」ある日、友人からこんなことを聞かれた。「埋葬の方法」は、20代の私にとって、正直言って、あまり考えてこなかったテーマだ。しかし、人間いつ死ぬか分からない。自分の考えを、今のうちにまとめておくのも悪くはない。果たしてクリスチャンは土葬すべきなのか、それとも火葬がよいのか。はたまた別の方法があるのか・・・。
「土葬」とは、死体をそのまま土に埋める行為を指す。日本語の法律用語では単純に「埋葬」というらしい。死体を火で焼いてから取り出した骨を埋葬する行為を「火葬」という。言わずもがな、日本では仏教の影響から「火葬」が主流となっている。
さらっと法律を調べると、一応、日本でも「土葬」は可能のようだ。しかし、現実的には様々な許可を取らないといけないため、日本での「土葬」は、ほとんど不可能、というのが実態のようだ。東京や大阪などの大都市では、そもそも土葬を条例で禁止しているところも多い。
一方、アメリカなどでは土葬が主流と聞く。土地が広大だから、という理由もあるだろうが、キリスト教の影響も否定できない。また、ユダヤ教は土葬である。これについては後で述べる。
クリスチャンは、自分が死んだ後、どのような埋葬方法をとるのがふさわしいのだろうか。火葬でもよいのか。いや、土葬でなければいけないのか。聖書は何と言っているのか。今回は、少しデリケートな「埋葬」の方法について考えてみる。
クリスチャンは土葬するべきだ、という意見がある。なぜなのか考えてみよう。これは、ユダヤ教の考え方も大きく影響している。以下、クリスチャンの基本的な考え方をまとめてみた。もちろん、細かい点は諸説あるが、今回は大枠で考えていただきたい。
<クリスチャンの基本的な信仰>
・いつの日か、メシアであるイエスがこの地上に帰ってくる
・その時、死んでいる者たちはみな復活する
・その際、タイミング・方法・場所などについては諸説あるが、信じる者たちはメシアたるイエスと会う
・一人残らず最後のさばき(評定)を受け、イエスを信じる者たちはいつまでも主たる神・イエスと共にいるようになる
このような考え方は、以下の聖書の言葉からも分かる。
<イエスの再臨>
そのとき人々は、人の子(イエス)が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
(ルカの福音書 21章27節)
こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」
(使徒の働き 1:9~11節)
<人間の復活とさばき>
神は主(イエス)をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。
(コリント人への手紙第一 6章14節)
しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。(中略)また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
(コリント人への手紙第一 15章35~44節)
ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。
(ダニエル書 12章2節)
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように
(ヘブル人への手紙 9章27節)
<復活した後に新しい存在となる>
兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。聞きなさい。私はあなた方に奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
(コリント人への手紙第一 15章50~52節)
イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
(テサロニケ人への手紙第一 4章14~17節)
・・・以上は、クリスチャンの基本的な復活についての信仰である。細かい点は、解釈が分かれる部分が多いが、概ねこんなところだろう。
死んだ後に復活するのだから、そのために死体をできるだけそのまま保存しておくべきだ。・・・このような考え方に基づき、ある人々は「クリスチャンは土葬すべき」と考えている。一定程度は理解はできるが、「果たしてそうなのか?」という疑問も残る。死体は、土葬であれ、火葬であれ、腐ったりしてしまったら、同じではないだろうか。であるなら、土葬でも火葬でも同じではないか? という疑問は拭えない。
ここで一旦、ユダヤ教ではどういう考えなのか、見てみよう。
↑エルサレム東部・オリーブ山のユダヤ教墓地(筆者撮影)
ユダヤ教は「復活」についてどう考えているのか。実は、「メシアが来る時に死者が復活する」という考えは、ユダヤ教もキリスト教も基本的には同じである。一部のユダヤ教の考え方では、メシアはエルサレム東部の「オリーブ山」に到来する。その際、復活して一刻も早くメシアに会えるようにと、オリーブ山には大量のユダヤ教墓地がある。聞くところによれば、この墓地は最高級の墓地で、偉業を成し遂げた指導者や、多額の献金をした人しか入れないのだという(ユダヤ教ツアーガイド談)。目覚めた時に、メシアと同じ場所にいるために、この墓地に入るのは最高の栄誉なのだとか。
↑ユダヤ教徒の墓の上には、このような小石が置かれている場合が多い(筆者撮影)
ユダヤ教には、誰かが死亡した後、24時間以内に埋葬しなければならない決まりがある。これは、おそらく中東の暑い気候によって、死体が早く腐敗してしまうからだろう。それゆえ、日本のような壮大な葬式は営まれない場合が多いという。
ユダヤ教の墓の上には、たくさんの小石が積まれている。これは、死後30日は死者の霊が浮遊しているという迷信から、「自分は墓泥棒ではなく、お墓を大事にしに来たんですよ」という敬意を示すための行為だそうだ(ユダヤ教ツアーガイド談)。現代でも、この習慣は引き継がれている。ユダヤ教にとって、死体は丁寧にスピーディーに、敬意を持って扱うべきものである。自分の死体を粗末に扱われるのは、ユダヤ教徒にとっては最大級の屈辱なのだそうだ。
話が少しそれたが、埋葬の方法は、ユダヤ教にとっても、キリスト教にとっても信仰と直結する大切なものである。「復活」という信仰がある以上、死体を焼かずにそのまま埋葬するのは、論理的には正しいように思える。
しかし、先述のとおり、死体をいくら保存しても、埋めれば腐ってしまう。ミイラのようにすれば一応は残るかもしれないが、シワシワのまま復活するわけにもいかないだろう。一方で、焼いてしまえば死体は灰になってしまうので残らない。一体、どこまでが「復活」できる範囲になるのだろうか。ここで、イエスが何と言っているか見てみよう。
イエスの時代にも、この「復活」をめぐる論争はあったようだ。詳細は、以前の記事を参考にしていただきたい。イエスは「復活はある」と明言した。では、その死体の扱いについて、イエスは何と言ったのだろうか。実は、イエスは直接「死体は土葬すべき」とか「火葬でもよい」などとは言っていない。しかし、それにつながるような発言は別の人物から出ている。バプテスマのヨハネである。見てみよう。
あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
(マタイの福音書 3章9節)
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
(ルカの福音書 3章8節)
当時のユダヤ人たちは、「自分はアブラハムの子孫だから、既に救われている」と考えていた。「救い」の定義の議論は避けるが、簡単に言えば、ユダヤ人として生まれた段階で神に愛されている。だからユダヤ人として生まれただけで神の国の一員となれる、そう考えていたのだ。
それに対し、バプテスマのヨハネは上のように指摘した。「神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫(イスラエル)を起こすことがおできになる」。それがバプテスマのヨハネの教えだった。これは、直接的に死体の埋葬方法を指示した言葉ではない。あくまでも、「ユダヤ人として生まれた者ではなく、神の計画に沿った者が神の国に入るのだ」と述べたのが本質的な意図である。
しかし、この言葉から、「神は人間をどんな状態からも復活させることができる」とも読み取れる。石ころひとつからでも、アブラハムの子孫、つまりはすべての歴史上のイスラエル人を復活させることさえ、神の力をもってすれば可能なのである。であるならば、神に信頼して、一旦は死んだ人がどのような状態であろうとも、神の力によれば復活できると考えるのは、当然ではないか。もしかすると、ヨハネの「石ころ」という言葉は、先に述べた「ユダヤ教の墓の上の石ころ」から着想を得ているのかもしれない。もしかするとイエスも、墓の上にある石ころをつまんで、「神はこの石ころからでも、イスラエルを再興できるのだ」と言ったかもしれない・・・。
そもそも、思い出してほしい。神は最初の人間アダムを、「ちり」から造ったのであった。「ちり」に「神の息」を吹き込むと、それは人(アダム)となった。それが土葬のように人の形をしていなくとも、またミイラのように保存されていなくとも、神の力をもってすれば復活するのだ。神は人間を「ちり」から造ることができる存在なのだ。
神の力、そしてバプテスマのヨハネの「石ころひとつ」の言葉を信じるならば、土葬であろうが、火葬であろうが、どんな状態であっても「復活」できる。つまり、結論としては、クリスチャンは「土葬でも火葬でもどっちでもいい」のである。それぞれが、神に信頼して決断した方法で埋葬すれば良い。それが私の結論である。
しかしながら、先述のとおり、日本では法的に「火葬」以外の埋葬方法はかなりハードルが高い。一部のキリスト教施設では土葬のような形が可能とも聞く。しかし、個人的にはそこまで無理をして土葬にこだわらなくとも良いと思う。日本の制度上、「火葬」が一番シンプルで、スムーズなやり方であろう。しかし、どんな形であっても、神は人をよみがえらせることがおできになる。埋葬の方法は、各々の信仰に従って選択すれば良いと思う。
イエス時代以外にも、旧約聖書の預言の中で、「ひからびた骨が復活する」という描写がある。それは、エゼキエル書にある。少し長いが見てみよう。
主<しゅ>の御手が私<エゼキエル>の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る』」
私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ』」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。
主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言っている。『私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた』と。それゆえ、預言して彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしの民よ、見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る。また、わたしがあなたがたのうちにわたしの霊を入れると、あなたがたは生き返る。わたしはあなたがたを、あなたがたの地に住まわせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語り、これを成し遂げたことを知る──主のことば』」
(エゼキエル書 37章1~14節)
これは、一度滅ぼされたかのように見えたイスラエルの国が、また再興するという預言である。打ちのめされたイスラエルの民を「ひからびた骨」にたとえている。その骨に肉が生じてまた復活する描写は、イスラエルの国が、ボロボロの状態からまた再興する様子を表している。
この聖書の部分は、一義的にはイスラエルの国家的再興の預言だ。そして、それは現実のものとなっている。神はこのように、何もないところから偉大なものを生み出すことのできる方である。無から有を生み出せる、唯一の存在である。その神に信頼するならば、たとえ自分の肉体が死後どのような状態になっていようとも、復活はできる。そこから肉を生じ、皮膚を生じ、また肉体としてよみがえることなど、神にとってはたやすいこと。クリスチャンにとって、埋葬方法は、悩むようなイシューではないと分かるだろう。
興味深いことに、イスラム教では死後、魂は肉体を離れると考えているため、死体の扱いは粗雑である。エルサレムにあるイスラム教のお墓を見たことがあるが、ユダヤ教の墓とは違い、かなり汚く、丁寧な扱いを受けていない印象だった。
このように、信仰と死体の扱いは、かなり密接につながっている。クリスチャンとしても、自分の死後、肉体をどう扱うか、今一度考えてみるのもいいかもしれない。いずれにせよ、神は石ころ一つからでも、アブラハムの子孫を起こすことができるのだ。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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