一流の証」
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、“
一流の証”ということを考えてみました。一流とは何か?と聞かれたら、皆さんは何と答えられますか? 私が学生の頃は、一流といえばすぐに「金持ち」を連想していました。しかし、世の中を少し知り、人間のことを少し知るようになると、金持ちが必ずしも一流ではないことに気づきます。そもそも一流というのは、大辞泉のよれば、「その分野での第一等の地位、第一級」という意味だそうですが、やはりどの分野においても、一流と呼ばれる人は、その技術、能力に秀でているだけではなく、その内面においての卓越性をも兼ね備えていなければならない気がします。それが政治家であれ、経営者であれ、また芸術家やスポーツ選手であれ、その働きをする卓越した能力と共に優れた人間性を併せ持つ人であることが一流の条件ではないでしょうか。昔からある諺に、「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」という言葉がありますが、この諺の意味は、学識や徳行が深い人ほど、人に対して謙虚であるということで、力がつき、成功している時こそ、謙虚に生きていきなさい、という戒めを表現した言葉です。
人間は富を得たり、有名になったり、卓越した能力を身に着けたりすると、すぐに天狗になり、周囲への感謝を忘れ、「自分は何でもできるんだ」と勘違いをしがちです。しかし、どんなに成功している人でも、多かれ少なかれ、両親をはじめ、いろいろな人たちの助けや親切や愛の上に今の自分の存在があるのです。ところが、自分の功績しか見えない人は、人から受けた助けや親切を忘れ、感謝もせず、高慢の罠に陥り、やがては立ち行かなくなる時が必ずやって来ます。それに対して、お世話になった人々への感謝を忘れない人は、人の貢献を正しく評価し、人を大切にし、その結果、多くの人脈を築き上げ、それが大きな力となって成功への道を歩むのです。その意味において、本物の一流は、それが政治家であれ、経営者であれ、どういう立場の人であれ、全員が共通した一面を持っています。それは、本物の一流には長年に渡って培われた謙虚さがあるということです。従って、それが分かってくると、私たちが若いときに一流だと思っていた人の多くが実は一流ではなく、私たちが一流だと思っていた人たちが惹かれる人たちこそが本物の一流と言える人たちなのです。そういう人たちは、皆さん謙虚で嘘がなく、真っ直ぐな人たちです。そして、どんな人に対しても一生懸命に話をしてくれます。そんな中、イエス・キリストという方は、本物の一流のPerfect Example(完全な見本)です。神の子であり、知恵と知識において群を抜き、多くの奇蹟を行う力を持ち、人々を魅了して止まなかったこの方は、ユダヤの民衆から王に祭り上げられるほどの人気と信頼を博しておられたのですが、そのような栄光の道に背を向け、貧しい人々を訪ね、病める人々を癒し、人々に仕える道を歩まれたのです。そして最後には、人類の罪の贖いのために、謙遜の限りを尽くして、自ら進んであなたや私の罪を背負い、十字架の上で身代わりの死を遂げて下さったのです。しかし、神はこの究極の謙遜を貫かれたキリストを三日目に死からよみがえらせ、この世のすべてのものの上に置かれたのです。
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