「知恵が必要である」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

 ヨハネ黙示録13章の主題は、「国家」、とくに「教会と国家権力の関係」の問題である。これについては先週も考えたが、今日は今一歩進めて考えたい。

 「国家」は社会に必要な秩序である。我々は無政府主義者ではない。パウロはローマ書13章で、「上に立つ権威」(1)は本来「神によって立てられたもの」(1)で、「悪を行う者には恐ろしい存在」(3)であり、「善を行わせるために神に仕える」(4)ものだと言う。時代が違うから全面的にとは言わないが、原則的にはこれに同意する。

 『日本国憲法』では、「主権が国民に存する」(前文)。天皇はもはや神格化された存在ではなく、「その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」(第1条)。「国権の最高機関である国会」(第41条)の権威も「国民に由来する」(前文)。民主主義においては、政治的権威は昔のように皇帝・領主・天皇といった「雲の上の」偉い個人にあるのではない。主権者である我々国民にあり、国民の代表が制定した「法」にある。国民は皆、「法」によって基本的人権を保証されるが、同時にもろもろの義務を負う。税金も納める。「法」に反したことをすれば、「法」によって罰せられる。その意味で権威はなくなったわけではなく、依然存在するのである。

 その限り、国家は必要な秩序である。しかし、絶対ではない。さまざまな間違いを犯すこともあるし、時には悪い政府や非道な指導者が本来の使命に逆らって恐ろしい罪を犯す。ナチス・ドイツはその代表だったし、戦時中の日本も同様だ。

 そのとき、神を信じ・その御意に従って生きることを願う信仰者(教会)はどうするか? これが黙示録の直面した問題だった。「悪法も法だ」と言って大人しく服従する人もいたであろう。しかし、旧約聖書の頃から、代表的な信仰者は「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5,29)という立場に立って悪しき権力者を批判し、抵抗した。無論、単なる「権力闘争」とか、「主導権争い」のためではない。神は、弱い立場にいる人々も「人間らしく生きる」ことを望み給う。「搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」(イザヤ書1,17)というのは神の永遠の意志だ。この神に従って、彼らは敢えて抵抗したのである。

 モーセは、イスラエル民族を奴隷にして強制労働を命じたファラオに果敢に立ち向かい、遂に民族を解放した。ダビデは信仰によってイスラエル王国を立てたが、後にその彼が驕り高ぶり、立場を利用して部下の妻を犯したとき、面と向かって痛烈に王を批判したのは預言者ナタンであった。ソロモンの後、王国は南北に分裂し、紀元前6世紀には遂に滅亡するが、その間の王たちはごく少数の例外を除いては悪い支配者で、これを記した『列王記』は、これらの悪しき王たちの罪が神の裁きを招き国を滅ぼしたのだという歴史観に貫かれている。その際、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった預言者たちは神の言葉に立って王を厳しく批判した。彼らは、真理のため、また、人間の尊厳のために敢えて権力者に立ち向かった。この精神が聖書の中には脈々と流れていることを忘れてはならない。内村鑑三とか矢内原忠雄といった人々は、この精神を受け継いだのである。

 ヨハネ黙示録もダニエル書と同じく、この系譜に立つ。謎めいた書き方も、時の政治的権力を痛烈に批判するために他ならない。

 13章1節では一匹の獣が「海の中から上って来る」。そして11節ではもう一匹の獣が「地中から上って来る」。「海」と「地中」は世界を二分する二つの領域である。ヨハネはこの二つを並べることによって、広い領域の全体を暗示している。つまり、「獣」とは、広大な領土と絶大な権力を誇ったローマ帝国のことである。

 この「獣」は、神に逆らう存在である「竜」と同様ものを言うことが出来るが、同時に「小羊に似ていた」(11)。小羊はキリストの象徴である(5.6)。つまりローマ帝国は、実質は悪魔的なのに、外見は神聖さを装っている。そして、「致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた」(12)。「先の獣」とは暴君ネロのことであり、この暴君は神格化され、その像は礼拝の対象となった。バビロニアのネブカドネツアル王と同じこと(ダニエル書3章)がローマでも行われたのである。

 さらに支配者は、「すべての者にその右手か額に刻印を押させた」(16)。牛や馬に焼き印を押して所属を明確にしたように、この「刻印」は皇帝への所属・忠誠を示す印である。この印を持たない者は「物を買うことも、売ることもできなくなる」(17)。つまり、経済制裁に遭う。現代でも、同じようなことが行われていないだろうか。

 さて、「数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である」(18)という最後の一句は、このような悪を行う支配者を暗示している。これについては古来いくつかの解釈があるが、最も有力なのは「ゲマトリア」という人名表現法を用いたとする説であろう。ポンペイの遺跡に、「私は、その数が545であるような彼女を愛している」という有名な落書きがあるそうだが、これは「ゲマトリア」の例である。

 ヘブライ語でもギリシャ語でも、アルファベットのそれぞれの字母に当たる数字がある。「ネロ・皇帝」をローマ字で表記すると、NRON・KSRとなるが、それぞれの字母の数字は、50・200・6・50・100・60・200だ。合計すると666になる。恐らく黙示録を読んだ信徒たちは、666という数字を聞けば直ちにネロのことを連想したであろう。そしてヨハネは、神として礼拝されるほどの権力を握った皇帝ネロもまた悪魔の手先である一匹の獣に過ぎず、やがて滅びるということを洞察したのである。この洞察には、もちろん信仰に支えられた知恵が必要だ。

 現在の世界の状況は、正にこの知恵を我々に要求しているのではないか。

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help