今回で「十戒」の講解を終わる。最後の第十戒は、「家を欲してはならない。妻、男女の奴隷、牛、ろばなどを一切欲してはならない」 (出エジプト記 20,17)という禁令である。申命記では順序が違い、最初に「隣人の妻」が来る。それから「家、畑、男女の奴隷、牛、ろば」と続く。「畑」は出エジプト記にはない。ともあれ、重点は「隣人の」持ち物を欲してはいけない、という点にあるであろう。自分の持ち物で満足せよ。
では、「欲する」とはどういうことか。
カルヴァンの『ジュネーブ教会信仰問答』は、「ある抑え難い…だが、思い」(問214)、あるいは、「まだ、人の心をくすぐるもろもろの貪欲の情」(問215)と説明している。いわば「内心の欲望」である。これは、それ自体としては鋭い人間洞察だが、第十戒がもともと意味していることとは微妙に違うようだ。
現代の旧約学者たちは、「欲する」に当たるヘブライ語の動詞「ハーマド」が、「奪う」という動詞と不可分に結びついて使われることが多いことに注目した。たとえば、イスラエルがカナンに入って先住民族の偶像を見たとき、金や銀の華麗な輝きに欲望を刺激されて、ある者は「欲しいなあ」と思うだけでは収まらず、実際に手を伸ばしてそれを奪った。だから申命記7,25は、それらの偶像を焼き捨てよと命じ、「それにかぶせてある銀や金にそれをことがあってはならない」と戒めているのである。また、ヨシュア記7,21にはアカンの「罪責告白」があるが、それは「わたしは…分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、」というものだ。
このように、「欲する」(ハーマド)とは単に「内心の欲望」だけに留まらず、「欲しくなったから奪い取る」という荒々しい行動まで含む言葉なのだ。この点を考えれば、「欲する」よりも「貪る」の方が感覚的にはぴったりくる。ひどい空腹の時に、人は「貪り食う」ではないか。この激しい語感がどこかに生かされた方がいい。
さて、ボンヘッファーがナチス支配下の教会の罪責を「十戒」に即して告白したことは、これまでにも度々述べた通りである。そして、第十戒については、彼は次のように書いている。
「教会は告白する。―― 教会は、、そのことによって人間の欲望を抑制しようとせず、むしろ促進した」。
ここで彼は、「安全・休息・平和・財産・栄誉」に言及している。これには意表をつかれる人も多いだろう。第十戒はもともと、家・妻・男女の奴隷・畑・牛・ろばといった「隣人の持ち物」に「貪り」の心を起こしてはいけないということであった。これは良く分かる。だが、ボンヘッファーは唐突にも、「安全」とか「休息」、「平和」、さらには「栄誉」をここで持ち出すのである。一体、これらは第十戒とどう関係すると言うのか? これは、度を越えた拡大解釈ではないだろうか?
そもそも、安全や休息、平和や栄誉などは、この世で生きる人間にとって必要不可欠のものではないか。イラクや北朝鮮の一般市民も含めて、どんな人でも、安全で心身ともに安らぐ暮らし・空爆のない平和な日々・人間としての名誉ある扱いを求めている。それが悪いことだろうか。
しかし、私はここで、ボンヘッファーがナチス支配下のドイツという状況の下でこれを書いたということに注意を促しておきたい。彼がこの「罪責告白」を書いていたとき(1941年頃)、ナチス政府はヒトラーの意を受けて、民族としてのユダヤ人を「根絶やし」にすることを国家の基本方針として既に打ち出していた。ユダヤ人問題の「最終解決」は絶滅以外にあり得ないという、恐ろしく不遜な考えである。この方針に従って、ゲシュタポは行く先々で無数のユダヤ人を組織的に大量虐殺し始めた。むろん、その莫大な財産はすべて略奪した。ナチスは、要するに「貪った」のだ。
もちろん、この罪に気づいて抵抗した牧師や信徒は少数ながら存在した。ボンヘッファーもその一人だった。だが、大多数の人々は知らぬ顔をするか、知っていても黙っていた。何よりも先ず自分たちの教会の安全・休息・平和・栄誉を守るためである。ボンヘッファーはそれを言うのである。神を信じ、主イエスに従うと称する教会が、壮大なスケールで行われている「貪り」には目をつぶり、先ず自らの安全・休息・平和・栄誉を手に入れようとする。これもまた、第十戒への重大な違反に他ならない。「要求する権利のない安全…」というのはこの意味である。
今、キリスト教国を自称する強大な国々が、「正義は自分たちにある」と主張して他国の領土に攻め入ろうとしている。今度の戦争は「ハイテク戦争」であり、そこで使われる兵器の破壊力は湾岸戦争の比ではないと言われる。そして、真っ先に苦しみを受けるのは常に子供たちや弱い立場に置かれた人々だ。戦争はこの人々の安全・休息・平和を奪い、慎ましい暮らしを瞬時に破壊する。これは主なる神が厳しく禁じられた「貪り」ではないか。そして、これを黙認して先ず自分たちの安全・休息・平和・栄誉を手に入れようとするのも「貪り」の一種ではないか。
現代の教会は、このことを問われているのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.