ヨハネの見た幻は続く。「見よ、小羊がシオンの山に立っていた」(1)。
「小羊」とは、黙示録では一貫してイエス・キリストの象徴である。5章には、小羊が七つの封印で封じられた巻物を解くとあるが、これは、イエス・キリストだけが歴史の行く手を示すことが出来る、ほかの誰にも出来ない、という意味である。その小羊が「シオンの山に立つた」! 「シオンの山」とはエルサレムの東にある小高い丘で、終末の時にはメシアが民を救うためにそこに現われると信じられていた(ヨエル書 3,5)。自分たちは、今は迫害に悩まされて「お先真っ暗」という状態にあるけれども、小羊は既にシオンの山に立っている! これがヨハネの信仰であった。
そして、「小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」(1)。「十四万四千人」という数は、イスラエル全12部族からそれぞれ一万二千人ずつという計算で(7,4-8)、これは完全数である。神の約束の相手として選ばれた「神の民」は、一人の例外も無く小羊のもの・小羊の父(神)のものだ。だから、7章4節にもあるように、彼らはなお、「大きな苦難を通って」(7,14)行かなければならないだろうが、最後には必ず救われる。「小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われる」(7,17)。心に沁み入るような慰めだ。
私はここで、キング牧師が「私には夢がある」と言ったことを思い起こす。いつの日か、人が肌の色で判断されたり差別されたりすることがなくなる。かつての奴隷の子孫たちと、奴隷所有者の子孫たちとが一緒に友情の食卓につく日が必ず来る。私には夢がある。ヨハネも同じように夢を見たのである。それは、「神の民」である教会が常に小羊と共にいて、どんな困難に出遭っても見捨てられることはないという夢だ。
次に音が聞こえた。黙示録は大変色彩が豊かで絵画的だが、同時に音楽的でもある。ヨハネは「大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた」(2)とあるが、これはただの雑音・騒音ではない。大編成のオーケストラと言うべきだろう。腹に響くような大太鼓のとどろき。そして「竪琴を弾いているような」(2)繊細な音。竪琴の音は、普通なら激しい雷のような音にかき消されてしまうところだが、ここでは双方の音が生きる。力強く、しかも美しいハーモニーだ。
それに合唱が加わる。5章にも、「万の数万倍、千の数千倍」(11)の天使たちが大声で賛美の歌を歌ったとある。それは、「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」(5,12)という新しい歌である。
何故「新しい」のか? 苦しみの中で喜びを、失望落胆の中で希望を歌うからだ。
ヨハネがこれを書いていた時、教会はローマ帝国による迫害の真只中にあり、ヨハネ自身もパトモス島に幽閉されていた。世界は、そして教会はこの先どうなるのか。先が見えない状態の中で、キリスト教徒たちはしばしば途方に暮れることもあったであろう。そのような状態の中で、彼らは歌を歌う。それは半ば自暴自棄になって口ずさむ歌や「引かれ者の小唄」ではない。「この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった」(3)とある。この歌は、「小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われる」と心から信じた者だけが歌うことが出来る歌である。だから新しい。
我々は、愛する者を失って悲しんでいる時も、悩み苦しんでいる時も、この新しい歌を歌う。既に地上の暗闇から解放されて、小羊がいる天上の光に包まれているが故に、この歌を歌うのである。
我々は今、大きな不安の中にいる。今週にも戦争が始まるかもしれない。戦争が始まればどうなるか? 米国は核爆弾を使うほど愚かではないと思うが、それに近い爆破力を持つ爆弾や、劣化ウラン弾などを確実に使うだろう。古代文明発祥の地の一つであるイラクは徹底的に破壊され、無数の人が死に、特に子供たち、将来の世代が打撃を受けるだろう。その影響は何世代にもわたって世界を苦しめるだろう。世界経済は大きな影響を受けるだろう。それだけの犠牲を払ってもテロは根絶されず、むしろ益々激しくなるだろう。世界はこの先どうなるのか? 我々には明日が見えない。
このような不安の中で、にもかかわらず我々は新しい歌を歌う。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1,29)と歌う。権力や暴力とは全く縁がない柔和な小羊。汚れなき血を流し、自己犠牲の愛を通して罪人を救った小羊に、人類の将来はかかっていると信じるからである。
最後に4節以下について一言したい。「女に触れて身を汚したことのない者」とあるが、これは性行動それ自体を「汚れたこと」として禁じているとか、女性を「汚れたもの」と蔑んでいるとかいうことではない。昔、イスラエルの兵士たちは、出陣する前には一時的に禁欲した(サムエル記上21,6)。また、ある信者の集団では、宣教の使命を果たすために出発する前は禁欲したといわれている。
小羊(キリスト)を信じて生きる人々は、「小羊の行くところには、どこへでも従って行く」(4)。この服従は、集中的な献身でなければならない。4節は、これ以上の意味を持つものではない。我々も、小羊に従って、集中して生きていきたい。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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