今日一日を導いてください 五十嵐健治
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
白洋舎という有名なクリーニング会社の創立者五十嵐健治は、日本で初めてドライクリーニングを始めました。彼は1877年3月新潟県の県会議員の子として生まれました。しかし8ヶ月で両親は離婚し、5歳で五十嵐家の養子となりました。彼は波乱万丈の生涯でしたが、その中でイエス様に出会ってクリスチャンとなり、それからの生涯は、最期まで熱心なクリスチャンとして活躍されました。彼は高等小学校卒業後、16歳で家を出て、丁稚や小僧を転々とし、そんな中、上毛孤児院(現、上毛愛隣社)の創立者クリスチャンの宮内文作氏に出会い「貧しい者たちにも食事が与えられるように」「親のない子をお守りください」との祈りに感動しました。しかし信仰はまだ芽生えることはありませんでした。1894年に日清戦争が勃発すると、17歳で軍夫(輸送隊員)を志願して朝鮮半島に従軍します。さらに1895年のロシア ・フランス・ドイツによる三国干渉の際には、ロシアに復讐するために北海道からシベリアへの渡航を企てます。ロシア潜入の準備に北海道に渡った健治でしたが、ある人に騙され北海道の原始林開拓の通称タコ部屋(監視付)に送り込まれ、重労動を強いられることになってしまいました。ある朝そのタコ部屋から健治は寝巻一枚で脱走し、18里(約70キロ)の山道を逃げて小樽まで来ました。しかし彼は人生に絶望して小樽の海で自殺まで考えました。そのような状態で小樽の旅人宿で、一人の商人クリスチャンである中島佐一郎氏と出会いました。その宿での中島氏との信仰問答を通して、健治はキリストを信じました。すぐに彼は小樽の町の井戸端で、中島佐一郎氏によって洗礼を受けクリスチャンになりました。健治は、「私は洗礼を受けてから朝起きると先ず神に『今日一日を導いてください』と祈りました。何かあると神に『このことはなすべきでしょうか、なさざるべきでしょうか』と相談しました。」また、本気で神の教えに従うということが、真の意味で人さまや社会のために益となるのではないかと、考えるようになったのです。その後、彼は牧師になることを願って上京します。しかし神学校に入ることが出来ず、三井呉服店(現在の三越)に入り、三越の宮内省係となりました。しかしこの仕事では日曜日の礼拝が守られぬと、退社してしまいます。その後190年(明治39)に白洋舎を創立しました。しかし当時、洗濯屋は人の汚れた着物を扱う職業として低く見られていました。彼は「人の汚れたものを綺麗にしてお返しする、これこそキリスト教徒の仕事にふさわしい」と言って起業したと言われています。その経営方針の第一に「どこまでも信仰を土台として経営すること」を掲げました。翌年、独力で日本初の水を使わないドライクリーニング開発に成功しました。また工場内にも会堂を建て、様々な機会をとらえて社員に福音を伝えました。 1941年に太平洋戦争が起ると社長の座を譲り、残りの生涯をキリスト教の伝道に費やしました。1957年頃にはクリーニング業者福音協力会を起しました。五十嵐健治自身が書いた自伝『恩寵の木漏れ日』の中で、かつて白洋舎が危機にさらされた重大事件があったことが書き残されています。社員のMさんという人物が自分の処遇を不満とし、新たなクリーニング店を開業したことに始まります。その時、Mさんは白洋舎の従業員を煽動して、お得意先から預かった洗濯物をわざと破損したり、納期を遅らせたりして、白洋舎の信用を失わせたというのです。その上で、Mさんの新しい店にそのお得意さんを引きつけ、協力した白洋舎の従業員を新しい店に雇い入れることをしたのです。白洋舎の工場はほとんど休止状態に陥りました。当時社長であった五十嵐健治は、憎悪と復讐心で気が狂わんばかりになったといいます。しかし礼拝で祈っていると、イエス・キリストの十字架があざやかに映し出されたのです。「自ら復讐するな、仇を報ゆるは我にあり」「神もしわれらの味方ならば、誰かわれらに敵せんや」という言葉でした。五十嵐さんは何度も何度もこの聖書の言葉を思いめぐらしました。そして神様に信頼する道を選ぶことを決意したのです。一方、反逆したMさんの新しい店は、仲間割れを起こしたあげくに火災を起こし、預かった洗濯物を多数消失して、閉店に追い込まれました。それらの事があった後にMさんは「これも神様の罰であると思ってお詫びを申し上げます」と五十嵐さんに謝罪したと言います。彼の生涯は波乱万丈でした。しかしキリストに捕えられ、キリストと共に生きた素晴らしい人生でありました。(LVJCCブログ制作チーム:薫)
ブログランキングに参加しています。クリックで応援してください。