教会暦によると、来週からは「待降節」で新しい年の歩みがが始まる。従って、今日が一年の最後の日曜日、「終末主日」である。古来、この日には「終末」に関する聖書の箇所が選ばれるので、今日は マルコ福音書 13章について話したい。32-37節 だけを朗読したが、13章全体を見渡しながら話しを進めたいと思う。
この章は「小黙示録」と呼ばれ、イエスは正に「終末」について語っている。
この時代の人々は、イエスも含めて、後期ユダヤ教の「黙示文学」の考え方に拠って物事を見ていたと言われる。
「黙示文学」とはどういうものか。「歴史は繰り返す」のではなく、始まりと終わりがあり、一度始まった時間は「一回限りの時」として繰り返しはきかず、終わりに向かって直線的に進んでいく、という時間論が根底にある。その上で、終末が近づくとさまざまな前兆が現われると考えられ、それは色彩豊かな幻を用いて描写された。典型的なのは「ヨハネの黙示録」であるが、を読んでも、その特徴は認められる。例えば、
「わたしの名を名乗る者が大勢現われる」(6)
「偽メシアや偽預言者が現われる」(22)
「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」(7)
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」(8)
「方々に地震があり、飢饉が起こる」(8)
――こういった描写を読むと、まるで今の時代のことではないかと感じられる。ベトナム戦争の頃から、「黙示録」とか「終末論」とかいった言葉がよく使われるようになったのも偶然ではないかもしれない。特に9月11日のテロ以来、人々の間に「終末の予感」が漂っているのを私は感じる。だが、これら数々の不吉な現象はまだ終末ではなく、「産みの苦しみの始まり」(8)に過ぎない、とイエスは言う。
苦しみはなおも続く。9節以下には、「あなたがた」、つまり、イエスが教えた愛を信じて生きようとする者たちは、逮捕・投獄されたり、「打ちたたかれ」たり、「総督や王の前に立たされたり」、要するに「すべての人に憎まれる」(13)ような目に遭う。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺す」(12)。つまり、愛し合って生きる筈の人間同士の間で、憎しみと殺戮が日常的に行われる。――これも、今の時代にそのまま当てはまる。
このようにして、「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来る」(19)。そして、「このような苦難の後」(24)で終末が来る、とイエスは言う。「苦しみを通して喜びを」とベートーヴェンは言ったが、苦しみを抜きにして終末が来ることはあり得ないのである。
しかし、私はここで、終末は単純に「滅亡」や「破滅」と同じではないという点に注意を促しておきたい。聖書の「終末論」は、「産みの苦しみの始まり」というイエスの言葉が既に暗示しているが、世間の多くの人が誤解しているように「絶望の教え」ではない。むしろ、「希望の教説」(熊野義孝)なのである。
それはこういうことだ。――我々が毎日見ているような世界の現実、その問題や矛盾や苦しみは、いつまでも続くわけではない。確かに今の世界は「憎悪と復讐の悪循環」を際限なく繰り返しており、それはほとんど永遠に続くのではないかと思われるほどだが、そういうことさえも、いつか必ず終わりを迎える。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から集める」(26-27)、とイエスが言うのはこの意味だ。
つまり、問題と嘆きに満ちたこの世界の重苦しい歴史はいつか終わり、「人の子」、つまり、愛こそ人間の本来の生き方だということを示された主イエスが、大いなる力と栄光を帯びて、再びこの世界に君臨する。世界の歴史は全く新しくされる。その時が必ず来る!
ヨハネの黙示録 21,1-5 には、この信仰が慰め深い形で展開される。
さて、今日の箇所はそれを受けて、「その日、その時は、だれも知らない」(32)と言う。いつ、今の世の苦しみが終わって、新しい天地が始まるのか。前兆はいろいろあるが、我々の内、誰一人としてそのことを正確に知っている者はいない。イエスはここで、「家を留守にする主人」の譬えを用いて、「いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からない」(35)、と言う。我々が知らないだけではなく、「天使たちも子も」(32)、つまり、主イエスでさえも、その日・その時を知らない。それを知っているのは、「父だけ」(32)、つまり、全知全能の神だけだ。
だから、終末があたかも自分の手の内にあるように言う人は、決定的な誤りを犯しているのだ。「終末が何日に来る」とか、「ハルマゲドンがくる」と言って人を脅かし、自分の意のままに動かすことは、人間には許されないことである。我々は謙虚に「知らない」と言うべきだ。それが、我々の生き方に健全な緊張感を与えるのである。「目を覚ましていなさい」(33)。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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