今日から「待降節」(アドヴェント)が始まる。礼拝が始まるとき、我々は讃美歌242番の1節を歌った。
「主を待ち望むアドヴェント
最初のろーそくともそう。
主が道をそなえられた
この時を守ろう。
主の民よ、喜べ。
主は近い」。
この歌を歌う中で、教会学校の生徒たちが蝋燭の一本に灯を点してくれた。蝋燭の灯は毎週一本づつ増えて行って、23日のクリスマス礼拝のときは、四本全部に灯る。このようにして、我々は主イエスが来られるのを待つのである。静かな喜びが我々の心を満たすのが感じられる。
「アドヴェント」とは、元々「近づく」・「到着する」を意味するラテン語の advenio から来た言葉である。それが、特にクリスマス前の四週間を指すようになった。「主を待ち望むアドヴェント…主の民よ、喜べ。主は近い」というわけである。
しかし、「主を待ち望む」とか「主は近い」という言葉の内容は、単に「クリスマスという祝日」を待ちわびるというような、表面的なことではない。
もちろん、そういうこともあっていい。ニューヨークで巨大なクリスマスツリーの「点灯式」があったというニュースを見た。何万個という電球を、しかも「赤・青・白」という星条旗の色を使って大きな樅の木の枝という枝に散りばめ、「カウントダウン」してパッと光りがついた時、一斉に拍手と歓声が上がった。暗い出来事が相次いだ今年、せめて華やかにクリスマスを祝うことによって憂鬱な気分を吹き飛ばしたかったのだろう。この気持ちはよく分かる。人々はこの後も、綺麗なカードや心を込めたプレゼントを交換したり、少しは贅沢な夕食を奢ったり、パーテイーに集ったりもするのだろう。こういうことも、あっていいのである。
だが、宴は過ぎる。「宴の後」に来るものは何か?
我々が待ち望んでいるのは、やがて色褪せる年中行事としての「クリスマス」ではない。「主イエスが本当に我々の生活の中に来て下さる」ことだ。彼が約束した「神の支配」が来ること。彼が教え・自ら実証した「愛」がこの世界の中で現実となること。ゼカリヤが預言したように、本当に謙虚で愛に満ちた方が世界を支配すること。その方が、戦車や爆撃機ではなく、あの大人しい「ロバに乗って」我々の世界に来ること。そして、「戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」(9,10)ことだ。我々が待ち望むのは、そういう意味での主の到来に他ならない。今年は特に強く、世界中の人々が主を待ち望んでいるのではないか。
さて、今日の説教のために選ばれた箇所は、待降節と直接の関係はない。だが、良く読むと、ここに書かれている言葉は正にアドヴェントに相応しい。
「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いて下さった」(20)、とある。
謎めいた文章だが、実は「垂れ幕」というのは、神殿の「至聖所」の前に下がっている幕のことである。ユダヤ民族にとって、「至聖所」は神殿の中でも聖なる中心で、そこには十戒を入れた「契約の箱」が安置されており、通常、誰も入ることを許されなかった。例外は年に一度の「贖罪の日」で、その日には大祭司がただ独り、自分の家族と全国民の罪の赦しを祈るために犠牲の動物を携えて入る。それ以外は誰も入れない。神は聖なる方であり、人間は罪深い存在である。神と人間は、天と地が隔たっているように、無限に遠く隔たっている。その象徴が「垂れ幕」であった。
ところが、イエスは神と人との無限の距離を一挙に乗り越えた。彼は、「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」(マルコ2,17)と言ったが、事実、自ら進んで「罪人や徴税人と一緒に」(同2,15)なった。人々の罪の赦しを宣言した。そのために命をかけ、「二人の強盗と一緒に」(同15,27)十字架につけられた。人間の方からは決して超えることの出来ない隔たりを、神の子のほうから乗り越えたのである。
このイエスが十字架上で息絶えた時、「神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた」(同15,38)という。これは、自ら「罪人の仲間に」なって下さった神の子イエスを通して、彼の十字架の苦しみによって、神と人間を無限に隔てていた「垂れ幕」が取り払われた、という意味であろう。我々一人一人にとって、神は近い存在となったのだ!
20節の「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いて下さった」という言葉は同じ意味である。神は近い存在となられた!これこそ、クリスマスの奇跡なのである。だから我々は歌う。「主が道をそなえられた/この時を守ろう。/主の民よ、喜べ」!
アドヴェントは、神の方から近づいて来ると、約束された時である。光はただ神から来る。しかし、我々の方でもこれに応じて、自分たちが持っている蝋燭に小さな灯を点す。このように、我々の方からも神に近づかねばならない。「信頼しきって、真心から神に近づこう」(22)という勧めは、そういう意味に理解していいであろう。
しかし、このような生き方を可能にするのは、我々自身の力ではない。「約束してくださったのは真実な方なのですから」 (22)と言われているように、真実な方の約束による。
神から見放されたのではないかと感じられるような、現在の世界の情況の中でもなお、神の方から近づいて下さるという約束が、我々には与えられている。この約束をして下さったのは「真実な方」である。彼に信頼しよう。「主は近い」。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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