「地上の幕屋・天の住みか」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「教会暦」は一年の終わりに近づいている。12月2日が「待降節(アドヴェント)第一主日」でその週から新しい年の歩みが始まるが、その直前の今の季節には、古来、「終わり」や我々自身の「死」について考えるのがキリスト教の伝統であった。先週「召天者記念礼拝」を守ったのもそのためだし、今日は「終末前主日」、来週は「終末主日」と名づけられ、聖書テキストもこれとの関連で選ばれる。

さて、今日の箇所には「地上の幕屋」という言葉が繰り返し出てくる。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても」(1)とか、「わたしたちは…この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」(2)とか、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいている」(4)とか、「地上の住みかを脱ぎ捨てたい」(4)とか。

この場合、「地上の幕屋に住む」というのは、「天にある永遠の住みか」(1)、「天から与えられる住みか」(2;4)に対立するものとして考えられている。これは明らかだ。要するに、我々の地上の生活という意味である。「体を住みかとしている」(6; 9;10)とも言われているように、肉体を持ってこの世で生きている我々の姿を、「地上の幕屋に住む」と表現しているのである。

そしてパウロは、この「地上の幕屋」で生きている我々は「重荷を負ってうめいて」おり、「苦しみもだえて」いる、と言う。地上における我々の生活は「主から離れた」(6)ものであり、それは「滅び」につながるものだ、とも言う。

このような言い方は、パウロ自身の体験から来ている。かつてはユダヤ教徒のエリートとしてキリスト教徒迫害の急先鋒であった彼は、ある日、突然回心してキリスト者になるが、それからの彼の生活は苦難に満ちたものであった。仲間のキリスト教徒たちからも、前歴ゆえに疑惑と不信の眼差しで見られたし、それに加えて健康上の問題もあった。長い伝道旅行の間、これらの問題がどれほど彼を苦しめたか分からない。パウロは、第二コリント11章でそのことを率直に告白している。

「…苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。…しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野の難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(23-27節)。

もちろん、これはパウロに限ったことではない。例えば、今、私の念頭には、アフガニスタンで厳しい冬を迎えようとしている難民の人々のことがある。今読んだパウロの言葉は、この人々が語ったとしても不思議ではないだろう。「川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともある」。

こういう生活をした人が、自分たちにとって地上の生活とは、「重荷を負ってうめく」こと以外の何物でもないと感じたとしても、無理はない。この人々は何度、「この地上の住みかを脱ぎ捨てたい」と思ったことだろう。「天にある永遠の住みか」に行けば、こういう苦しみから逃れられる。ああ、「天から与えられる住みかを上に着たい」!「住みかを上に着る」とは変な表現だが、これは、いわば「難民の言葉」である。住む所も着る物も持たずに「うめいている」人にとって、「天から与えられる住みかを上に着る」ということは、切実な求めであり、祈りなのだ。

それにもかかわらず、パウロのこれらの言葉には、「現世を否定してただひたすら天における浄福を求める」というような彼岸的な思想はない、ということに注意を促しておきたい。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(4)。

これが、聖書の信仰である。この世の苦しみを身に沁みて感じながら、それでもなお、この世から逃げ出そうとせず、現世に留まって生きる。絶望しない。それは「神がその保証として"霊"を与えて下さった」(5)からだ、とパウロは言う。だから、「わたしたちは、いつも心強い」(6)。「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからだ」(7)。その時に、我々の目には、神が創り給うた世界の美しさも見えてくるであろう。

最近私は、ルイ・アームストロング(1901-1971)の歌に惹かれる。「サッチモ」と呼ばれて全世界に愛されたこの人物は、ニューオリンズの貧しい黒人街に生まれ、少年院に入れられるような子供だったが、後にジャズで大成する。1967年に歌った歌に、「この美しい世界」(What a wonderful world)をというのがある。

「緑の木が見え、赤いバラも見える。私のために咲いてくれる。私は思う、何と美しい世界だろう。青い空が見え、白い雲が見える。輝くような、祝福された日。暗い聖なる夜。私は思う、何と美しい世界だろう。虹の色は空であんなに美しく、通り過ぎる人々の顔にも映える。人々は手を握り、始めましてと挨拶する。あなたが大好きですと言う。赤ん坊が泣き、育つのを私は見守る。この子たちは、私が知っているよりもずっと多くのことを学ぶだろう。私は思う、何と美しい世界だろう。そうだ、私は思う、何と美しい世界だろう」。

これは単に甘ったるい楽天主義ではないだろう。また、そうしてはならないのだ。


 
 

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