今日は、「召天者記念礼拝」。名簿には、多くの懐かしい信仰の先達たちや、まだ我々の記憶に新しい方々の名が記され、前の方には写真も飾られている。ご遺族と共にこの礼拝を守れることを心から感謝したい。また、正規の会員でないために名簿に載っていない方々とご遺族のことも併せて覚える。心から神の慰めと恵みを祈りたい。
さて、「召天者を記念する」とは、どういうことだろうか。
日本ではよく「冥福を祈る」というが、これは、キリスト教の言葉に直せば、「死者たちを記念し、その方々が主と共にあることを信じ、祝福を祈る」ということだろう。だが、我々が「記念する」という場合、単にそれだけにとどまらない。それは、「その人々の志や祈りを残された我々が受け継ぐ」ということをも意味する。
召された方々には、「この世で真剣に祈り求めたこと」があった筈である。小さくは家族に関する心配ごとから、仕事の目標、そして、大きくは社会的な使命や思想上の課題に至るまで。だが、人生に完全ということはあり得ないから、恐らくすべての方は、自分の志や祈りを十分に果たすことができないままに心を残しつつ未完の人生を中断しなければならなかったであろう。その祈りと志を受け継ぐこと。「召天者を記念する」とは、そういうことである。
私がまだ学生の頃、一人の友人(清水悟君)が急性骨髄性白血病で急逝した。葬儀が彼の故郷甲府で行われたとき、恩師・鈴木正久牧師はこの若者の死をひどく悲しみながらも、忘れ難い告別説教をした。「愛する者が葬られた大地は、そのことによって神聖になる」というのである。――畠に花の種子を蒔いたり球根を植えたりした後、我々は周りを囲って、そのことを知らない人がドカドカ踏み荒したりしないように守る。また、種子が無事に芽を出して花をつけるように大切に見守る。ちょうどそのように、残された者たちには大切な課題が残されるのだ、と先生は言われた。愛する者が葬られた大地はそのことによって神聖になる! これが真理であることを、私も齢を重ねるに従ってしみじみ思う。死んで行った人たちの、多くは未完のままに終わった志と祈りを、残された者は受け継がねばならない。いい加減に生きる訳には行かないのである。
では、先に召された人々の志、祈りとは何だったのであろうか?
むろん、具体的に見れば、この方たちの志や祈りは一人一人みな違うだろう。だが、すべての人に根本的に共通するものがあるのではないか。
ある医学部の先生が、こう言われた。「死が近づいている病人が、元気を取り戻し、あたかも回復したかと思われる時があります。その間に、病人は、し残したり、言い残したり、したいと思っていたことを成し遂げることがあるのです。私たちはこの時間を『仲よし時間』と呼んでいます」。
『死にゆく者からの言葉』を書いた鈴木秀子さんは、沢山の人の臨終を見取った経験からこれは本当だと感じ、この人生最後の仕事は「自分自身との仲直り、他者との和解という作業」だと書いている。人は、意識するとしないとに関わらず、また、仮りに言葉で明瞭に表現することができないような状態であっても、最後の瞬間まで、「自分自身との仲直り、他者との和解」を祈り求めるものだ、というのである。
聖書はこれを「平和」(シャローム)と言う。自分自身の中に、そして、他者との間に、本来あるべき美しい関係(平和=シャローム)が回復されること。アッシジのフランチェスコが祈ったように、「憎しみが愛に、いさかいが赦しに、分裂が一致に、疑いが信頼に、誤りが真実に、絶望が希望に、闇が光に、悲しみが喜びに」変えられること。これこそ、先に天に召された方々の最も深い所にある祈りだったのではないか。我々は、その祈りを受け継いで祈り続けなければならない。
だが、我々はしばしば、「祈っても祈っても、神は聞いて下さらない」という気持ちに落ち込むことがある。9月11日のテロ以降、憎しみと復讐の悪循環が一層増幅し、「キリスト教国」と言われる国々が戦争に狂奔している様を見ると尚更そうだ。
しかしイエスは、「気を落とさずに絶えず祈る」ように教える。「気を落とさずに」というのは、「落ち込まないで」ということである。落胆せず、倦まずたゆまず、いや、むしろ「しつこく」祈り続けなさい、というのである!
その例として、イエスは「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」(2)の話を持ち出す。自分で恥ずかしいとも思わずにそう公言する位だから、相当したたかな奴である。普通、裁判に訴える時は、少なくとも裁判官の良心は健在であることを前提し、その良心に向かって訴えるが、それがここでは期待出来ない。情況はかなり絶望的だ。
しかし、このような不正な裁判官でも、「法に照らして正しく裁く」とか、「憐れみの心を持つ」とか、そんな立派な動機からではなく、むしろ極めて利己的な動機から、寡婦の訴えを取り上げることがあり得る、とイエスは言うのだ。「あのやもめは、うるさくてかなわない」、そろそろその言い分を聞いてあげないと、「ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」(5)。
同じような話は、ルカ11,5以下にも出てくる。しつこく祈り求めれば、遂にはどんなに利己的な人でもそれによって動かされる。人間の世界はそういう基本構造を持っている。それは、「神が人間の祈りを遂には聞いて下さる」ということが根底にあるからではないだろうか。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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