「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。
死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。
我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」
この項目は、SLEY宣教師・吉村博明(神学博士)が2018年11月2日に日本福音ルーテル名古屋希望教会にて行った講演「復活信仰と日本的霊性の挑戦」を掲載したものです。
本講演では、復活を眠りからの目覚めと捉えたルターの教えに焦点をあてて、復活をそのように捉えた場合、どのような死生観が生じるかを考える。従って本講演は、復活信仰を歴史学的聖書研究(釈義学)の観点で扱うものではない(注)。
(注)ここで、歴史学的聖書研究の観点で「復活」を扱うとどういうことになるかということについて一言述べておく。歴史学的聖書研究では復活信仰がはっきり現れるのはダニエル書12章1-3節と見なされる。もしそうだとすると、復活信仰は終末論的アポカリュプティズム(啓示思想/黙示思想)の思潮と関連づけられることになり、それは第二神殿期のユダヤ教社会の対内的・対外的危機に対する危機打開の思想として考えることができる。新約聖書から明らかなように、復活信仰はキリスト教に受け継がれた。それは、イエス・キリストの死からの復活という事件があったからである。キリスト教に受け継がれることで復活信仰は、第二神殿期ユダヤ教社会の文脈を超えた普遍的な意味を持つことになる。
そのように見ると、歴史学的聖書研究の課題として復活信仰を論じようとすると、まずプロローグとして、第二神殿期以前のユダヤ教の伝統の中で復活信仰の萌芽や形成をみること、次に第二神殿期でそれがどのように成立し展開したかを見ること、そして、キリスト教がそれをどのように受け継いだか、その際イエス・キリストの出来事はどのような役割を果たしているかを見ること、以上が考えられる。最後にエピローグとして、キリスト教の復活信仰はどのような展開を遂げたか、特に西方・東方、カトリック・プロテスタントと分裂していくなかでどのような展開を遂げていくかを見ることも考えられる。ただし、これは歴史学的聖書研究の分野ではなく教義学の分野になろう。
なぜルターの教えに着目して復活信仰を論じるのかと言うと、それが死者の霊を崇拝対象とする日本的霊性と際立つコントラストを示すからである。ルターの復活観が日本的霊性を明るみに出すと言える。同時に、明らかにされた日本的霊性が復活信仰にどんな挑戦を突き付けているかも見えてこよう。挑戦を突き付けられたキリスト信仰者は自分の死生観を明確にすることを迫られる。
従って本講演は、ルターの復活観に立つ場合、日本にいるキリスト信仰者はどのような死生観を持つのが妥当なのかを探る試みになる。そのような観点で復活信仰を扱うので、歴史学的聖書研究の観点では重要となる事柄、例えば第一コリント15章の分析、「霊」とか「魂」と言った言葉の明確化は特になくても問題ないと思われる。もちろん、復活信仰についての議論は歴史学的聖書研究、教義学、宗教倫理の見識が求められる、とても広い大きいテーマである。一回きりの講演で取り扱い切れるものではない。そのため本講演は全く序論的な議論の域を脱しないものである。
(1)マタイ9章24節のイエス様の言葉(「娘は死んではいない。寝ているだけだ。」)についてのルターの解き明し(教会標準説教集III三位一体主日後第24主日の福音書による説教から、フィンランド語訳からの和訳)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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