昨年の「召天者記念礼拝」は11月14日だった。それからの一年間に、我々は新たに加藤勇兄、秋田聖子姉を天に送った。その他に、正規の教会員ではないが、会員の関係者としてこの教会で葬儀をした人に深見敦夫兄がいる。私自身の姉・淑子もその一人である。それ以前に召された多くの兄弟姉妹に加えてこれらの方々を覚えながら、今日、我々はこの礼拝に集っている。神の豊かな慰めと祝福を祈りたい。
さて、今日の説教のために私が選んだ短いテキストは、今世紀最大の神学者の一人であるカール・バルトが、突然の死を迎えた息子の葬儀に際して選んだ個所である。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる」。
ローベルト・マテイアス・バルトは彼の末っ子で、その時ちょうど20歳になったばかりであったが、1941年6月にスイス・アルプスに登山中、「フリュンデンホルン」峰で滑落した。救助された時はまだ息があったが、翌日、病院で絶命した。家族の中で辛うじて臨終に間に合ったのは、母親だけだったという。葬儀はバーゼルで行われ、父親のバルト自身が説教をした。こういうことが起こった時、私だったら自分で説教することが出来るかどうか。しかし、バルトはそれをやってのけたのである。この時の哀切で、それだけに人を深く慰める説教は、日本基督教団出版局刊『バルト説教選集』第18巻に出ている。私が翻訳した。
「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる」。この言葉をバルトが選んだのは、マテイアスがまだ少年の頃からこの聖句に深い関心を抱いていたからである。バルト家のある部屋には19世紀の神学者アウグスト・ネアンデルの肖像画が一枚かけてあり、その下にネアンデルの手書きでこの聖句が書かれていた。少年は、普通だったら見逃してしまうこの小さな言葉と出会ったと言うべきだろう。やがてこの言葉のラテン語訳もどこからか見つけて来て、これについていろいろ考えていたらしい。父バルトはこのことを記憶にとどめていた。そして、彼を追憶する中で新たにそのことを思い起こし、この息子を天に送るに際してこれほど相応しい言葉はない、と考えたのであった。
愛する家族と死別することは、どんな場合でも悲しい。しかし、子供が先に死ぬことほど、親にとって辛いことはないであろう。バルトはこの悲運に突然遭遇した。だが、彼はただ悲嘆に沈むのではなく、一人のキリスト教徒として、この出来事を「神の御言葉の慰め深く解放的な光の中に置く」ことを願って説教した。そしてその中で、我々がどこで、また、どのように生きているにせよ、「『今』と『しかしその時には』とは、二つとも真実である」と言っている。正にこのことが、我々をも「神の御言葉の慰め深く解放的な光の中に置く」。我々は、このことが今日の我々にも妥当するということを、心に染みるような切実さで確認するのである。
人は誰でも、「今は鏡におぼろに映ったものを見ている」。我々が今、自分の目で見ていること、耳で聞き、体で体験していること。それは、物事の究極的な真相というわけではない。喜びであれ悲しみであれ、我々が知っていることは事柄の全体ではなく、その小さな「一部分」に過ぎない。だからどんなに嬉しいことがあっても有頂天になって誇り高ぶることは許されないし、逆に、どんなに多くの悲しみの涙を流している時でも、そのことによって徹底的に打ちひしがれる必要はないのである。
「だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる」。
「その時」とはいつのことか? 神が来らせる「終末の時」のことである。その時には一切がはっきりするであろう。今既にすべてをご存知の神が、その時には我々に一切の秘密を明かして下さる。「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。
マテイアスの死は早すぎたと、彼を愛した家族は皆思ったであろう。「どうしてこんなことが起こったのか?」 このことは、我々人間には謎である。
だが、それは「永遠の不気味な秘密」というのではない。やがて「その時には」残りなく解明される。「今は鏡におぼろに映ったもの」が辛うじて見えるだけだが、「その時には」すべてを知り給う神によって、一切がはっきりする。我々は皆、この二つの時の間に生きているのである。
神学部に入って神学の学びを始めたばかりの20歳の息子が「早すぎる死」を迎えたことを、バルトは嘆いたかもしれない。だが、「早すぎる」とか「十分な長さ」とか、どうして言えるのか? 彼自身は82歳まで生き、多くの仕事をこなしたが、その彼も、自分の生涯が断片に過ぎないということを良く知っていた。大河のような『教会教義学』を書き続けて第4巻第4分冊まで来た時、彼はその巻に「断片」という副題をつけて筆を折り、それから間もなく死んだ。予定では第5巻「終末の完成」を書く筈であったが、それはもう不可能であった。モーツアルトが「死者のためのミサ曲」を未完のまま残したように。
恩師・鈴木正久牧師を瀕死の床に訪ねた時、「バルトが『終末の完成』の巻を書かずに死んだことの意味が良く分かった、生きている間に分かったような顔をして書くことは出来ないのだ」と言われた。然り、それは「その時に」明らかになる他はないのだ。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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