「かけがえのない存在」ルカ15:1-10 中村吉基

出エジプト記32:7-11,13-14;ルカによる福音書15:1-10

出エジプト記32:7-11,13-14;ルカによる福音書15:1-10

今日は最初に考えてみてほしいことがあります。

皆さんが電車の運転士だとします。今皆さんが運転している電車は100キロ近いスピードで走っています。ところが前のほうを見ると、5人の作業員が工具を手にして、線路上に立っていました。皆さんは電車を止めようとしますが、もうブレーキが利きません。このまま行くと5人を轢いてしまうことになります。その時、ふと右のほうを見ると退避線がありました。ここにも作業員がいましたが、1人だけでした。皆さんがこの状態に立たせられたらどうするでしょうか。まっすぐ進んで、5人を轢くでしょうか。それとも退避線に入って1人を轢くでしょうか。5人轢くよりも1人のほうが、被害が少ないので、退避線に入ることは正しいことでしょうか。

それでは別の提案をします。

今度は皆さんが運転士ではなく、橋の上でこの電車を見下ろしているとします。電車は、もの凄いスピードで走り、前方にいる5人の作業員を轢いてしまいそうです。その時、横を見ると同じ橋の上にとても大柄の男がいました。今、この男を橋の上から突き落とせば、電車の行く手を阻むことができます。この大柄な男は犠牲になるでしょう。しかし5人の作業員は助かることができる確率が高いとします。もし皆さんだったらこの男を突き落として、5人の作業員を救うでしょうか。

おそらく皆さんはこの男を「突き落とさない」という意見ではないでしょうか。

最初の話に戻りますと、電車が退避線に入るのは正しくて、次の話では、男を橋の上から突き落とすことは間違っていると皆さんが思うのはどうしてなのでしょうか。

最初の話では、どちらにしても電車が原因で人が犠牲になります。けれども2番目の話で橋の上から男を突き落とすのは殺人行為です。突き落とす、突き落とさないというのは自分の選択ですが、電車が暴走するのは自分の選んだことではないと断定できるでしょうか。

いずれにしても、人が犠牲になるのは同じです。横にいた男を線路に突き落とすのは殺人行為であり、電車の運転をしていて、人に死をもたらしたのとは明らかに違います。

これはひと頃日本でも一世を風靡しましたアメリカのハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「正義」に関する授業の討論の一端をご紹介しました。

さて、私が最近よく考えていることの一つは、なぜ人は競争しなければならないのか、あるいはなぜ人は勝たなければならないのか、ということです。この世の中はどれだけその人が、仕事ができるのか、どれだけの才能をもっているのか、豊かなのか、貧しいのか、利益をもたらすのか、損をするのか、いてくれなければならないのか、いなくていいのか等など、そのようなことで1人の人の価値を決めていないでしょうか。そのような社会では役に立たないもの、失敗したものはますます不要とされるのです。そして容赦なく切り捨てられていきます。

しかしイエスさまの価値観は現代社会とは真逆のところにありました。でもそれは当時のパレスティナの社会が持つ価値観とも正反対のものでした。イエスさまが大切にされたのは社会から、のけものにされた人々、落ちこぼれた人々、しょうがいを抱えた人々、女性や子ども、食うや食わずで、歩くこともままならない人々でした。だから今日の1節のところで、きちんと聖書は証言しています。

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

イエスさまは「徴税人」や「罪人(とレッテル貼りされた人々)」と食事を共にしました。食事を共にするということは、私たちの常識でもそうですが、親しく交流するということです。イエスさまに敵対するファリサイ派や律法学者たちは、「なぜあのような者たちを相手にするのか」と問いただすのです。その答えとしてイエスさまは3つのたとえ話をするのです。それが15章に記されてあります。今日は最初の2つのたとえ話から聴いています。

そして天の神さまは、彼らを深い愛とあわれみを持って慈しんでくださることを示して下さいました。貧しい民衆とローマ帝国の間に立ち、税を取り立てるだけでなく、中間マージンのようなものを取り、生活を営んでいた徴税人(この徴税人は異教を崇めるローマに仕える者たちとしてユダヤ人たちからは忌み嫌われていました)そして律法を守ることができないことで「罪人」とレッテル貼りをされた人々と交わることなど汚らわしいと考えていた、ファリサイ派や律法学者たちからは当然、批判の対象となったのです。

「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(2節)と不平を言いだした。

とある通りです。

そこでイエスさまは100匹の羊を持つ人のたとえを語られました。そのうちの1匹が行方不明になった時、1匹を探すことが危険を伴うこともあるでしょうし、大きな犠牲を払ってすることになるかもしれません。普通ならばあきらめて当然と言っていいかもしれません。しかし、この人は違っていました。99匹を野原に置いてまで、その1匹を探し出すまでくまなく努力しました。そしてその1匹を見つけた時に、「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(5-6節)というのです。たった1匹とて決して失われてはいけない存在だったのです。

そしてもう1つイエスさまはたとえを語られます。

「無くした銀貨のたとえ」です。ここに出てくる女性は、ドラクメ銀貨を10枚持っていました。1枚は当時の日給程度と考えられていましたので、日本円で換算して8000円ほどだと考えてください。ですから80000円です。しかしその中の1枚を無くしてしまいました。貴重な銀貨です。貨幣はかつての中近東ではアクセサリーとしても使われていましたからその1枚を無くしたのかもしれませんし、当時の住宅は薄暗くもありましたから、一生懸命に「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか(8節)とあります。そしてここからが大事なところですが、「見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう(9節)と、もうたいへんな喜びようなのです。

この2つのたとえをお聞きになって皆さんももうお気づきでしょう。「1匹の羊」「無くした銀貨」は私たち自身のことを言っているのです。神さまはこの現代社会にあっても、誰ひとり無駄な人はいないし、役立たない人もいないし、死んでいい人もいないのです。たとえこの世の価値観で社会からつまはじきにされた人であっても、神さまの価値観からすれば、いなくてはならないひとりなのです。そして皆さんはかけがえのない存在です。神さまが良しとなさらなければ、この世に生を享けることもなかった私たちのいのちです。神さまは今も私たちを探しておられるのです。そして私たちに神さまの愛を示そうとされるのです。私たちは「1匹の羊」「無くした銀貨」です。それが無事に見出されるまで神さまはけっしてお喜びになることがないのです。皆さんはひとりひとり、かけがえのない存在なのです。

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