過去記事 ① ② ③
前回の記事では、創世記における性や結婚の記述をそのまま神の創造のオリジナルデザインと捉えるライトに対して、そこで提示されているバイナリー的・異性愛主義的な考えは普遍的なものではなく、創世記が書かれた当時の古代イスラエル人の人間観が反映されているのではないかと論じ、その根拠として、天地創造の記述に古代の宇宙論が反映されていることを挙げました。
このような議論に対しては、次のような反論が予想されます:
古代の宇宙観に基づいた創造記述は、神が例外的に当時の人々の世界観に合わせて語られた部分であり、それを文字通りに受け取る必要はない。しかし、人間の性や結婚について書かれた箇所は普遍的な教えであって、これらを安易に混同すべきではない。我々は聖書のどの部分が書かれた当時の文化の限界内にある相対的な教えであり、どの部分が普遍的な真理なのかをしっかりと見分けていく必要がある。
今回はこの問題について考えていこうと思います。
聖書の中に、書かれた当時の世界観や社会的価値観が反映されている部分があることはよく知られています。前回紹介した宇宙論は一つのわかり易い例です。古代の「天・地・地下」からなる、いわゆる三層構造の宇宙論は、現代の科学的世界観から見れば間違っています。しかし、そこから直ちに、そのような世界観を前提として書かれた聖書の記述が誤っているということにはなりません。神はそれが書かれた当時の人々の認識のレベルに身を低くしてくださって、彼らに分かる形でご自身について啓示されたのであり、世界の科学的な構造に関する知識を教えることがその記述の目的ではないからです。ちょうど大人が小さな子どもと会話をする時、子どものレベルに合わせて語彙や話し方を変えることと似ています。このような現象を「順応accommodation」と言います。
順応は聖書を理解する上できわめて重要な概念です。順応をまったく否定して、聖書のテクストに書かれていることすべてが普遍的妥当性を持つと考えるならば、多くの問題が起こります。たとえばパウロは1コリント11章で、女性は公の礼拝では頭にかぶり物をつけるように命じていますが、現代のキリスト教会の多くのグループはこの命令を文字通りに守ってはいません。1世紀のローマ社会では既婚女性が公の場で頭を覆っていないのは恥ずべきこととされましたが、現代ではそのような社会的通念はないからです。
したがって、ほとんどのキリスト者は、神が少なくとも部分的には執筆当時の人々の認識レベルに順応して聖書を執筆させたことを認め、そのような部分は今日の神の民には直接的に適用することはできないと考えています。しかしここで直ちに生じる疑問があります。聖書の中でどの部分が執筆当時の文化に順応されて書かれた部分で、どの部分があらゆる時代や文化に適用すべき普遍的な教えなのでしょうか? そしてこの2つの領域の境界線をどのように引いたら良いのでしょうか?
これは一見するよりも難しい問題です。女性のかぶり物のような例は比較的わかりやすく、その今日的適用をめぐって教会内で議論が起こることはあまりないでしょう。けれどもたとえば、女性は教会では黙っていなければならない(1コリント14:34、1テモテ2:12)というパウロの教えはどうでしょうか? これらの箇所を根拠の一つとして、女性が教職に就くことを認めないグループもあります。そして、ライトが「創造のデザイン」として持ち出す創世記の男女別創造の記述などはまさにそのような、順応された文化相対的な教えか、それとも普遍的な教えなのか、意見が分かれてくる箇所であると思います。
この問題は非常に厄介で、しばしば議論は平行線に陥ります。また人によっても相対と普遍の具体的な線引きが異なってきます。けれどもここで指摘したいことは、このような論争はある共通の前提に立って行われている、ということです。それは、聖書の大部分は基本的に普遍的な教えであり、そのまま現代にも適用すべきである、という考え方です。聖書の中で執筆当時の文化に順応して書かれた部分はあるが、それは特殊な例外であって、それらの箇所を特定することができれば、それらを除外した上で、安心してその他の聖書箇所を現代に直接適用できる、というのです。
私はこの前提こそを疑うべきであると考えています。むしろ発想を逆転して、聖書のすべては書かれた当時の文化に順応して書かれた、と考えるべきだと思います。聖書のすべては、旧約であれ新約であれ、それぞれの時代の文化的コンテクストに完全に埋め込まれた形で書かれている、というのがデフォルトの姿なのです。
多くのクリスチャンにとって、これは非常に違和感のある主張に聞こえるだろうと思います。しかし、聖書に限らずあらゆるコミュニケーション(口頭であれテクストを通してであれ)は、それがなされる文化的コンテクストの中に完全に埋め込まれたものとして理解すべきだ、というのは、ごく自然な考え方です。そして、このような聖書へのアプローチだけが、相対と普遍の線引きをどうするかという終わりのない議論に終止符を打つことができるのです。
このことは私だけが言っている突飛な意見ではありませんし、「リベラル」な主張というわけでもありません。ホィートン大学名誉教授である福音派の旧約聖書学者ジョン・ウォルトンは次のように述べています。
どんな良質なコミュニケーションにとっても、「順応」は必須なものである。そして我々は聖書は神が人間の仲介者を通して行う、良質なコミュニケーションであると考えるので、そのメッセージはあらゆるレベルにおいて順応されている。我々が今日受けいれられない考えだけが順応された文化的に相対的なものなのではない。どんなコミュニケーション行為も文化的に相対的なのである。コミュニケーションは受取手の心にそれに対応する言葉や観念があることがらだけを取り扱うことができる。従って問題は、神や著者が古代の読者に対して順応したかどうかということではない。その他の可能性は存在しないのである。(Old Testament Theology for Christians, p. 18)
順応されているのは旧約聖書だけでなく、新約聖書もです。ライトは時として、新約聖書のテクストの順応を最低限に抑えようとしているような印象を受けます。彼は旧約聖書の主張を新約聖書の光に照らして相対化することは認めますが、同様に新約聖書自体を相対化する試みに対しては否定的なのです(『聖書と神の権威』173頁以下を参照)。これはある意味では正しい主張です。私たちは聖書のグランドナラティヴにおいて、新約聖書において新たな展開が起こった後の段階に生きる者として、旧約聖書を新約聖書のレンズを通して解釈すべきです。しかし同時に、新約聖書自体も文化的に順応されている事実を無視してはいけないのです。
聖書のデフォルトが普遍化であるとする前提の元、聖書のどのテクストが普遍的でどの部分が文化相対的なのかを判定する基準として時に提案されるのは、「旧約聖書の教えの中で、新約聖書でも繰り返されている教えは普遍的である」というものです。(これは2つのタイプに分けることができ、「新約聖書で明示的に肯定されているものだけが普遍的である」というミニマリスト的な立場と「新約聖書で明示的に否定されていないものは普遍的である」というマキシマリスト的な立場がありえます。)いずれにしても、旧新約聖書全巻で一貫して主張されている内容は普遍的な真理である、ということになります。まさにこのような考え方に基づいて「同性愛は旧約聖書でも新約聖書でも一貫して否定されている。だから同性愛の拒絶は普遍的真理である」と主張されるのです。
しかし、このような考え方は、旧約聖書だけでなく新約聖書も文化的に順応されている事実を考慮していません。何度も例に挙げている三層構造の宇宙論は、イエスの昇天記事(ルカ24章、使徒1章)、パウロが「第三の天」に引き上げられたという主張(2コリント12章)、黙示録でヨハネが天に引き上げられて神の御座を見た記述(黙示録4-5章)すべてで前提とされている考え方です。したがって、三層構造の宇宙論は旧新約聖書全巻で一貫して述べられていることが分かります。では、それは永遠不変の真理なのでしょうか? その後の科学的知識の発展によって、現在の私たちは宇宙の実際の構造は異なることを知っています。同様に、旧新約聖書で一貫して前提とされているバイナリー的・異性愛主義的な性理解もまた、近代以前の文化において一般的だった人間観であり、旧新約両聖書はそのような文化的認識に順応して書かれたと考えることもできるのではないでしょうか。近代以降のジェンダー/セクシュアリティに関する理解の発展に照らして、少なくともその可能性を否定することはできないと思います。
このように述べてくると、次のような疑問が出てくるかも知れません。聖書のすべてが文化的に順応されているとするなら、そこには現代人にも語りかける普遍的なメッセージはないということなのか? そのような考え方は、聖書を現代とは無関係な単なる古代文献の一つに貶めるものであり、聖書が「神の言葉」であることを否定しているのではないか?
次回はこのことについて考えたいと思います。
(続く)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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