日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第11回 祈祷会と教会

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

岡村 直樹

横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

教会で集まる機会の中で、礼拝の次に多いのが祈祷会かもしれません。多くの教会では、水曜日か木曜日の夜に祈祷会を開いています。早天祈祷会や、断食祈祷会を定期的に開いている教会もあります。週の半ばに、またさわやかな早朝に、さらには時間をかけて集中して共に祈る機会は、クリスチャンにとって格別の時ですね。

「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18・19〜20)。

これは祈祷会に集まることの大切さを強調する際に、頻繁に用いられるみことばです。しかしよく読むと、いくつかの疑問が湧いてきます。「一人の祈りではだめなのかなあ?」「二人以上で祈るなら、絶対にどんなお祈りもきかれるのかなあ?」といった疑問です。

聖書を読むときに守るべき大切なルールのひとつは、聖書から一、二節だけを抜き出して理解するのではなく、その前後に書かれていることのつながりの中で理解するということです。

この聖書箇所の直前の15〜16節には、罪を犯した同胞のクリスチャンに対して、その問題を指摘することに関する教えが書かれています。イエス様は、まずは問題をおおやけにせず一対一で話をしなさいと教えています。その上で、罪を認めたら赦し、もし認めなければ、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです」(同16節)とあります。16節に出てくる「二人または三人」が、20節の「二人か三人」に当たります。ですから、19節の「どんなことでも」とは、「入試に合格しますように!」とか「病気が治りますように!」といった一般的な願いというより、「罪を認めることを拒んだ同胞に対する証言」に関することとなります。

16節には「証人」とありますが、複数の証人とは、ある出来事に対して共通理解を持ち、それについておおやけに証言する覚悟を持っている人たちのことです。言い換えれば、マタイ18章19〜20節は、「教会の中に難しい問題が発生したときには、祈りつつ、複数の人が協力し、一致して対処しなさい。神様はその人たちの味方ですよ」という教えであると理解することができます。

ではこの聖書箇所は、教会で祈祷会への出席を呼びかけるときに使うべきではないということになるでしょうか。いいえ、決してそうではありません。この聖書箇所は、教会の中で二人以上の人が心を合わせ、祈りつつ協力し合うことの大切さを語っていますから、祈祷会はもちろんのこと、教会の中のあらゆる働きに対して応用することのできるみことばです。

ではなぜイエス様は、二人以上にこだわっておられるのでしょうか。神様はクリスチャンひとりひとりを導いてくださいますが、決して孤独な戦いを強いるお方ではありません。神様は教会を作り、支え合う信仰の友を与えてくださっています。教会の中に問題が起こったときも、共に祈りつつ協力して対処することができます。イエス様は昇天の後、聖霊を送ってくださいましたが、その聖霊に満たされて複数の者が共に祈るとき、より神様のみこころに叶う祈り(神様に喜んでいただける祈り)を捧げることができるようになります。

したがって、信仰者が集まって共に祈る祈祷会は、個々のクリスチャンのみならず、教会全体の「健全性」にとって必要不可欠であると言うことができるでしょう。

では、すべての祈祷会は自動的に健全であると言えるでしょうか。残念ながらそうでもありません。たとえ複数の人が共に祈ったとしても、たとえば神様への謙遜さが失われるときには、不健全な祈祷会が発生します。祈りは、憐み深い神様が「よし」としてくださるので、きかれます。しかし、「がんばって祈ったからきかれるはずだ」といった思いが出てくると、それは神様の力ではなく、自分の努力に力があるということになってしまいます。

早天祈祷会や断食祈祷会は、すばらしい祈祷会の形ですが、その困難さのゆえに「より信仰的だ」「よりきかれる祈りだ」と勘違いされることがあります。祈りは、クリスチャンがその心を神様の前にさらけ出す時であり、また同時に神様に私たちの心を探られる時でもあります。何よりも謙遜な心をもって、共に祈りつつ神様の前に進み出たいものですね。

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