新しい世界のはじまり

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリント5:17)

2019年が始まりました。ところで、1年の始まりはなぜ1月1日なのか、考えたことはおありでしょうか。日本の暦では月の名称に数字が使われているので、1月が1番目の月というのは当たり前に思うかも知れません。しかし、たとえば英語のJanuaryはローマ神話のヤーヌス神から来ているもので、必ずしも最初の月である必然性はありません。実際、古代ローマでは一年の始まりは今で言う3月でしたが、ユリウス・カエサルがユリウス暦を導入したとき、1年の始まりをIanuarius(January)にし、それが現行のグレゴリオ暦にも受け継がれたと言います。

実際、世界では私たちと異なる暦のサイクルにしたがって生活している、あるいは複数のカレンダーを同時に生きている人々がたくさんいます。たとえば、中国を中心にアジアで広く祝われている旧正月は1-2月頃、今年2019年の旧正月は2月5日になります。一方キリスト教会には「教会暦」というものがありますが、教会暦の1年はアドベント(待降節)と呼ばれる期間から始まります。これはクリスマスの約4週間前の日曜日から始まりますので、クリスチャンにとっては今年は2018年12月2日に始まっていることになります(教会暦がキリスト教信仰についてもっている意味については、過去記事を参照)。したがって、アジアに住むクリスチャンの中には「新年」を3回迎える人もいることになります。

要するに、新年の区切りは恣意的なものであると言えます。12月31日と1月1日は客観的にそれほど違うわけではありません。太陽の周りを回っている地球の位置がほんの少しずれただけにすぎないのです。国立天文台のサイトでは、「天文学上の理由があって『1月1日をこの日とする』と決めたものではない」とはっきりと書かれています。

しかし不思議なもので、ひとたびこの日を1年の始まりと決めると、こんどはそれによって私たちの意識や生き方が変わってくるのです。毎年多くの人々が家をきよめて新年を迎え、初詣や教会の新年礼拝などの行事を通して、新しい気持ちで一年を始めようとします。私たちの世界観は私たちの行動に大きな影響を与えているのです。

一年の始まりには客観的な根拠はないと言いましたが、その逆に、実際に世界に変化が起こったのに、それに気づかないで生きる、ということもありえます。1945年8月15日、日本は連合国に無条件降伏して、戦争は終わりました。新しい時代が始まったのです。しかし、すべての人がそれを知っていたわけではありません。多くの国民は、戦争の終わりを告げる玉音放送を聴いても、ラジオの音が悪くて何を言っているのか理解できなかったといいます。また、南方のジャングルでは、戦争が終わったことを知らずに「戦い続けた」日本軍の兵士たちもいました。たとえば横井庄一氏がグアムで発見されたのは1972年のことです。小野田寛郎氏はフィリピンから1974年に帰国しました。彼らは日本に新しい時代が来たことを知らなかったのです。だからジャングルに潜んで戦い続けました。終戦から30年近く経っても、「戦争」は彼らにとってリアルな現実であり続けたのです。

投降式でフィリピンのマルコス大統領に軍刀を差し出す小野田寛郎氏

さて、冒頭に掲げた聖書のことばは、今からおよそ2000年前に、使徒パウロによって書かれたものです。彼はユダヤの地で誕生したキリスト教がローマ帝国に広がっていく際に大きな貢献をした人物です。彼は自分が新しい時代に生きているという強烈な意識のもとに生きた人でした。その新時代は、イエス・キリストによって幕を開けたのです。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。」という日本語訳は、イエス・キリストのうちにある、つまりキリストと深く結びついた人は心が新しく変えられた、新しく生まれ変わったのだ、というふうに理解されるかもしれません。けれども、原文を直訳すると、少しぎこちない日本語ですが「だれでもキリストのうちにあるならば、新しい創造だ。」となります。英訳では、“if anyone is in Christ, the new creation has come” (NIV)となっていたりします。つまり、パウロがここで言おうとしているのは、個人の人格的あるいは内面的変化ということではなく、新しい創造がある、ということなのです。

この「新しい創造」とは、新しい物質が生み出されたということではなく、神がこの世界にもたらそうとしておられる、イエス・キリストを中心とする新しい秩序に組み入れられるという意味です(これについて詳しくは過去記事をご覧ください)。パウロが言っているのは、世の終わりに訪れるべき新世界が、ある意味ですでにこの地上に顕されている、イエス・キリストのうちにある者はそのような世の終わりの現実を先取りして生きることができる、ということです。

ところで、1962年にSkeeter Davisという歌手が歌って大ヒットしたThe End of the Worldという歌があります。

邦題は「この世の果てまで」となっていますが、歌詞の内容からすると「世界の終わり」と訳した方が適切です。この歌で、歌い手は「なぜ太陽は今も燦々と輝き続けているのか、なぜ海辺には波が打ち寄せ続けているのか、それらは知らないのだろうか、世界の終わりが来たことを・・・」と歌います。けれども、これは地球滅亡を描いたSF映画の話ではありません。なぜ世界が終わるのか、それは「あなたが私をもう愛していないから」だというのです。愛する人に振られてしまった体験は、他人から見ればまったく取るに足らないできごとであり、世界はいつものように動いていきます。けれども、失恋した本人は、世界のすべてが崩壊してしまったほどの衝撃を受けるのです。

その逆もありえます。新しく恋に落ちた人にとっては、世界のすべてが突然輝きだし、新鮮ないのちに躍動しているものとして感じられるものです。それは世の終わりではなく、新しい世界の始まりです。「世の人々は知らないのだろうか。世界が新しくなったことを・・・」パウロはまさに、The Beginning of the New Worldについて歌っていると言えるでしょう。キリストにある者、キリストと結ばれた者にとっては、世界は一変しました。もっと正確に言うと、旧い世界のただ中で、新しい世界が生まれたのです。

けれども、それは単なる主観的な、ものの見方が変わっただけのできごとではありません。聖書は、やがて神が本当に世界を一新する時が来ると語っています。そして、そのような働きは、実は今もうすでに始まっているのです。ちょうど戦争が終わって平和な時代が始まったのが客観的な事実であったように、イエス・キリストによって新しい時代が始まったことも、客観的な事実です。

大事なことは、それに気づくこと、そして、その認識に従って生きることなのです。

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