『歎異抄』と福音 第八回 親鸞は弟子を捨てたのか

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

大和 昌平

親鸞は、鎌倉時代に九十歳の長命を保った。現代日本は男性が約八十一年、女性が約八十七年生きるのが平均で、男女とも世界第二位の長寿国である。飢餓と戦乱が隣り合わせの鎌倉時代は三十歳くらいが平均寿命であったようだ。親鸞は普通の人の三倍を生きたことになる。
一一七三年、親鸞は京の都の南郊で日野有範の子として出生したとされている。日野家は儒学を生業とする下級貴族だったが凋落し、親鸞は九歳で出家した。二十九歳までの二十年間、比叡山延暦寺で仏道修行に励んだ。ここまでで、ほぼ三十年間である。
法然門下となって五年ほどで念仏門は弾圧を受け、親鸞は越後(現在の新潟県)で五年の流罪生活を送る。親鸞の妻恵信尼は越後の人で夫の生活を支えた。赦免後の親鸞は京都に戻らず、東国に向かう。常陸国笠間郡稲田郷(現在の茨城県笠間市)を中心に念仏を広め、多くの弟子を育てた。
『教行信証』の執筆にも心血を注いだ約二十年があって、親鸞は六十歳を過ぎた頃、里心がついたのか京都に帰った。ここまででも平均寿命の二倍になり、親鸞としては死ぬために独り京都に戻ったのかもしれない。
しかし、ここからさらに三十年を生きて、漢文で『教行信証』を完成させた後、今日の後期高齢者になった頃から和文でもって五百首もの和讃を生み出す旺盛な表現活動を行った。当時民衆の間に流行した今様の形式で、みずからの思想を噛み砕いて詠う円熟の境地を見せた。

親鸞は普通の人の三倍を、その生きた年数だけでなく、波乱万丈の人生経験を幾重にも重ねて生きた稀有な人だ。『歎異抄』第二章は、京都に戻ってしまった師を訪ね、東国の弟子たちが長旅をして、ついに親鸞と再会する場面がいきいきと描かれている。河和田(現在の茨城県水戸市)出身の唯円もその中にいたのだろう。親鸞の弟子たちへの思いがけない言葉が詳しく記されている。
◇「をのをの十余ケ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こヽろざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちを存知し、また法文等をもしりたるらんと、こヽろにくヽおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。」(第二章)|皆さん方が東国から十余ケ国もの国境を越えて、命をも顧みずに私を訪ねてきてくださったのは、ひとえに往生極楽の道を問い尋ねるためであることはわかっております。しかしながら、私が念仏よりほかに往生極楽の道を知り、またなにか経典にも通じているのではないかと気がかりなのでしたら、それは大きな誤りです。」
彼らが東海道を辿ったとすれば、常陸(茨城)を出発して、下総(千葉)、武蔵(東京)、相模、伊豆(神奈川)、駿河、遠江(静岡)、三河、尾張(愛知)、伊勢(三重)、近江(滋賀)、山城(京都)と十余の国境を越えてきたことになる。旅の危険を冒して、約六百キロの距離を毎日二、三十キロ、ひと月余り歩き続けるまさに強行軍である。身命を賭しても、親鸞に直談判しなければ収まらなかったのだろう。
その弟子たちを前にしてである。自分は何か特別な知識を持っているわけではなく、師の法然の念仏の教えを信じているのみだと言って、すがる弟子たちを突き放している。このうえどうするかは自分で決めよ、と。
◇「栓ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと、云々。」(第二章)|結局のところ、小生の信心とはこういうものです。かくなるうえは、念仏を信じようとも、また捨てようとも、皆さん方おひとりおひとりの判断なのです、と。
命をかけてやってきた懐かしい弟子たちを前に、こんなそっけない言葉がかけられるだろうか。あまりに無責任な態度だともいえるのではないか。いやしかし、ここにこそ親鸞の親鸞たるゆえんがあるのかもしれない。
主イエスは弟子のペテロに「わたしに従いなさい」(ヨハネ21・19)とまっすぐに言われた。使徒パウロは「私のようになってください」(ガラテヤ4・12)と手紙で書いている。これはなかなか言うことのできない言葉だ。できていない自分がいるからなのだが、これが師の弟子にかけるべき言葉なのだと思う。私のように生きよと言えないのなら、人の師になどなってはいけないのだ。
第二章には、親鸞の師法然に対する思いも書かれている。たとえ法然上人に騙されて地獄に落ちたとしても、後悔はしません、というこれまた激しい言葉である。稿を改めて、法然を師と仰ぐ親鸞の姿を正面から扱ってみたい。宗教の世界における師と弟子との関係は、どちらの立場にしても本質的な問題であることは言うを俟たない。

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