教会の暦では一年は三つの期節に分かれています。それは、降誕節と復活節、それと聖霊降臨節の三つです。今私たちはその第三の区分である聖霊降臨節に入っています。この期節はペンチコステに始まり、アドヴェント(待降節)まで、すなわち、6月から11月下旬にいたる、およそ半年も続く、教会の暦では一番長い期間です。それは、教会の時でありますから、ある意味では当然のことであると思います。教会はクリスマスに始まり、主の受難と復活によって命を与えられ、その福音に与かって主の年を歩んで行くのであります。ペンンテコステに続いて三位一体の主日が備えられ、今日は三位一体後、第二の主日となります。続いてアドヴェントまで、三位一体の主日がその数を加えて行く訳であります。その意味するところは何でしょうか。この期間には、福音の内容理解について、教理や教義(ドグマ)について、信徒の訓練が日常の礼拝や教会活動でなされて行くのであります。本日の礼拝で、F.シューベルトのドイツミサ曲の第1番が聖歌隊の皆さんによって捧げられましたが、このミサ曲も聖霊降臨節の始めに相応しい内容をもって、信徒の教育のために作られた聖歌であります。しかも、カトリック教会のもつラテン語の典礼文でありながら、プロテスタント教会の影響をうけて、その意味が分かり易く置き換えられて、信徒の教育にあてられています。先程のうたは、カトリックの典礼によれば、キリエ エレイソン(主よ、哀れんで下さい)、になるのですが、シューベルト(作詞者:フイリップ ノイマン)はその内容を噛み砕いて、こう述べています。
「悩みの時に、誰にぞ頼らん/嬉しき時に、誰に告ぐべきああ、主よ(キリエ)、主こそわが救いなれ/悲しみを去り、慰めたもう(エレイソン)」
ドイツミサの第二曲はカトリックの典礼文ではグローリアですが、ドイツ ミサでは「栄光、神にあれ」と歌い、賛美、礼拝の心構えを教えています。以下、典礼ではクレードにたいしてドイツミサでは、福音の出来事と信仰告白、第四曲は伝統によれば、オッフェルトーリウム(奉献)の儀にあたりますが、ドイツミサ曲では命の御言葉に与かる者が捧げる感謝と奉仕が歌われ、第五曲ではサンクトゥースですが、内容的にはラテン聖歌がほぼそのまま、私たちの言葉に置き換えられて賛美の歌として捧げられています(私たちの賛美歌にも取り入れられているのでどなたもご存知の歌ではないでしょうか。本日の礼拝では頌栄として、この歌を歌います)。
第六曲は聖体拝領、コンムュニオンですが、これは聖餐式についての教えです。一節でパンと葡萄酒による晩餐の制定が歌われた後で、それが意味するところは、「命にも死の中にも、私たちを力付けて下ださる主の言葉にしたがって自分の体を聖なる祭壇として神に捧げる」ことである(ロマ書12の1)、と告げています。第七曲はアニュス デイ(神の子羊)、でドイツミサで歌われているところを、本日はこの礼拝説教、祈祷の後でご一緒に捧げようとしています。
そして、終曲は、祈りと、感謝のうちに私たちがこの世に派遣されて行く心構えを歌ったもので、これは伝統的なラテン聖歌や、カトリックの典礼にはないドイツミサ特有の内容になっています。
以上の展開は私たちが短期間に習得できるものではないので、半年近くに及ぶ聖霊降臨節の中で、じっくり取り組んで行く課題になっています。教会暦とそれに従った典礼は信徒の訓練として、それなりの意味をもっているのです。日本にいては中々、取り組むことの出来なかったことを、私は僅かながら、アメリカの改革派の教会で牧師としてのインターンを、ふた夏させて頂いた経験と、何よりも吉田實先生と留学を共にし、以後、30年間、同じ教会で一方は教会音楽主任教師(カントール)として、また、わたくしは担任教師として共同の働きをしたことが何よりも良い勉強をさせて頂きました。この教会でも、信徒と教職が一体となって捧げる礼拝を思うとき、典礼を現代に生かす意味は大いにある、と考えています。
このパイプオルガンは高井戸教会から譲り受けたものですが、何故高井戸教会で、このオルガンを手放すに至ったのか、その背後には、典礼に沿った賛美が、これでは表現しきれないと云う、カントールの要請によるものでした。先生が亡くなられた今、おそらく、あの教会はこの小オルガンで十分な状態に戻ってしまったと、聞いています。日本の教会はまだ、そう云う状態で、これは今後も続くかもしれません。賜物をもったカントールと訓練された聖歌隊、典礼に沿った礼拝説教に尊かれた信徒の訓練と教会形成が一体となって教会で推し進められて行く。これが出来る教会は日本では数える程しかありません。ひょっとすると、この教会は、そういう可能性をもっているかも知れません。日本の教会の中では人材についても、器についても、恵まれているからです。
ご衆知の通り、日本で八月は特別な意味をもっいます。原爆被災と敗戦を思い起こしながら、平和への決意と祈りを合わせる、様々な行事がなされます。それは大変意味のあることですし、戦争が風化し、忘れられたり、忘れようとしたりする中で、戦争を知らない世代に伝えて行く上でも、八月六日、九日と、十五日では大切な記念日であります。加えて、世界教会の側に立って見ると、教会の暦では平和への祈念は、この六月であります。教会が誕生し、この世に果たすべさ勤めは、何をさしおいても、この世の平和であります。それはこの世に平和をもたらすために神が、その御一人子を遣わし、十字架と復活を通して現して下ださった和解の勤めを、教会は世界にむかって証しする時節であります。丁度、聖霊が鳩によって象徴されるように、その鳩がノアの洪水では、オリーヴの葉をくわえてノアの許に戻って来たように、洪水のあとの平和を証しするのが、教会の勤めであります。
八月の出来事と重ね合わせて、六月の教会暦で強調される平和について、私たちは格別な願いをもっています。それは、絶対にあの、戦争の悲劇を繰り替えしてはならない、と言う願いであります。平和への願い、戦争のない新しい世紀、これこそは人類が目指すべき終局的な目標ではないでしょうか。残念ながら、第二次対戦の後も、銃声は止まず、報復が報復を呼ぶ悪循環が尾を引いて、今も続いているのは誠に悲しむべき事態です。しかも、そうした愚かな争いが旧約聖書を生み出した、民族の末裔と、イスラムの信徒が宗教戦争の様相を加えて、21世紀にまで、持ち越されている所に、痛く胸が病む思いが致します。私たちの夢と願いは打ち消されて来たように見えるのでありますが、他方では、平和と言うものが、どうすれば実現可能になるのかが、益々、はっきり見えて来たように思います。それは、イエスの業と働き、その全生涯が平和を実現させるためには、必要不可欠である、と言うことです。イエスが生きた時代は世界史ではPax Romanaと言われる時代でありました。それはローマ帝国が武力で他民族と文化、宗教までも支配し、表面的には戦争のない時代であったからであります。それは、戦国の世を制覇して、一大武力をもって日本を治めた徳川幕府にもあたる平和であったと言えるかも知れません。ローマ帝国の一属州であったユダヤでも表面的な平和の裏では、ローマヘの憎しみと抵抗が民衆を支配していました。聖書の中に登場する徴税人が人々から嫌われたのは、民衆のローマに対する反感があったからではないでしょうか。紀元70年にユダヤはローマによって滅ぼされました。力には力で対抗した結果、招いた悲劇でありました(シカリー党、イスカリオテ、J.C.Superstar)。そのような歴史のなかにイエスという方が登場し、平和への道を身をと(賭)して現して下さいました。
これに関連するイエスの言葉は沢山ありますが、「敵への愛」(マタイ5の44)、「和解の勧め」に先ず、注目したいと思います。「あなたがたが、祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず、行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て供え物を捧げなさい。」(同5章23)。イエスの平和は、和解による平和、相手のために祈ること、自分を空しくして他者のために祈る、と云うことであります。そして、イエスに従う者に向かっては、方あなたがたはこの世に対して「地の塩である」、と云われました。塩の役割は、・・・・・効き味、出し味、隠し味、、その中で、取り分け、出し味がキリスト者に求められているように思います。それは塩が他の食材のもっとも良い味を引き出すのですが、自らは、塩の効き味である、あの強い辛さを抑えて自分の役割を終わるのです。つまり、これが、和解と云うものです。マルコ9の50:「塩は良いものである。あなたがたは、自分自身のうちに塩をもちなさい。そして互いに平和に過ごしなさい。」
パウロもイエスに倣って平和に過ごすべき道を随所で語っています。マルコ9の50で使われていた、「平和に過ごす」(エイレーネイン)はロマ書12章18節で、同じ言葉で語られています:「せめて、あなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。愛する人達、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる、と書いてあります。あなたがたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」本日の聖句でもパウロはエフェソの信徒に宛てて、2章14節以下でキリストが現して下さった平和について、こう述べています。
「実に、キリストは私たちの平和であります。」 何故、キリストが人類の平和であるか、についてパウロは三つのキーワードをもって、以下に答えています。第一は、対立するこつのものを一つにした、と言うこと。一つに作った(英語のmakeに当たる言葉)とはどういう事でしょうか。およそ敵対関係は二つに別れています。その敵意という、どうにもならない人間の心の垣根をイエスは打ち破って下さったと言うのです。それも、ご自身の体を犠牲にして、平和とはかくして、実現するものであることを身をもって現されたと言うのです。20世紀は戦争の忌まわしい過去をもって閉じたように見えますが、一方では21世紀に私たちが受け継がなければならない平和への希望も灯された世紀でありました。マルテイン ルーサー キング牧師や、マハトマ ガンジーによって興された非暴力による平和の道こそは、イエスがご自身を捧げて現して下さった平和であって、過ぎ去った世紀の中で一際輝いている生き方でした。キングの非暴力運動は、人種差別を撤廃するために世界の歴史を大きく変えた出来事でした。「実にキリストは私たちの平和であります。」第二のキーワードは隔ての壁を取り壊した(解き放った、解放したlusas英語ではloose、liberate)という言葉に注目したいと思います。今エルサレムではイスラムの聖地であるエルアクサ寺院と そのすぐそばにある、ソロモンの大神殿あとの崩壊した嘆きの壁がユダヤ教の聖地とされて、共に主権を象徴する隔ての壁になっています。だが、イエスは2000年の昔に、隔ての壁を解き放っておられます。そもそも、ユダヤ教の神殿には明確な隔ての壁がありました。祭司のほかには絶対に入ってはならない、至聖所(Holy of Holies)、次はユダヤ人と異邦人とを分ける隔ての壁、もし外国人がユダヤ人の礼拝する庭に入ったらば、石で打ち殺されることさえ、行われていた、隔ての壁についてイエスはこれを取り壊しました。神殿がもしあるとするならば、それは、それぞれの心の中にあることを教え、実践した結果が、十字架であったのです。罪状書きには「イエスが神殿を侮辱した」と言う一文が掲げられて居りました(マルコ13の2、14の58)。こうした隔ての壁は同じユダヤ人の中にも及んで来るものです。エルサレムの神殿はユダヤ人の礼拝所が男子の間と女子の間に別れていて、当然の事ながら男子の間が、至聖所に近くあるのです。性差別が同族のなかにも持ちこまれていたのです。イエスが現して下さった平和について第三のキーワードは、15節に述べられています。それは「規則と戒律ずくめの律法(ユダヤ教が何にも増して重んじていたトーラーと呼ばれていた律法)をイエスは無用にされた(katargein 空しくする、無効にする 英語ではrender useless)、と言う事です。平和の最終自的は、全ての人が神の家旗の一員として一つの体になることです。一つの家族になることです。その家族が住む家の土台(これを20節では要石と訳していますが)、家を建てるのに欠かせない土台であり、かつアーチをさいごに組み合わせて全体を安定させる首石とも訳される石のような存在がイエス・キリストであったとパウロは述べています。
21世紀は宗教がもとになって興される争いを止めるべき時代でなければなりません。どの戒めや教えが優れているか、どの開祖が立派であるのか、そのような狭い教派主義を乗り越えて、正しいものは元来一つであるはずです。それは、自分のなかにあるかも知れませんが、へりくだって他者から学び、一つを目指して寛容の精神をもって生きて行くのが、新しい世紀を生きる私たちでなければなりません。
マハトマ ガンジー(Modern Review Oct.1941)はイエスに共感して、こう述べています。「人々の生き方は、イエスの存在、その行い、その神聖な声によって語られた言葉によって、少なからず変えられた。・・・・・・イエスの生き方が私の話したような仕方で意味をもち、超越性をもっていたからこそ、私は彼が単にキリスト教界ばかりでなく、全世界にかかわり、すべての人種と民族のものであると信ずるのである。人々はいろいろな旗印や呼び名や教理のもとで働き、信仰を表明し、あるいは先祖伝来の神を礼拝するかもしれないが、それが何であろうと、大して変わりはない。」
イエスご自身もどの教えや戒律が正しく、一番優れているのか、と言う見方そのものを空しくされているのです。およそ一ヵ月ほど前の5月21日、パキスタン人が経営する富山県の中古車販売店にイスラム教の聖典であるコーランが破られて投げ込まれる、と云う事件がおきました。イスラム教徒にとってコーランは神(アッラー:絶対者)の言葉をそのまま書き写ししたものだ、と信じられています。それを破り捨てたら、神そのものが汚された、とされて日本の各地からその翌日には約250人の信徒が現地と、警察署、富山県庁に、抗議の集会と犯人の逮捕を求めて集まって来ました。犯人が逮捕された、というニュースはまだ聞いておりません。私たち日本人には、あまり良く分からない事かも知れません。戦前は天皇皇后の写真が御真影と呼ばれて、学校などに飾られていましたが、あれをもし破ったり、捨てたりしたら、あの時代では、どんな事になったか、それと似たような感情がイスラムの信徒にはあるのだと考えると、分かる人もおられるでしょう。私たちは聖書にたいして、それを神格化することは致しませんが、それは、器である聖書と中身である福音とを区別していることが一つと、イエスご自身が教派や宗団、その戒律に対してパウロが先に述べていたような相対化の姿勢を持っておられたからであると思います。(コーランはサウジアラビアの宗教庁が公認したアリビア語のコーランのみが聖典です。丁度、中世までのグルガータ ラテン語の聖書のように。)
宗教間の隔ての壁は今なお厚くあることを、今回の事件は物語っています。それだけに、イエスやパウロの思想と働きは今も大切な役割を持っています。教派、教団、民族、宗旨、生活文化のどれも、神の家族の一員となるために役立ててこそ意味を持つのに、残念ながら、分裂のために働いて来たのが過去の歴史でありました。この点では、キリスト教会も懺悔しなければなりません。私たちは聖書に立ち返る必要があるのは、キリスト教の絶対牲を誇るためではなく、神の家族の一員となるために、イエスやパウロに聞く必要があるのです。
(映画ホタル/キム ソン ジェ/海津 誠/長谷川 信/聞け、海神の声)戦争のない平和の時代を迎えることは、人類の悲願でありますが、極めて困難な課題であるょぅに思えます。しかし、私たちは、聖書に示されたように、イエスに倣って生きる以外に平和は達成されないことを知らされます。どうか、ともに望みをもって、イエスの道を身近かな所から、一歩づつはじめて行こうではありませんか。
祈り 父なる神様。敵意と争いのない平和が一日も早く実現しますように。どうか、あなたの御心を己が心とするへりくだった行き方を、貫いていくことが出来ますように、それぞれの心をあなたが住まわれる聖所とならせて下さい。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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