「隠れたことを見ておられる神」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

先週、私は、兵役拒否をして町田で「代替業務」に就いているドイツの青年たちのことを少し話した。ドイツでは、信仰上・思想上の理由によって「兵役を拒否する権利」が認められているということなどである。実は、アメリカなどいくつかの国にもこの制度がある。この点について少し補足した後、今日のテキストに向かいたい。

一般的に言えば社会に「法律」は必要だし、国民は原則的にはそれには従わねばならない。しかし時には、「神の意志」に従うためには、あるいは「思想上の節操」のゆえに、「どうしてもこの法律には従えない」という決断をせざるを得ない場合がある。そのような自由が我々にはある、ということである。法は人間が作ったもので、その権威は絶対的なものではない。その上にある権威(神の権威・良心の命令)というものが存在するということを、欧米のいくつかの国は謙虚に認めているのである。これは疑いもなくキリスト教的な背景から来ている。

欧米には、イエスの「山上の説教」を真剣に受け止めて「絶対非暴力・絶対非戦論」を唱える集団がある。「クウェーカー」、「メンノー派」、「アーミッシュ」といった人々だ。数から言えば小数者であるが、無視できない道徳的感化を社会に与えている。彼らは決して戦争を認めないし、兵役にもつかない。武器を持つことも拒否する。CO(onsciencious bjector)という。これらの人々の尊敬すべき生き方が、「兵役拒否の権利」を社会に認めさせたとも言えるだろう。

だが、「兵役拒否」の問題は誰にでも起こるわけではない。とくに、日本には今の所、「兵役義務」がないから我々には関係ないことだと思うかもしれない。だが、日常の生活の中で「人間に従うか・神に従うか」という決断を迫られる場面は、決して珍しくはない。会社で上司から要求されることと、キリスト者としての良心の板挟みになって苦しむという話もよく聞く。

やや大袈裟に言うなら、我々は常にこのような決断を迫られて生きているのである。「だれも、二人の主人に仕えることは出来ない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ 6,24)、とイエスが言ったように。

さて、この辺から今日の聖書の箇所に関わってくる。「人間に従うか・神に従うか」という決断を、勇気を持って、誤りなく行うためには、普段からその基礎となる生き方を身につけておくことが大切だ。今日のテキストはそのことを明らかにする。

ここでイエスは「施し」(つまり慈善)について述べ、その際、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように」(1)と厳しく注意する。さらに「会堂や街角で…自分の前にラッパを吹き鳴らしてはならない」(2)と言う。むしろ、「隠れたことを見ておられる父(神)が…報いて下さる」(4)ことを信じて行動せよ、と。

つまり、人の評判を自分の行動の基準にしないで、神の御心を基準とせよ、ということだ。そして、神の御心に従うことこそ、我々の生き方の基本である。

さて、「施し」についてもう少し詳しく考えよう。

当時、ユダヤ教のラビたちは、人は「施し」と「祈り」と「断食」という三つの行為によって神への愛を実証するのだ、と教えていた。中でも「施し」(つまり慈善)は、非常に高い価値を持つものとされた。あるラビはこう言っている。「慈善を行う者は、全世界をヤハウエの愛で満たす人のようである」。また、「人間は、ただ慈善を行うために創造された」とも言う。

もちろん、自分たちの持っているお金は本来神のものだから、「施し」と言っても神の物を与えているに過ぎない。だからこそ慈善は、神のために、繰り返し、喜んで、愛に満ちた心をもってしなければならない。このユダヤ教の教えを、イエスは基本的に受け継いでいるように思われる。

その際、イエスは、この「神のために」という視点をより徹底させた。慈善は、それを行う人間、つまり自分の良い評判のためにするのではない。神の愛のためにするのである。ここでも、「人間ではなく神に従う」という生き方が求められる。むろん、ラビたちも、「施しを受ける方の貧しい人たちが傷ついたり恥ずかしい思いをしたりしないように」戒めた。「受け取る側が誰からその施しが来たかを知らず、そして与える側も誰にその贈り物が渡るかを知らないように」なされるのが最も良い、と。

だがイエスはさらに厳しく、「右の手のすることを左の手に知らせるな」(3)と言う。これはどういう意味か? 同時代の宗教にも、「あなたが施しをする場合、それを言うな。一度言ったら、二度と繰り返すな。右手で与えたなら、それを左手に語るな。左手で与えたなら、それを右手に告げるな」という格言があるという。それを取り入れたのかもしれないが、要するに、「自分が慈善を行っている」ということを意識から遠ざけよ、ということであろう。

「自意識過剰」という言葉がある。専ら悪い意味で用いられる。余りに自己を意識し過ぎると、人は自然さを失い、他者との関係で躓き、遂には自らの人格も破綻する。だが、それを防ごうとすれば却って自分を意識してしまう。このような悪循環に悩まなかった人はいないのではないか。

この悪循環から脱出する道は、恐らくただ一つであろう。それは、自分の目の前にいる、助けを必要とする隣人に、ひたすら心を向けることである。神がこの人を愛しておられる。神がこの人を助けることを望んでおられる。ひたすらこの点から、その人に向かう。――このひたむきな愛が、結局は自己をも救うのである。


 
 

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