旅から帰ってくると、私のパソコンには沢山のメールが入っていた。その中に、今、町田で「兵役代替業務」に就いているドイツの青年たちを、「9月中のいつか、土曜の夜の青年会に招くことができるかもしれない、それを何日にするか」というやり取りがあった。実現できたら素晴らしいと思う。
幸いにも今の日本にはないことなので、若い人には分かり難いかもしれないが、ドイツには二年間の「兵役義務」がある。西ドイツは、朝鮮戦争直後の1954年に再軍備を決定したが、これを巡っては国論を二分するような議論があった。遂にそれが決まったのには、南北朝鮮と同じ分断国家としての危機感が大きく影響したといわれる。ただその際、旧ドイツ軍がヒトラーの言うなりになったことへの反省から、軍の在り方について徹底した議論が行われた。そして、漸く2年後の1956年に「一般兵役義務法」が成立する。この法律は、兵士の基本的人権をあらためて確認し、信仰上・思想上の理由で「兵役を拒否する権利」も認めたのである。「基本法」(憲法)もその方向で改正された。東西再統一後も、これは変わらない。
もちろん、兵役拒否にはかなり厳しい審査があって、これにパスすれば軍隊には行かなくてもいいが、その代わりに病院・福祉施設などで「代替業務」につくことになる。今町田に来ている四人の青年たちは、こういった人々である。
何故こういう話しをしたかというと、ここには国家の「法律」と個人の「良心の自由」が対立するという、典型的なケースが見られるからである。
旧ナチスの軍隊では、ヒトラーに対する「忠誠宣誓」が求められ、その命令には絶対に従わなければならなかった。個人の「良心の自由」などというものは認められなかった。旧日本軍の場合は、あるいはもっと厳しかったであろう。「上官の命令はすなわち天皇の命令である」と教えられていたし、現人神・天皇が軍隊の大元帥(最高統帥者)である以上、その命令に背くことは絶対に不可能であった。その象徴として、各兵士が持たされる銃には「菊の紋章」が刻まれていた。命令一下、それを撃たなければならない! 命令に背けば、直ちに死が待っていた。
だが、あの戦争の体験を通じて我々が学んだ最大の教訓は、ヒトラーも天皇も絶対の存在ではない、ということであった。その命令に、何故ああも唯々諾々と従ってしまったのか。それらのさらに上にある権威、人間の真実な生き方を求める最高の権威、いわば「真理の」権威に従わず、どうして人間が作り上げたあのような「えせ権威」に屈服してしまったのか。
ドイツの場合、戦後の教育はこの反省から始まったといわれる。ニュルンベルク裁判の時、一見、良い父・良い兄・良い息子であるような人々が、どうしてあれほどの残虐行為をすることができたのかと問われて、一様に「命令には従わなければならない」と答えた。このことに教育関係者はショックを受けたという。たとえ上官の命令であろうとも、「良心に照らして従えない命令には従わない」という自立した人格を育てなければならない。これが戦後教育の目標となった。日本の場合はどうか?
むろん、「国家の法に背いてまでも良心に従う」ということは、簡単ではない。苦しい決断が必要だし、その決断通りに生きることは並大抵ではない。
だが、聖書は結局のところ、このような生き方を我々から求めているのではないのか?例えば、イエスはある時、相対立する二つの原理の間にある人間の姿を描いてこう言った。「だれも、二人の主人に仕えることは出来ない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ 6,24)。あれか・これか。イエスは、どちらかを選ぶことを迫る。これは容易ならぬ選択である。
さらに切実な対立関係は、この世の権力と神の間にあるもので、ファリサイ派の人々が「(ローマ)皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(マタイ 22,17)とイエスに問うたのがそれに当たる。
さて、今日の箇所は、ペトロら初代の教会の指導者たちがユダヤ教の最高指導者によって活動禁止命令を受け、牢に入れられたという記述から始まる。ところが夜中に「主の天使たちが牢の戸を開け」(19)、「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」(20)と促したので、使徒たちは夜明け頃、神殿の境内で語り始める。そのために再び捕らえられた使徒たちは、「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」(28)と糾弾される。これに対する彼らの答えは、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(29)というものであった。これはどういう意味か?
具体的に言えば、彼らは権力者の命令に従順に牢の中で沈黙したりはせず、むしろ、神に従って公に人々に語り続ける道を選んだ、ということである。
私はここで、「この命の言葉」(20)という表現に注目したい。その内容は、「神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました」(30)に尽きよう。
あなたがたは確かにイエスを殺した。暴力と死が勝利したように見える。しかし、そうではない。逆に、殺されたイエスが復活したことにおいて生命が死に勝利したのである。だから、使徒たちはどうしても、「イエスがあなたたちによって殺された」という死と絶望の言葉ではなく、「彼はあなたがたの罪の赦しのために復活した」という命と希望の言葉を語り続けなければならない。これが神に従う道なのであり、それは我々にとっても同様であろう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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