私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:9〜10)

「下手に愛など持とうものなら、裏切り者になるばかり」、中島みゆきの歌の一節です。男女の愛、夫婦の愛、親子の愛、友人の愛、郷土愛、祖国愛、・・・人にとって何よりも大切で、誰もが求めているのですが、最も得難く、そして裏切り、裏切られるのは、人間の愛です。

人を愛し、愛そうとすればするほど、傷つけることばかり、いっそ誰とも、社会とも関わりを持ちたくない、なんて思ったりもします。「人形みたいでもいいよな、笑える奴はいいよな」、これも中島みゆきの歌の一節ですが、作り笑いさえできなくなったら、ぜひ聖書を読んでください。私もそれでどん底から光を見いだすことができましたから。

もちろん私も最初は、「今から2千年前、ローマ帝国の属領下にあったエルサレムでひとりの男が刑死した、そんなことが自分に何の関係があろうか」と、半分いやほとんど疑っていました。「弟子たちが勝手にあとから意味付けしたのだろう」とか。ところがどっこい、聖書はそんな浅薄な書物ではありませんでした。旧約聖書では数千年にわたる各時代の預言者たちがキリストを預言し、新約聖書はイエス・キリストが、何をしたか、何を言ったか、記録しています。その中心は、十字架にかかって死に、墓に葬られ、三日目に復活したという事実です。

不思議なことです、十字架の記事を読んでいると、神の愛が、私の理性や感情を突き抜けて、もっと深いところに届きました。決して裏切らない愛、真実の愛がここにあります。それが湧き上がる泉のようになって、渇ききっていた私の心を潤してくれました。神がおられること、私を愛してくださっていること、たったそれだけのことがわかっただけで、それまでぽっかりとあいていた私の心が、どんどんと満たされていくのです。

イエス・キリストが十字架につけられる約700年前、預言者イザヤはこう言いました。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53:4〜6)

もし、あなたが今、さまよっている、道が見えないと思われたら、新約聖書の4つの福音書をお読みになることをお勧めします。父なる神の祝福が豊かにあなたの上にありますようにお祈りします。

The Cross Pendant

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He will be sent to your Side.
Emmanuel

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