「約束の声」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

I

人生はしばしば〈旅〉になぞらえられます。そして旅には予測のつかない困難や不安がつきものです。旅立つ人に向かって、私たちはしばしば「頑張ってね」と言います。本人も「頑張ります」と返します。頑張るとは、困ったときは自分で自分を助ける努力をするということでしょう。諺にも〈神は自ら助くる者を助く〉と言います。自助努力をしない人を神は助けたりしない、という意味です。しかし「神が助ける」とは、今の時代には〈運が良ければ何とかなる〉という程度の意味しかありません。ですから実際にはこの諺は、〈危機を脱出したければ、自分で頑張りなさい〉というほどの意味に用いられます。

 もちろん私たちは皆、それなりに頑張ります。しかし頑張ってもどうしようもないことがあるのも事実です。いかんともしがたい事情に迫られて、是非とも達成したいと思っていた目標を諦め、針路変更を余儀なくされることがあります。しかしそのことと、存在そのものが逃れようのない危険に晒されることは、また別の事柄です。例えば病に侵されて死の恐怖に慄く者、自分の価値を見失って絶望している者に向かって、「頑張れ」と励ますのは本質的に的外れです。私たちの生は、最終的には、自分の意志で自由に操作できるものではありません。そんなとき私たちにできる最善のことは、人知を超える力の助けを求めて、苦しむ者に静かに心を合わせることではないでしょうか。私たちは人生の旅路の中で、こうした状況に何度か行き逢います。古代においても、また科学技術が進歩した現代においても、それは基本的に変わりません。

II

今日のテキストである、この有名な詩編で、詩人は、旅路にありつつ、山々に向かって目を上げて、「わたしの助けはどこから来るのか」と問うています(1節)。これはとても簡潔な、しかし悲痛な問いです。自助努力が限界に達し、自分の外側に助けを求める他ない状況に追いこまれた者の問いです。この問いが発せられる場は、他の誰にも代わってもらうことのできない、逃れたくても逃れることのできない「私」、この具体的な私の人生が抱えている困難や不安です。だからこそ詩人は「わたしの助け」について語ります。

 詩人はこの問いに、ある明快な回答を自ら与えます。「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから」(2節)。この問いと答えの間には、詩人が経験した大きな心の闇が横たわっていると思います。自分の力に頼ることができないとき、私たちは先ずは親兄弟や友人などの近親者に、次には上司や先輩などの知人に、そして最後には誰かれ構わず助けを求めます。しかしそれすら求めても得られないという絶望の淵の中で、この詩人は、「天地を造られた主」なる神に、最後の希望の光を見出したのではないでしょうか。世界の創造者は、端的に世界を超えた存在です。ですから創造者に助けを求める者は、世界の中には確かな助けがないことを既に知っています。このことを知ることは生易しいことではなかった筈です。詩人が自分の外側から来る「助け」を探し求めて辿りついたデッドロックは、創造者なる神ヤハウェでした。

III

このあと詩人は、不思議な語り方に移行します。「どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように」(3節)。ここで「あなた」と呼びかけられているのは、「わたしの助け」(1節)を求めていた詩人自身でしょう。すると「主があなたを…まどろむことなく見守ってくださるように」と語る者は、詩人その人ではなく、誰か別の人です。そしてこの語り方は、詩の最後まで続きます。もしかしたら、神の助けを求める者に、祭司や預言者が救いの託宣を与えるという状況が考えられているのかも知れません。古代イスラエルにはそうした習慣が存在しました。しかし、そうした状況を考えなくても、3節以降の言葉は、〈私を助けることができるのは、世界の創造者である神だけだ〉と思い知るに至った者に外側から与えられた声として、つまり「私」の内側から出る願望ではなく、むしろ天の高みから響いてくる、約束の声として表現されているように思います。

IV

この声はヤハウェの「見守り」を、しかも絶対的な見守りを、詩人に約束しています。テキストを追ってみましょう。

 この声は先ず、「どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように」(3節)と願望を述べて、詩人の不安に連帯しています。そして直ちに「〔然り〕見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない」(4節)と約束します。ヤハウェは目覚めた神として、詩人の歩みを確かなものになさる、と言うのです。「イスラエルを見守る者」という表現は、天地創造やエジプト脱出に始まり、アブラハム、イサク、ヤコブといった族長たちを導き、ヤコブの息子たちを導き、ダビデ王家を導き、とりわけ王国の分裂とバビロン捕囚、そして神殿の再建を通して、深いところでイスラエルの歴史を支配する神の働きを、私たちに思い起こさせます。つまり幸いばかりか、禍いをも通して、神は最終的にはイスラエルを見守り、導くと言うのです。

 次には、「主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」(5節)と、守りを与えるのがヤハウェ神に他ならないことが強調され、その力が、「昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない」(6節)と敷衍されます。自然世界の創造者であるヤハウェは、灼熱の太陽や、凍てつく夜空に輝く月が、旅路を行く詩人に危害を加えるのを決してお許しにならないと言うのです。世界の創造者であり、歴史の支配者でもある神は、自然を超越する存在です。自然は、私たち日本人の間では、人間を優しく包み込みもの、人間と一体になって私たちを育むものである、と受けとめられることが多いようです。これに対して、ユダの荒野に代表される、厳しい自然に囲まれたパレスチナ地方を旅する者にとって、太陽や月は、自然の優しさを示すものではありません。むしろ逆に、人間に対する脅威のシンボルです。また周辺には、太陽や月を神と崇める宗教もありました。しかし〈太陽や月があなたに危害を与えることはない〉という発言は、神が自然の中にある何者かではなく、むしろ自然を支配する者であることを明らかにしています。その神が力強く、旅路を行く者を見守るのです。

 そして最後には、「主があなたを見守る」という言葉が反復されます。(新共同訳は「見守ってくださるように」と願望表現に訳していますが、「見守るであろう」と訳すのがよいと思います。) ヤハウェが「あなたを」・「あなたの魂を」、また「あなたの出で立つのも帰るのも」、「今も、そしてとこしえに」、「すべての災いから」守るだろう(7-8節)と。詩人に与えられるヤハウェの守りは包括的かつ明瞭で、曖昧さを一切含みません。

ある一人の個人に対する神の働きは、実際には多様なものであると思います。例えば、ある時には励まし、ある時には叱り、またある時には慰め、ある時には試練を与えるという仕方で。ここでは、それらのすべてが、神がその人の「魂」を「見守る」と表現されているのでしょう。しかも神の守りは、詩人の「出で立つのも帰るのも」、すなわちこの人の人生の歩みのすべてに行き渡っています。これに対応して、「すべての災い」とは、人の「魂」を命の根源である神から遠ざけることで、最終的には死に近づける、あらゆる事柄を意味するのでしょう。

ですから私たちは、人生で出会う様々な出来事に対して、とりわけ幸運と思われる出来事に対して、人間的な視点からのみ〈これは私にとって善だ〉と早とちりすることのないよう気をつけるべきです。私にとって益と思われることも、私の「魂」を守る神から見るとき、それがまったく別のものである場合も大いにあり得るのです。

V

こうして見てきますと、この詩編で約束されたヤハウェの「守り」は、先に触れた〈神は自ら助くる者を助く〉という諺とは随分違います。ヤハウェの「守り」は完全に無条件です。自助努力がその条件ではありません。さらに〈神に信頼しなさい。そうすれば神はあなたを助けて下さるかも知れない〉とも言われていません。むしろ〈あなたを見守る神はまどろまない。だから怖れるな〉と言われています。世界の創造者に助けを求める詩人に開かれた現実とは、すべてに先立つ創造神の守り、しかも常に目覚めた神の守りでした。

 〈世界を造った神があなたを見守る。あなたを見守る神はまどろまない。この神があなたの魂を保護し、希望を与えてくださる〉――これは、非常に明瞭な約束の言葉です。しかし、幾つかの疑問が浮かんできます。例えば、この言葉の明瞭さは、どこから来るのでしょうか。私たちが生きる世界の現実は、もっと両義的で、妥協と矛盾に、あるいは不幸なアクシデントに満ちているのではないでしょうか。これほど明瞭な約束は、もしそれがおためごかしの慰めでないのなら、いったいどこにその根拠があるのでしょうか。また困難の中にある者にとって、この約束の言葉はどことなく抽象的な感じがします。この言葉は、具体的問題を抱えている私に、一体どのような解決を与えてくれるのでしょうか。そして最後に、これほど明瞭な言葉を語る声の持ち主はいったい誰なのだろう、という疑問を私は抱きます。自分自身のことを省みても、これほど確信に満ちた約束の言葉を語ることのできる人間が果たしているだろうか、と疑問に思うのです。

VI

詩人に与えられた約束の言葉の大きな明瞭さは、今ある世界の状態や人間の行動能力を「現実」とする視点からは、決して生まれません。この世界に生じるあらゆる出来事は、根源的に曖昧です。私たちの行動は、多くの場合、矛盾と妥協の産物です。そして子供も大人も、生きてゆく中で必ず様々な傷を受けます。私の信頼する人が、本当に私を、あるいは私の大切な人を守ってくれるかどうか、その人にそのための力が本当にあるかどうかは常に未知数です。では、この明瞭な約束の声は、一体どこから来るのでしょうか。〈神があなたを見守る〉という約束は、この世の現実を超える、世界の創造者の現実、すなわち神が被造物に向ける「生きよ」という明瞭な意志を、私たちに思い起こさせます。神の絶対的な守りという約束は、この世界の中ではなく、むしろその外側にありつつ、それでも私たちに「生きよ」という意志をもって臨む神ご自身に、その根拠があります。私たちの側でこの根拠に対応するものは、信仰をもって生きること以外にありません。

 ではこの約束を聞く者には、どのような解決が与えられるのでしょうか。この声は、私たちに信仰を呼び覚まします。そして世界の「現実」による支配から私たちを解き放ち、神の支配の中に導き入れます。創造者を知る者は、今ある世界の状態を最終決定的な現実と見なすことを止めます。もっともそれは、世界の現実を無視するということではありません。そうではなく、この世界のありさまが、ものごとを判断したり、行動の指針を得るうえで無視することのできない最も重要な基盤であると考えることを止め、むしろ世界を超えつつ、それでも世界に関わる神の導きに信頼しつつ、具体的な問題にもう一度新しく取り組むことを意味します。そこには忍耐も含まれるに違いありません。こうして私たちは、解決の困難な問題に取り囲まれても、未来に対する希望が与えられていることを知ります。困難の中にあっても不安に負けてしまわないこと、希望を失わないこと、これが、いわゆる「ご利益宗教」が約束する〈あっという間の解決〉とは一味違う解決、詩人に語りかける約束の声を通して、私たちにも与えられている解決であると思います。

 最後に、こんなに明瞭な言葉を語る声の持ち主はいったい誰なのか、ということを問いたいと思います。詩人に語りかける約束の声は、詩人の心の中に響く、他者の声です。この声は、詩人の心をヤハウェの圧倒的な守りに向けて開くために、自らの存在を神に向けて透明にしています。これは、創造神を指し示す純粋な声です。こんな純粋な言葉を語る存在は誰かと問うとき、私は、やはりイエス・キリストのことを、あるいはさきほど新約聖書から朗読したヨハネ福音書の表現を借りれば、私たちを導いて真理を悟らせる「聖霊」のことを思わずにはいられません。この純粋な声、すなわち私たちの命を望み、私たちに希望を与える創造者の意志を指し示す声は、私たちの歴史の中で、ナザレのイエスという一人の具体的な人間の生と死を通して、現実となりました。イエスは創造者なる神への信頼が人々の間に育つよう、全身全霊を捧げて働きました。特に心にとめたいのは、イエス自身がその人生の旅路の最後に、大きな絶望の淵を歩んだことです。イエスは死の際で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マコ15,34)と叫んだのでした。

VII

皆さんは、一六世紀ドイツで活躍した宗教画家マティアス・グリューネヴァルトが描いたの一部である「磔刑画」をご存知でしょう。この磔刑画に描かれたキリストには、聖者の死といった崇高な趣はまったくなく、むしろ非常に凄惨な印象があります。明治期にヨーロッパに留学した日本人が、お釈迦様の安らかな涅槃図を見慣れていたせいでしょうか、血を流して苦しむキリスト磔刑の絵画や彫刻が礼拝堂の内外に溢れているのに驚き、気分を悪くしたそうですが、イーゼンハイムの磔刑図を見たら、おそらく卒倒したのではないかと思われるほど、凄まじい死に様です。鞭打たれた皮膚の傷口には、血の混じった膿があちこちに浮かんでいます。

 これは、私の学問上の教師である荒井献さんの著作から知ったのですが、この磔刑図を元来所有していた修道院は、病院も兼ねていて、そこには「壊疽性ないし痙攣性の麦角中毒」の患者さんたちが収容されていたのだそうです。麦角中毒とは、穀類に蔓延する麦角菌がライ麦に寄生して生じる有毒の堅いかたまり(麦角)が引き起こす病気です。そしてキリストの身体中に画かれた血膿は、まさにこの麦角中毒が引き起こす症状であった。しかも患者たちは修道院に収容されるとき、まず礼拝堂の祭壇の前に、つまり彼らと同じ病を身に受けて、十字架上に死に絶えてゆくキリストの磔刑図の前に導かれたのだそうです。

VIII

三日目の朝、深い絶望のうちに死んだそのイエスを、神は絶対的な守りのみ手をもって支えたもうたことが、この世を超える命に溢れた、復活の主イエス・キリストとの不思議な出会いを通して明らかになりました。グリューネヴァルトの画く復活者キリストの身体は、金色に輝いています。手と脇そして両足の傷跡はきれいなピンク色で、とりわけ美しい光がそこから溢れている。この輝きの明瞭さは、詩編の言葉に深く通じるものがあります。

旧約聖書の詩人の心に響く、この明瞭な約束の声を、私たちはイエス・キリストへの信仰を通して、自らの人生の歩みの中で、もう一度新しく聞きたいと思います。


 
 

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