福音にふさわしい生活

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「福音にふさわしい生活」

陶山 義雄
イザヤ書61,1-4;

 パウロの手紙を読みますと、パウロが手紙を宛てた教会やキリスト者の間でさえ、人間的な思いや考え方の違いがもとで、不和や対立、時には分派が生じていたことが記されています。「私はパウロにつく」、「私はアポロに」、「私はケファに」。コリントの教会に起こった、このような分派のきざしを聞いて、パウロは忠告の手紙を書いておりますし、彼が訪ねた教会の中で、最も親しく、また、信頼を寄せていたフィリピの教会についても、「主にあって、同じ思いを抱きなさい」(フィリピ4:2)(口語訳:主にあって一つ思いになってほしい:どちらにも可能な訳)そのように、パウロをして語らしめるような不一致が起きていた様子を、私たちはフィリピの教会に宛てた手紙を通してしらされます。

 私たちの交わりには、全体が一つの意見にまとまることはなかなか無いことが良くあるものです。こうした不一致が仲間割れや対立を引き起こし、交わりを分裂させる要因になることが起こります。こうした状況に不安を感じて、パウロがフィリピの教会に宛てた忠告は、私たちも今、この時点で聞き従わねばならない言葉であるように感じています。

 フィリピ書は、コロサイ書やフィレモンへの手紙と並んで獄中書簡と言われています。手紙の執筆地がユダヤ人の地・カイザリアであれば、パウロがローマに連行される直前の2年間(52~54年)、幽閉されたこの所で、マケドニアのフィリピに宛てた文書であるとも考えられます。しかし、殉教死をも覚悟している内容からすれば、最晩年になってローマで書かれた手紙と見るのが至当であると思われます。フィリピの教会はパウロの第二回伝道旅行(言行録16:11~40)によって立てられた教会で、以来、師と親しく交わりを持ち続けた教会でしたが、牢獄に捕らえられていると聞いて、献金を募り、エパフロデトを獄中のパウロに遣わしました。ところが、この使者は病に倒れてしまったのです。しかし、回復した時点でパウロは彼を送り返すにあたって、この手紙をフィリピの教会に託したのです。ですから、他のどの手紙にも増して信頼と期待をこの教会に寄せていることが、最初の挨拶と祈りの中にも読み取ることが出来るのです。

「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは神が証しして下さいます。」(1:8)続いて獄中の近況報告では「生きるにも死ぬにもキリストが崇められることを切望し、殉教死に対する覚悟をも述べています(1:12~26)。こうした前置きのあとで、パウロはフィリピの教会が直面している具体的な勧めに入っています。本日のテキストである1章27節から30節はその勧めの冒頭にあたる言葉であります。ここでは、教会員の一致と、兄弟愛、キリストへの従順を勧めるなかで、「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考える」克己の必要を説き(2:1~4)、その模範がキリストご自身であることを、最古のキリスト賛歌(2:6~11)を引用しながら述べています。私たち、代々木上原教会では「最古のキリスト賛歌」は洗礼式で用いられ、信仰告白の式文として用いられています。

 本日のテキストに戻って、パウロは、巡回教師を待ち望んでいるフィリピの教会に集っている人たちに向かって、どんな状況に置かれているにせよ、私たちはただ、「ひたすらキリストの福音に相応しい生活を送ること」を訴えています。「キリストの福音に相応しい生活を送る」とはどう言う生き方を指しているのでしょうか。3章20節に「わたしたちの本国は天にあります」という有名な言葉があります。これを新共同訳で読むよりは、口語訳聖書の方が馴染んでおられる方も多く居られると思います:「私たちの国籍は天にある」(1954年訳)これは、1917年に訳された文語訳聖書の「我らの国籍は天にあり」と同じ言葉が使われています。1章27節で「キリストの福音にふさわし生活をおくりなさい」の最後の言葉「生活を送りなさい」と言う言葉は3章20節で国籍と訳されたり本国と訳された元の言葉:πολ?τευμαを動詞にしたものでπολιτξυεινが使われています。これは「市民として生活する」とか、「社会の一員としての義務を果たして生きる」と言う意味をもっています。「福音に相応しく生活する」とは、ただ単に教会員として通用する生き方ばかりでなく、そのことが、天においても、また、地上にあって社会人として生活するうえでも福音に相応しく生きなさい、と言う意味を持っています。キリスト者の社会的実践と言う言葉が戦後になって良く聞かれたのですが(とりわけ、赤岩榮牧師が戦時下において社会から孤立して、結果的に戦争遂行に加担したことにたいする反省として、上原教会では良く使われたのですが、パウロのこの言葉が良く当てはまっています。教会で果たすべき生き方は、天においても評価される生き方であるし、当然、社会人としても果たすべき生き方である。これがパウロの勧める「福音に相応しく、天国の住民としてのみならず、地上の市民としても生きる」という事なのです。

 パウロは僅か4節ほどの短いこの箇所で「福音に相応しく生活する」生き方を更に詳しく具体的に述べています。それは、先ず第一に「一つの霊によってしっかりと立つ」ことです。それは、誰もが持ち合わせている考え方や生き方ではなく、各人がキリストを信じる者へと改心させて下さった神からの贈り物としての聖霊にあずかって、しっかりと立ちなさい、と言うことであります。私たちが、自分の考えや、思い、心を物差しにしている限り、その集団は細胞分裂のように合い分かれてしまいます。そして、あのガン細胞のように、何時しか健康で正常な細胞は破壊され、固体そのものも死を迎えなければなりません。パウロは私たちを改心へと導いて下さった聖霊によって立つことを勧めているのです。これこそが私たちを1つ思いにし、1つ心になって、福音の前進のために力をあわせて働く者にして頂けるのです。

 「福音に相応しく生きる」生き方の第二は、私たちが何事についても驚いて、たじろぐことのない様子を保ち続けることである、と28節で述べています。「恐れ、たじろぐ」と言う言葉は「馬が驚き恐れてイナナク様子から来た言葉で、怯える様子を指しています。フィリピと言う町はローマの直轄領で、ローマ軍の駐屯地で、エーゲ海をにらむ軍港になっておりました。そこで、パウロは軍隊用語を僅かこの4節の中でも随所に使っているのです。「しっかりと立つ」もそうでしたし、「たじろぐ」も軍馬に用いられていた言葉です。先の「市民として生活する」と言う言葉もローマの殖民都市にある教会であるので、市民権、とか国籍に通じる言葉を用いている訳なのです。他の手紙にはない、こう言う言葉を聞いて、フィリピの人々はパウロに親しみを感じたに相違ないと思います。パウロが、この手紙を書いている獄中は、人間的には、驚き、たじろぎ、狼狽せざるをえない状況であることは容易に推察できるでしょう。この世的には、明らかに打ちのめされていたに違いありません。あれだけ骨折り働いた終わりに、牢獄に入れられ、処刑されることを覚悟し、しかも、それが間近に迫っていることを覚悟している状態。しかし、教会の指導者であれば、わずかの望みをつないで、出獄の可能性をフィリピの教会には伝えておかなければならない心境。これだけ材料を揃えて見ただけで、おののき、恐れ、たじろいでも不思議ではありません。しかし、御霊によって生かされ、神から賜物を頂いていることに目を向けている限り、敵対するものに狼狽させられないでいる姿をパウロ自身が私たちに先駆けて示してくれているのです。福音に相応しく生きる、とはこれ程、素晴らしい生き方であるのです。

 「福音に相応しく生きる」第三の生き方は、苦しむことも神から頂いた恵みとして身に受けて生きることであります。これこそは、聖書が示している中心的なメッセージであることを覚えておきたく思います。主イエスの苦難と十字架が何ゆえに私たちの救いとなっているのかを思い起こせば、第三の勧めがお分かりになる筈です。主イエスがゲッセマネの園で祈りつつ、御旨のままに十字架を受け止め、苦難に臨んで行かれたように、イエスに従う私たちも、苦難をも神から賜った恵みとして受け入れる生き方が「福音に相応しく生きる」道であると言う事です。これはキリスト教が日本人一般が持ち合わせているご利益信仰と決定的に異なる点ではないでしょうか。日本では今年も大晦日から元旦にかけて大勢の人たちが出かけた模様です。(高尾山薬王院と高幡不動尊)新聞記者の報告によれば、「不況であれば、それだけ多く人々は初詣に出かけたようだ」との解説が付け加えられておりました。初詣は日本人が抱いている宗教心を実に良く表している、と思います。これでも、無宗教なのでしょうか。 Elizabeth Kuebler-Ross は、こうした神頼みを、その著『死ぬ瞬間』~死に行く者が辿る5つの段階の中で、神頼みを擬似的宗教性と呼び、第三段階に位置づけています。ちなみに第一段階は「現状否認と孤立化」、第二段階は「烈しい怒りの段階」、そして第三が「神頼み」の段階であり、第四は「生ける屍」の状態。そして最後は「受容の段階」これを彼女は第三の擬似的宗教性に対して、真の宗教性の段階と名付けています。ガンの告知を受けた患者の多くは、医師の診断を受け入れず、前以上に元気な素振りを見せ、病人であることを打ち消すような振る舞いをするのが第一段階ですが、病状の進行と共に受け入れざるを得なく追い詰められた時に、多くの患者は「何故わたしだけが、このような目に会わなければならないのか。」「病気の原因を他人のせいに転嫁して怒りを爆発させる」第二段階に入る、と彼女は報告しています。それでも、痛みに堪えきれず、牧師先生を病床にお呼びして、第三段階が始まります:「もしこの病気を神様が治してくださったら、私は財産の半分を神様と教会に捧げます。」こうした「願掛け」をする人々は信仰心があるように見えながら、根は自己本位であることに変わりありません。ですから Kuebler-Ross はこれを擬似的宗教性と呼んでいるのです。それにしても、日本では、この種の心情を信仰心と取り違えていることが如何に多くある事でしょうか。初詣はその典型であると思います。これが擬似的宗教性であると言われる理由は、聖書が説く神との本来ありべき関わりに照らし合わせて、非本来的であるからです。主体は、あくまで願いを掛ける個人の側にある。そして神との取引をしています。「もしあなたが私の願いを適えてくださり、目的が実現できたなら、私はあなたを神として信じます。だから、この願いを叶えて下さい。」

 ところで、願いが叶えられない場合はどうなるのでしょうか。神を呪い、神などいないと言って立ち去って行くのです。厄除け、ジンクス、易占い、など日本人の常識的宗教観は全て個人の願いに立脚し、その殆どが叶えられない失望感から、無宗教、無信仰に流れて行く訳です。それに反して聖書が語る信仰は、何と際立った違いを伝えている事でしょうか。ヨブ記2章10節の言葉を思い起こしては如何でしょうか:「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸(主人公ヨブの場合は酷い皮膚病で、自分も苦しんでいるばかりでなく、これを見る人が顔を背ける状態の病)も頂こうではないか。」

 もし私たちにとって苦しむことがあるならば、それは、私のため、私の正しさのためではなく、キリストのため、ただキリストを信じる信仰の故に意味をもっているのであると言うこと。そしてそうした信仰があるならば、苦難をも神から頂いた賜物として受容することが出来ると言うのが、パウロの勧めている「福音に相応しく生きる」者の生き方であります。そして、そのような生き方をイエスご自身が十字架を忍び、これに打ち勝ってあらわしておられる出来事としてパウロはフィリピ書2章6節以下で繰り広げているのですが、それは有名なキリスト賛歌になっています。この勧めは、その当時のフィリピ教会でも歌われていた讃美歌ですが、まさに、私たち現在の状態に、何と良くあてはまる歌であり、勧めではありませんか。私たちが、それぞれの過去を振り返って見れば、苦しみが増すほどに、信仰が増し加わる恵みに与って来た事を、どなたも体験しておられる筈です。主任牧師が不在になった現在、その苦しみは、「苦しむことをも神から賜る恵み」として受容する時に、必ずや、この教会を強め、しっかりと立ち、狼狽せず、信仰の増進に繋がることを信じています。第三段階の擬似的宗教性では、自分本位な生き方が支配していたのに対して、第五段階では自分の苦難の意味を自覚しているところに大きな違いがあります。このことを Kuebler-Ross は良く指摘しているのですが、私もその通りであると思います。苦しむことの意味が分かるのです。病気が与えられたことにも意味のあることが分かる者になるのです。自らは謙虚になり、生も死も神から与えられた賜物であることを自覚して、これを受け入れている状態が受容の段階、真の宗教性の段階であります。

 現状を神から遣わされて、そこに在る存在として自覚した人は、どんな苦難の中にあっても、たとい、それが現代医学で不治の病と見られている病いであったとしても、その苦難をもって、他の人々のために生きる道を回復出来ている事が第五段階の特徴です。(ミス・マーチンの変貌)

 ところで、「福音に相応しく生きる」第4の勧めとしてパウロが語っているところも、これと一致しています。それは、対人関係における開かれた世界についての勧めであります。すでに述べられた3つの勧めは、いずれも信ずる者が自ら果たすべき務めにつぃて語られていた訳ですが、そうした勧めに従って福音に相応しく生きている者が、他の人々とどのような関係にあるのか、また、あるべきであるのかを、パウロは締めくくりとして述べています。これは「同苦の勧め」と呼ぶことの出来る訴えです。それは30節にある言葉です:「あなたがたは、わたしの戦いを見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」ここで「戦い」と訳されている言葉は「苦悩」、もしくは「苦闘」の方が適当であるので、口語訳聖書の方が相応しく聞こえます:「あなたがたは先に見、今また、私につぃて聞いているのと同じ苦闘を続けているのです。」 今、まさに苦しみのうちにある人も、また、今、さしあたって苦しみのうちにいない人も、それぞれの側から同苦を分かち合うところに、福音によって拓かれた神の平和が地上に実現して行く有様をパウロは思い描いています。

 他者の不幸を己が身に引き受けながら、暗い戦時下を美しく生き抜いた人として、私は Simone Weil を想い浮かべます。彼女はユダヤ系フランス人であったために、ナチス・ドイツがフランスを侵略した時に、一度は両親と共にアメリカに亡命を企てたのでありますが、自分の安全だけを考えて、戦線から離脱することの罪責感に苦しみ、再び戦火のヨーロッパにもどり、フランス解放戦士に加わりながら、天に召された女性であります。同苦をめぐる生き方について、遺品となったノートの端々から、輝き出るような言葉に出会うとき、深い感動に包まれます:

 「自分自身の飢えを見ようとせず、他人の飢えを我が身に引き受ける人は、言わば聖餐のパンとなったのである。彼は常に裂いて与えられる存在である。飢えている人々の叫び声が気になるので、もう自由に振舞うことが出来ない。他者の身になって、他者の苦悩を愛し、自分自身の不安に固着するのと同じ気持ちで、他者の身になって、他者の苦悩を愛し、自分自身の不安に固着するのと同じ気持ちで、他者の苦悩に固着するならば、それこそ他者を純粋に愛しているのであり、他者を自分自身と同じように愛しているのである。人が「人間を食べる」ことを止めるとき、初めてあとはただ神によってだけ養われようとし始める。そして隣人との関係は一変する。所有や占有の欲望から離れて純粋な関係となる。」(超自然的認識 251頁)

 ウェイユの素晴らしさは、それがただ単に美しい言葉として留まるのではなく、その言葉に相応しく、自ら実践している所にあります。それは丁度パウロがフィリピの教会に「福音に相応しく生きる」道を伝えながら、自ら、そのように生きる手本をパウロも示している所につながっています。あのように生きた人だから、あのように語ることも出来るのです。その手本をパウロはキリストの中に見出しているのです。

 私たちは、丁度、パウロがキリストに倣い、キリストに従って来たように、私たちもパウロの勧めを介してキリストに倣い従うものでありたいと思います。キリストの道をパウロは歩み、その道を、またフィリピの人たちが歩む。そしてそれを読む私たちも、同じ苦闘の道を受け継ぎながら、キリストの証しを立てて行く。そうすれば、私たちの交わりについても福音に相応しく生きる道が拓かれてゆくに違いありません。

 私たちの生き方の中心にキリストが見据えられていますように。私たちが1つの霊によってしっかりと立ち、何ものにもたじろがないで済むように、そのためには、キリストを私たちの手本として、福音に相応しく生活することができますよう、共に祈りをあわせましょう。

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Emmanuel

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