シリーズ過去記事 0 1 2 3 4 5 6
今回の記事がこのシリーズの最終回になります。少し内容を振り返ってみます。「⓪はじめに」では「聖なるものの受肉」誕生までの物語をお分かちしました。キリスト教倫理は単に良い悪いを判別するためだけのものではなく、もっと豊かなものではないか、そんな格闘が私の出発点でした。「①キリスト教倫理と自己物語」では、従来のキリスト教倫理のイメージを自己物語論の考え方を使って書き換えることを提案しました。イエス・キリストの「聖なるものの受肉」の歩みを手がかりにすることで、私たちはより豊かな神さまの冒険を味わっていくことができるはずです。「②『肉』と『聖』といのち」では、物語の書き換えのカギとなる「肉」「聖」「いのち」というキーワードを見ていきました。限界を持つ私たちの肉に神さまの聖なる力が現れるとき、弱さと限界と可死性を持つ肉は、神さまのいのちに満ちあふれるものとなります。「③ヨハネの物語~聖なるものの受肉」では、②で見た三つのキーワードに焦点を当ててヨハネ福音書の物語を読んでいきました。ヨハネの福音書からは、私たちの物語を方向付ける「聖なるものの受肉」の物語を見ることができます。「④いのちの矢印」では、これまで見たことからキリスト教倫理のあるべき姿についてまとめました。キリスト教倫理は神さまの大きないのちの矢印に、私たちの人生という小さな矢印を重ねていくものであり、私たちの共同体はいのちを目指していくべきだと述べました。その後の二つの記事は、ケーススタディーとしてセクシュアリティのゆえに排除されている人たちと教会がどう向き合っていくかについて取り上げました。「⑤イエス・キリストの真剣さ」ではイエス・キリストが私たちと向き合われたような真剣さで人々と向き合わなければならないこと、「⑥痛みからいのちへ」では、セクシュアリティのゆえに人が排除されているという現実が、どのようにこの人々を、また社会や共同体を傷つけるかについて見てきました。
それでは、教会はどうしたら良いのでしょうか。人々が傷つき、社会が傷つき、共同体が傷ついているという現実を前に、私たちは何をすべきなのでしょう。何をすることが神さまの大きな矢印に自らを重ねていくことになるのでしょう。
このシリーズの終わりに、いのちへ向かう教会となっていくために、3つの提案をしたいと思います。
倫理的課題を前にしたとき、教会は問うてきました。「私たちは彼らを受け入れるべきだろうか」「私たちはどのような行為を許し、どのような行為を退けるべきだろうか」「私たちが彼らを受け入れるためにどのような条件を設けたらよいだろうか」そんな問いです。その結果、同性愛者は受け入れないがトランスジェンダーは受け入れるとか、性行為に至らなければ同性愛指向を受け入れるとか、あるいは穏やかで問題を起こさない「モデルマイノリティ」ならば受け入れるとか言った様々な基準を作ってきました。これらの基準によって教会から去っていった人たちがいます。
父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(ヨハネ福音書17章21-22節)
様々な基準を作ることによって教会は「一つ」からは程遠い姿になっていきました。少し過激な表現が許されるとしたら、生かす交わりではなく殺す交わりになっていったのです。そして、これらの人々を排除し、そのいのちを傷つけることによって、共同体もいのちを失っていったのです。
私たちはまず、自らの共同体の姿をきちんと認識し、いのちから遠ざかっていることを自覚しなければならないと思うのです。ヨハネの福音書9章で、パリサイ派の人々は癒された人を追放しました。自分たちを問うことができる立場、裁くことのできる立場、人を追放することができる立場だと思っていたパリサイ派の人々に対して、イエス・キリストは見えていないのはあなたたちの方だと指摘したのです。
教会がまずすべきことは問われることです。問う立場、裁く立場、追放する立場を捨て、問われ、裁かれる立場に身を置くことです。
問われた後に直面するのは私たちの罪です。いかに道をふみはずし、いのちを失っているかという現実です。罪と向き合うことは痛いことです。私はセクシュアリティの研究を始めてから自分の罪と向き合わされました。これまで放ってきた言葉、とってきた行動がいかに性的マイノリティと呼ばれる人々のいのちを傷つけるものだったか。もう誰に謝ったらいいかもわからないけれど、自分が確かに人を生かす者ではなく殺す者だったことに気づかされました。また、言うべき言葉やとるべき行動があったとしても、わが身可愛さで口を噤んでしまう弱さとも向き合わされました。今まさにいのち脅かされている人がいるというのに。けれども、その痛みは私にとって必要なものでした。痛むべき傷を痛むことからしか、回復は始まらないからです。
そして、私たちは今度こそ私たちのいのちの矢印をイエス・キリストの「聖なるものの受肉」に重ねていくのです。イエス・キリストは人々がいのち脅かされている現実の中に肉として入って来てくださいました。ともに傷つき、痛み、ぐちゃぐちゃになりながら生きていくために。ヨハネの福音書11章で、イエス・キリストは涙を流し、怒りました。いのちとは真逆のものに人々が縛られ、傷つき、苦しんでいる現状を目の当たりにしたときイエス・キリストは感情を露わにされたのです。私たちは、そのように誰かの痛みに触れることができます。完全に同じ思いになることはできません。けれども、私たちには傷つけられれば痛いと感じる肉が与えられています。たとえ完全に思いを一つにすることができなかったとしても、誰かの痛みに共鳴して痛みの一部を担うことはできるのではないかと思うのです。
皮膚にとげが刺さって痛いと思えば、とげがささったままにしておくはずはないわけで、かならずとげを抜こうという変革の情熱が生じてくるはずです。つまり矛盾とか痛みとかいうものは現状肯定をゆるさないのです。(北森嘉蔵『聖書と西洋精神史』教文館、2006年、207頁)
痛みは現状肯定をゆるさない。痛むことは私たちを行動へと向かわせます。イエス・キリストがそうされたように、いのちなきところにいのちをもたらす倫理的行動へと。
忘れてはいけないことがあります。それは、傷つき排除された人々は、ただの可哀想な被害者ではないということです。確かに性的マイノリティと呼ばれる人々も傷つき、痛んできました。自分自身の肉体に傷つき、社会に傷つけられ、教会からも傷つけられ排除されてきました。けれども、痛みを抱えるクイアな人々は、その傷のゆえに助け合う共同体を築き、教会から傷つけられても痛みを抱えつつ信仰者として生きてきました。サンダースは言います。
自分を育てた教会や信仰共同体から神の愛の証しを示されることはほとんどないにも関わらず、クイアクリスチャンたちは自らそれを守り抜いてきた。その忠実さは、変化をもたらそうと自分たちの教会や教派に留まり続けたクイア・クリスチャンの根気強さだけでなく、神の広大な愛を語る福音のメッセージに堅く立つ信仰を示している。(コディー・サンダース『クイア・レッスン』144頁)
中には、痛みゆえに信仰から離れざるを得なかった人々もいます 。けれども、彼らの歩みからは「聖なるものの受肉」の一端を見ることができるのです。彼らは「周縁に置かれたセクシュアリティ」という肉の痛みを与えられながらも、その痛みを抱えながら神と結びつき、痛みによって交わりを広げていったのです。
ヨハネの福音書4章のサマリアの女性はイエス・キリストの出会いの後、町に出ていって人々にキリストを紹介しました。5章で癒された人は、自分とイエス・キリストの出会いの物語を語りました。ラザロは死にましたが、「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」(11:4)の言葉の通り、その身に起こった一連の出来事によって神の栄光を現わしました。生身のいのちである肉は弱いものです。傷つき、痛みます。けれども、だからこそ証人として用いられるのです。
サンダースは『クイア・レッスン』の中で教会に問い方を変えるよう勧めます。そしてクイアな人々(性的マイノリティ)から関係性・共同体・信仰深くあること・愛・暴力・赦しについて学ぶことを提案しています。
教会はこの人々から学ぶのです。学ぶためにはへりくだる必要があります。へりくだることは困難なことですが、私たちには奴隷のように弟子たちの前にひざまずいたイエス・キリストという模範が示されています。
イエス・キリストは「……わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)と言われました。聖書は大きないのちの矢印を示しています。神さまの大きな矢印は、断絶を解決し、人が神の前に居場所を与えられ、共同体が交わりの場になっていくことを目指すものです。
今回はセクシュアリティを取り上げましたが、ここまで私が語ってきたことは他の様々な倫理的課題にも適用できるものです。あらゆる倫理的課題は人に、そして人の痛みに関わるものです。行為の是非を問うことによって痛む人のいのちをさらに脅かしていくのではなく、ともに痛むという道があります。その人々の痛みをともに痛み、また自らの罪に痛み、痛みに突き動かされていくという道です。神の聖とは、聖ならざるもの、すなわちいのちから遠く離れているものにいのちを与えるものでした。
わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。(ヨハネの福音書17章15-19節)
イエス・キリストは祈られました。私たちが聖なるものとして世に遣わされていくことを。だから私たちは、神のいのちを帯びて出ていきましょう。傷ついたり痛んだりするぐちゃぐちゃの歩みの先に結ばれていく実があるはずです。これを読んでくださった皆さんが多くのいのちの実を結んでいかれることを心から願いつつ、この連載を閉じたいと思います。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。読んで応援してくださる方、感想を寄せてくださった方、直接やりとりすることはできなくても温かく見守ってくださった方、読みながら何かを感じてくださった方、この記事の最初の読者としてともに歩んでくださった山﨑ランサム先生、皆さんのおかげでこの長い連載をここまで続けることができました。またどこかで皆さんとお目にかかれることを期待しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.