「神の手による奉仕」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

I

イエスは、エルサレムで処刑される直前に、弟子たちと最後の晩餐の時を持ちました。マタイ、マルコ、ルカによる福音書では、この場面で最も重要なエピソードは、いわゆる「主の晩餐」です。イエスが、パンと葡萄酒を「これは私自身だ」と言いながら弟子たちに分け与えるのです。しかし本日のテキストであるヨハネ福音書13章には、最後の晩餐そのものについては「夕食のときであった」(2節)という最小限の言及しかありません。そして、「主の晩餐」にいわば代わるかたちで、〈イエスが弟子たちの足を洗った〉という事件が報告されます。「イエスの洗足」エピソードは、ヨハネ福音書に固有なものです。つまりヨハネ福音書では、主の晩餐に匹敵する重要な位置に、イエスの洗足が現れるのです。

II

さて洗足物語は、次のような言葉で始まります。

「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」(13,1)。

この言葉は、福音書の語り手によるコメントです。これから報告されるイエスの洗足が、弟子たちに対するイエスの大きな愛の証しであると述べているのです。誰かの足を洗うことは、当時の社会で、温かいもてなしと大きな尊敬を表現する行為でした。このサービスの提供者は主として奴隷、受益者は主人やその客人たちでした。

 イエスの洗足そのものは、次のように描写されています。彼は「立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた」(4-5節)。―― ユダヤ教の文献によると、ユダヤ人奴隷は、洗足の義務を免除されていたそうです。おそらく大きな屈辱を伴うものだったのでしょう。要するにイエスは、自らをまったく低くして弟子たちをもてなし、彼らに仕えたのです。

 今お読みしたイエスの洗足の描写には、次のような副文章によるコメントが先行しています。「イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神に帰ろうとしていることを思い」(3節)。――ここから疑いもなく明白なのは、弟子たちの足を洗ったイエスの「手」が、父なる神がそこに全権を委ねた手であることです。つまり弟子たちの足を洗ったのは、「神の手」としてのイエスの手でした。そして、この奉仕者としての姿に、神から来て神に帰る者としてのイエスのアイデンティティーが余すところなく表れています。

III

ところがペトロは、自分の番になるとイエスに向かって、「私の足など、決して洗わないでください」(8節a)と言います。師匠に奴隷のような真似をさせるわけにはいかないということなのでしょうか。イエスは、こう返答します。「もし私があなたの足を洗わないなら、あなたは私と何の係わりもなくなる」(8節b)。極端な言い方のように感じられますが、後のやりとりを見ると、「洗う」という表現が「清める」というニュアンスを含むことが分かります。つまりイエスが「私があなたの足を洗う」とペトロに言うとき、〈私があなたを清くし、あなたを救う〉というニュアンスがそこにあります。つまりイエスは、〈私はあなたを救うことで、私との関わりをあなたに与える〉と言っているのです。

 日本語で「足を洗う」と言えば、〈何かを止めて関係を絶つ〉という意味です。例えば〈泥棒家業から足を洗う〉と言えば、かつての泥棒仲間とはすっぱり縁を切り、金輪際付き合わないという意味です。これに対して、イエスが弟子たちの足を洗う目的は、「縁を切る」のとは正反対に、神の全権大使として〈救いの縁結び〉をすることにあります。足を洗うとは、洗われる人と特別な関係を結ぶことなのです。

 去年の年末、新聞の小さなコラムに、山本さんという方の紹介が載っていました(朝日新聞2000年12月24日〔日〕、「ひと」欄)。バンクーバーで売春婦の心理相談を続けておられる方です。カナダのメディアは彼女を、その独特のカウンセリングの方法から、「フットレディー」と呼んでいるそうです。記事の一部を引用しましょう。

「毎週水曜日、繁華街にある教会の一室で、売春婦たちに温かい食事が提供される。集まった彼女らの足元に湯を満たした容器とともに座り、足を洗い、香料入りオイルでゆっくりとマッサージする。/一日中、街角に立つ売春婦たちの脚はむくみ、麻薬の常用でぼろぼろに荒れている。ほとんどがエイズかC型肝炎にかかっているという。『初めは、吐き気をこらえるのに大変でした。今はもう平気です』。洗いながら、心がほぐれるのを待つ。半生を語り始める人。泣き出す人。『多くは性的虐待が転落の引き金。麻薬で激しい心の痛みから逃げている。その金を稼ぐための売春です』」。

「足を洗う」という行為がどのような行為か、よくお分かりいただけると思います。それは、やさしい思いやりに溢れた〈仕える行為〉、仕えることを通して相手の心を開き、その人を慰め、洗われる者に心の結びつきを与える振舞いです。

 そしてイエスの洗足は、たんなる縁結び以上の行為でした。なぜなら、弟子たちの足を洗ったイエスの「手」は、神がそこに全権を委ねた手、すなわちこの世界における「神の手」であったからです。イエスの洗足は、神がこの地上で人間に仕えた具体的な出来事でした。神とは人に仕えることで人を救う方である、ということをイエスは行動で示したのです。

IV

山本淑子さんは、クリスチャンです。彼女が行うカウンセリングの方法は、明らかにイエスの洗足を模範にしています。実際、イエス自身が弟子たちに、「模範」について次のように語っています。

「主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。私があなた方にしたとおりに、あなた方もするようにと、模範を示したのである」(14-15節)。

しかし〈神の手による奉仕〉が、一体どのような意味で、人間にとって「模範」なのでしょうか。「模範」という言葉を手がかりに、そのことを探ってみましょう。

 (1)私たちが誰かを「模範」にするとき、私たちはその人と同じくらい上手になれるよう努力を重ねます。これに対して山本さんは、イエスと同じくらい上手に、あるいはイエスより上手になろうなどとは夢にも思わないはずです。なぜならイエスは、山本さんにとって救い主であるからです。

 (2)私たちが誰かを「模範」にするとき、例えば私が〈やわらちゃん〉のような柔道選手になりたいと思うとき、いったん畳の上にあがれば、後は自分の力で闘うほかありません。相手が彼女自身である可能性だってあります。その意味で、私の現実を作り出すのは私自身です。これに対して山本さんにとっての出発点は、〈キリストが私に仕え、私を救った〉という外側から与えられた経験です。これがあって初めて、売春婦たちの足を洗うという、現在の山本さんの現実があります。

 (3)私たちが誰かを「模範」にして努力を重ね、その人を乗り越えたとき、私にとってその人が、なお模範であり続ける積極的な理由は多分ないだろうと思います。これに対して、イエスの「模範」行為をいつか乗り越えるなど、山本さんには思いもよらぬことでしょう。彼女は、キリストになり代わって、売春婦たちを救おうとしているわけではありません。キリストは彼女の生きる根拠ですから、キリストの模範を乗り越える必要はありません。

 (4)さて山本さんの記事に、こうあります。「自然が美しい〔バンクーバーの〕港町にも、五千人の麻薬患者、二千人の売春婦が住む地域がある。そこで働くことが、使命だと感じている」。この「使命」という表現は、ヨハネ福音書のイエスが、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない〔ovfei,lete〕」(14節)と言うことに対応しています。弟子たちは、「互いに仕える」という使命をイエスから与えられています。それは、自分の人生に大切な意味があることを知っていることを意味しています。この使命を委ねられていることが、私たちの誇りなのです。

V

以上の比較から分かるのは、イエスが与える「模範」に特徴的なのは、それが人間に何かの行動を要求するに先立って、それを受け取る者に生きる力と誇りを与えていることです。そこから初めて、生きる力を受け取った人にとっての使命・義務といったことが出てきます。

 これに対して私たちは、誰かに倫理的な行動を求めて、通常どのようなモノの言い方をするでしょうか。最も簡単なのは、「君は…しなさい」という命令口調でしょう。そうした命令を正当化する論拠として、私たちはしばしば、親・教師・年配者に従う、というような社会規範を持ち出します。あるいは、「あの人たちは可哀想な人たちであって、助けを必要としている」と、他者の窮状に訴えるかも知れません。さらに日本に特徴的な方法として、「君はよい子だから私の期待を裏切らない筈だ」と語りかけることで、規範の内面化を促すということもあるでしょう。

 しかしイエスが、〈あなた方は互いに足を洗い合う使命がある〉(14節)と言うときのやり方は、もっと独特です。イエスの場合、「教師」にして「主」である彼が、まるで奴隷のように弟子たちに奉仕しているのですから、社会の上下関係は初めから無視されています。また弟子たちにすれば、実はとりたてて足を洗ってもらう必要はありませんでした。つまりイエスの洗足は、最小限の必要を満たすものでなく、むしろ必要を遥かに超える、溢れんばかりの愛情の表現です。また弟子たちは、神さまお気に入りの「よい子」になろうとして、イエスに倣って互いの足を洗うわけではありません。この関連で興味深いのは、弟子たちに期待されているのが〈互いに仕える〉ことであり、〈イエスに返礼する〉ことではない点です。つまりイエスは、弟子たちに恩を着せたりしないのです。イエスが私たちに与える誇りは、神の手による奉仕の受け手としての誇りです。そしてこの誇りは、〈互いに仕える〉ことを通してのみ具体化します。

VI

現在、私たちの国では、「君は、栄光の歴史を誇る日本民族の一員なのだから、このことに誇りを、そして国のために命を捧げる覚悟も持ってよいのだ」、というような言い方がなされます。しかし、ここに言われている誇りは、〈互いに仕える〉ことに具体化する、キリストにおける誇りから、何と遠く隔たっていることでしょう。独り善がりのポーズや、「馬鹿野郎!」という怒鳴り声が飛び交う、先日の敗戦記念日の靖国神社の境内で、私たちの国の未来について、合意を目指した話し合いをすることは難しいように思います。どうしてこの神社の宮司さんたちは、神聖であるべき境内で、そうした威嚇と脅迫を容認するのでしょうか。また首相を初めとする多くの国会議員や都知事は、そして彼らを支持する人々は、どうして死者を弔うことが、国内的にも国外的にも、これほど攻撃的なかたちをとってよいと考えるのでしょうか。日本の宗教や政治が、攻撃的な側面を色濃く備えていることは、とても悲しいことです。

 私たちの社会は、弱者に対して、信じられないほど攻撃的です。〈互いに仕える〉ことを自虐的であるとまでは考えない人でも、それは偽善ではないかという不安から、しばしば自由でありません。そうした不安の根っこには、自らの誇りをどこまでも自らの行動と縄張りに基づいて作り出そうとする、脅迫観念のようなものがあると思います。

VII

イエス・キリストの神が、私たちに求められていることは何でしょうか? 山本淑子さんのエピソードにそのヒントが隠されていると思います。こうありました。

「洗いながら、心がほぐれるのを待つ。半生を語り始める人。泣き出す人。」

そうです。神が私たちに第一に求めておられるのは、「神の手」としてのイエスの手に、自分の足をまかせることです。つまりイエスにゆっくり洗わせること、私たちの固い心を解き解してもらうことです。この〈神の手による奉仕〉を心行くまで味わう人は、イエスを「模範」と仰ぎ、例えば山本さんに典型的に見てとれるような仕方で、共に生きる人々の足を洗うようになります。そのような人について、イエスはこう言っています。

「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。〔…〕はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(17.20節)

私たちも、〈神の手になる奉仕〉を受け入れたい、そしてこの奉仕の証し人として、互いの足を洗いたいと願います。


 
 

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