「罪の告白と赦し」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

先週の土曜日に、ソウルで「独立記念館」を見学した。何万坪という敷地に広がる巨大な記念館で、1982年、日本の「歴史教科書問題」をきっかけとして、韓国政府が総力を挙げて新設したという。一度に全部を見ることはとても出来ないので、「日本統治時代」をテーマにした第三、第四、第五展示館だけに集中した。日本は何とひどいことをしたのだろう! 暗い気持ちにさせられた。

こういう時、人は反発して否定するか、事実は認めるとしても直ぐに自己弁護を始めるか、どちらかの道に逃れようとする。多分、「新しい歴史教科書を作る会」の人たちは前者で、躍起になって否定しようとするだろう。多くの政治家は後者で、「韓国側にも責任がある」、とか、「日本も悪いことばかりした訳ではない」などと言いわけをする。いずれにせよ、「自己正当化」をしようとしている点では大して違いはない。

しかし、ヨハネが、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」(8)と言うように、「自己正当化」は真実に至る道ではない。

ここで、「自己正当化」について、もう少し話したい。

内村鑑三は明治27年(1894年)、「日清戦争」が始まった際、「日清戦争の義」という文章を書いた。元々は、アメリカなど、外国の友人たちに宛てて出された英文の手紙(Justification For The Korean War)である。後に『国民の友』に発表された翻訳と共に、『内村鑑三全集』第三巻に載っている。

その主旨はこうだ。――清国が朝鮮を我が物にしようとして非道の限りを尽くしている。見るに見かねて日本は出兵した。しかし、これは清国を懲らしめて朝鮮を解放し、その独立を守って上げるための「正義の戦争」であって、もちろん、物質的に日本に利益をもたらすための戦争でない、云々。

内村は当時、33歳の若き愛国者であった。愛国の熱情に駆られ、自らの言論を以って自国が行っている戦争を正当化しようとしたのである。しかし、彼ほどの人でも、その時、目が曇っていたと言わざるを得ない。「自己正当化」しようとする時、我々の判断は必ず曇る。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」!

翌年、戦争が終わると内村は目が覚める。「日本の利益を図るための戦争でない」などと言ったけれども、実は、日本は「下関条約」で二億両(テール)という莫大な賠償金を清国から召し上げたほか、台湾と膨湖諸島、それに遼東半島を割譲させた。朝鮮を併合したのはこの十数年後(1910年)だが、朝鮮に対する事実上の支配権も、日本はこの時手に入れた。正に、日本の利益のための戦争だったのである。

内村は、この事実を知って、自らの不明をひどく恥じた。彼ほどの人でも、単純な愛国心に基づいて「自己正当化」しようとする時、判断を曇らせることがあった。その例証だが、ただ、彼の偉大な点は、過ちに気づいた時、直ちに、そして率直に詫びたということである。彼は、心からの謝罪の言葉と共に、「日清戦争の義」という文章に書いたことを全面的に取り消す手紙を送った。

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(9)。

聖書の神は、「罪を赦してくださる神」である。すべての罪は、神の憐れみにより、最終的には主イエスの十字架によって赦される。このことを信じる人は、自分がどんなに罪深い存在であるかを知らされても、「だから駄目だ」とは言わない。ルターが「大胆に罪を犯せ」と言ったように、自分のありのままの姿を神の前にさらけ出して、赦しを祈り求める。

だが、「罪を赦す神」を信じない人は、自分で自分を正当化せざるを得ない。自ら自分の罪を告白することは、自分を否定することにつながるからである。「神によって義とされる」ことを信じない人は、「自分で自己を義とする」以外に方法がない。そして、「自己正当化」は自分で自分の面子を守るために事実を偽る道である。これは、必然的に高ぶりと争いを生み出す。

聖書に登場する重要な人物は、神の前に率直に自己の罪を告白した人々であった。モーセもダビデも、旧約の預言者たちも、ペトロやパウロなど新約の使徒たちも、すべてそうである。その意味で、今日の聖句は、いわば、聖書全体の要約と言えるであろう。

「独立記念館」を見終わって外に出た時、体調がひどく悪かったこともあったが、それ以上に、その内容に打ちひしがれたような気持ちになって、ベンチに腰掛けて頭を抱えていた。すると、一人のお爺さんが傍に座って、韓国語で何か話し掛けてきた。全く分からないので、「自分は日本人である」ということを伝えると、彼は一寸吃驚したような顔をしたが、それから、なんとも言えない目で私をじっと見詰めた。憎しみというのではない。彼は何を言いたかったのだろうか。

だが今、私にはあの老人の眼差しの意味が分かるような気がする。私はあの時、神の目の前に打ちひしがれた姿で座っていたのではなかったか。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」ということを信じて。


 
 

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