6月22日(金)から青年会の人たちを中心に総勢14名でソウルを訪れた。24日の日曜日は「キョンドン長老教会」の礼拝に参加し、私は次のような挨拶を述べた。
「敬愛する朴宗和牧師、同労者の皆さん、すべての兄弟たち姉妹たち。十字架につけられ、復活された方の御名において心からご挨拶申し上げます。
朴宗和牧師と私は、70年代にドイツで一緒に仕事をして以来の親しい友人です。昨年は、私が責任を持っている「富坂キリスト教センター」と「ドイツ東亜伝道会」が主催する「日・独・韓シンポジウム」が東京で開かれた時、彼に基調講演の一つをして頂き、出席者一同深い感銘を受けました。それ以来、いつかこの教会を訪ねたいと願っていましたが、今日、その願いが叶えられ、代々木上原教会の若者たちと共に礼拝に参加させて頂いたことを心から感謝しています。胸が一杯です。
昨日、私たちは「統一展望台」と、「独立記念館」を訪れました。そこで見聞したことを思うとき、また、明日は「朝鮮戦争」が勃発した記念日であることを思うとき、お国の方々がどれほど多くの苦難と痛みを経験してこられたか、そして、それについては私たちの日本にどれほど大きな責任があるかということを考えずにはおれません。
最近、日本では「新しい歴史教科書を作る会」の教科書が文部科学省の検定に合格しましたが、これも、お国の人々の痛みにさらに痛みを加える仕打ちです。もちろん、良識ある日本人の多くはこの教科書を厳しく批判していますし、日本基督教団も6月7日、「教育委員会」の名で文部科学省に厳重に抗議しました。しかし、約10%の中学校がそれを採用するのではないかと恐れられており、これは実に憂うべき事態です。日本が今、偏狭なナショナリズムの方向に向かって歩んでいることは覆うべくもありません。
しかし、偏狭なナショナリズムは、これまでの歴史が示すように、不毛です。それは争いの他何物も生み出しません。それを超えた全人類的・全地球的な価値を見出さなければ、人類の将来はありません。そして、教会には、そのような価値が与えられています。なぜなら、教会は国境を越え、文化の違いを超えて、全世界に広がる「キリストの体」だからです。
私たちは日本で、狭いナショナリズムに対して戦います。どうか、そのために祈って下さい。このエキュメニカルな(全世界的な)協力関係の中で、この世界に主の御心がなされて行くように、心から願うものです。
御教会の上に、すべての兄弟姉妹たちの上に、主の祝福がありますように。」
この挨拶の中で、私は「偏狭なナショナリズムは不毛である」ことを指摘し、「それを超えた全人類的・全地球的な価値を見出さなければ、人類の将来はない」と述べた。「新しい歴史教科書を作る会」の人たちに決定的に欠けているのは、この視点である。彼らは狭い愛国心から、日本の罪責を認める歴史記述を「自虐的」として否定し、韓国や中国に激しく反発する。最近では、韓国や中国の歴史教科書を「徹底的に検証する」と称してあら探しをしている。こういう対立は「水掛け論」となり、関係をこじらせるばかりだ。今の世界に必要なのは、一つの国の立場に固執せず、同じ人間として共に生きていくという「高い価値観」、あるいは「深い見方」である。
ヨハネ福音書8章で起こったのは、ある意味でこの「視点の転換」なのである。
姦通の現場で捕らえられた一人の女性が律法学者たちによって公衆の面前に引き出され、レビ記20章10節の規定に基づいて死刑に処すべきだと責め立てられる。彼女は黙っているが、心の中には「自分だけが悪いわけではない」という言い訳などが渦巻いていたであろう。
つまり、ここでは「律法主義者の立場」と「姦通を犯してしまった女性の立場」とが激突しており、批判し・攻撃する側の律法学者たちは、イエスが自分たちを支持することを期待し執拗にその判断を求めている。その時、イエスはどうしたか。
不思議なことに、彼は先ず「かがみ込み、指で地面に何か書き始めた」(6)。レンブラントはこの場面を何枚かスケッチしている。多分この画家も、責め立てていた人々と同じように、このイエスの仕草に一瞬はっとして、今まで考えても見なかった「新しい真実」に目を向けさせられたのではなかったか。
そして、次に語られた「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7) というイエスの言葉によって事態はさらにはっきりする。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(9)。つまり、「他人から裁かれる・それに対して抗弁する」という構造は消えてしまったのである。
イエスは、周りで責めていた人々とこの女を、ただ永遠なる神の前で自分を見詰めるように導き、そして赦しはただ神からだけ来ることを教えたのである。その後で二人の間に交わされた言葉(10節以下)も、そのような意味を持っている。
ただ永遠なる神の前で自分を見詰めるとき、そして赦しはただ神からだけ来ることを知るとき、我々は率直に自らの罪を告白することも出来るようになる。これこそが、真に人間らしい関係を築く基礎なのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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