不思議な神の業

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

不思議な神の業

I

聖書は、神と歩んだ人間たちの物語に溢れています。神との出会いは、喜びに満ちたものばかりではありません。そこには悲しみもあります。晴れやかさも苦々しさも、忠実さも裏切りも、呪いも祝福も、神への叫び、神への挑戦、そして神の前での敗北もあります。現代日本に生きる私たちとは、時代も世界観もずいぶん違います。それでも聖書がいろいろな人に読まれる理由のひとつは、そこに描かれたさまざまな〈生のかたち〉が、たいへん魅力的だからでしょう。今日とりあげるぶどう園と農夫のたとえも、イエス・キリストを間にはさんで、人間と神とのドラマチックな出会いを描くテキストのひとつです。

ぶどう園は、神に祝福された存在としてのイスラエルのシンボルです。ぶどうは溢れる実りと祝福のイメージです。ぶどうの木の下に座るとは〈満足して幸福に暮らす〉という意味です。日本で言えば稲穂俵お餅といったところでしょうか。こうした農耕に由来するシンボルは、いろんな文化で、〈労働に対する神の豊かな報い〉というような意味関連を示唆します。

II

 さて、イエスのぶどう園と農夫のたとえには、有名な元歌があります。さきほど朗読したイザヤのぶどう園の歌です(イザヤ5,1-7)。このテキストは、まるで交響曲のように、歌う人の視点と歌の調子がめまぐるしく変化する、とてもドラマチックな語りです。

 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を(1節)という出だしは、結婚式の披露宴で、新郎の友人が行なう楽しいスピーチを連想させます。ぶどう園とは花嫁のこと、良いぶどうの実り(2節前半)とは子宝に恵まれることです。ところが幸せに満ちた気分は、実ったのは酸っぱいぶどうであった(2節後半)という発言で一変します。酸っぱいとは腐ったという意味です。すると、さきほどまで新郎だったはずの人が、裁判を起こす原告のように、わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ云々(3-4節)と人々に呼びかけます。しかし次には裁判官のように判決を下すのです、さあ、お前たちに告げよう、わたしがこのぶどう畑をどうするかを(5節以下)。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる(6節)この人は神です。最後に預言者は、隠された比喩の種明かしをします、イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々(7節前半)。そして鋭い警告を発します、主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)(7節後半)。

 この有名な歌のおかげで、イスラエルの文化伝統においては、ぶどう園というイメージは、しばしば、神から与えられたもの・託されたものに対する神の前での申し開き、あるいは、そのことに対する神の問いかけ・告発、という位相で用いられるようになりました。アラム語による旧約聖書の敷衍訳であるタルグムには、こうあります、私は、彼らの真ん中に整所を建てた。そして私は、彼らの罪を贖うために、私の祭壇をも与えた。彼らはよい業を行なうであろうと、私は思った。ところが、彼らのなした業は悪いものであった。イエスのぶどう園と農夫のたとえも、その流れにあります。

III

もうひとつ、イエスのたとえには元歌のようなものがあります。それは預言者の受難の運命というモチーフです。お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった(エレミヤ7,25-26)。イエス自身もこう言っていました、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった(ルカ13,34)。――ここにあるのは、神はイスラエルに何度も預言者を派遣することで民族に覚醒を促したが、人間たちは繰りかえしこれを撥ね付けた。それゆえに民族は滅んだという理解です。

マルコ福音書のぶどう園と農夫の物語には、ぶどう園の主人の愛する息子が登場します。主人がわたしの息子なら敬ってくれるだろうと期待して最後に派遣する者です(マルコ12,6)。しかし農夫たちは彼を殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった(8節)。この息子とは、神の子イエス・キリストのことです。イエスは、最後の預言者として、神からイスラエル民族に派遣された神の愛する息子であると暗示されています。

すると、このたとえは、イザヤのぶどう園の歌と預言者の暴力的な運命の歴史という、ふたつの文化的なシンボリズムに支えられつつ、イエスを神の子と信じるキリスト教の視点から、紀元後70年のローマ軍によるエルサレム神殿の破壊、つまり二度目の神殿崩壊を、キリスト殺害に対する神の応答として理解するよう、読む者に促しているわけです。

IV

このイエスの歴史は、イスラエル民族と神の歴史の一部です。それは託されたものを大切にしないで、公義と正義を求めないで、かえって流血と叫喚を引き起こしてしまい、ついには国を失ってしまった歴史の一部です。この歴史は、しかし、イスラエル民族だけの歴史ではなく、キリスト教会の、そして私たちの国の歴史の一部でもあります。

 さらにイエス自身の物語も、外側から客観的に見れば、挫折の物語です。彼は大いなる挫折者です。彼の活動は一部の人々からは熱烈に支持されましたが、同時に大勢の批判者を生み出しました。そして最後には仲間たち全員から見棄てられ、たった一人で十字架上で拷問を受けつつ、神に向かってなぜあなたは私を見棄てたのかと問いかけながら死んでゆきました。

 神を信じて歩んだ者が、人間の冷淡さと残酷さに直面し、最後は神から棄てられたと感じながら死んでゆく――神と人間の歴史は、挫折が最後の言葉なのでしょうか。復活信仰は違うと言います。復活信仰は、一見すると神から見放された者の死の中にも、神はともにおられたと告白するからです。

V

キリスト教にも、たくさんの挫折の歴史があります。このたとえにも、用心しなければならない点があります。語り手イエスが聞き手に、さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうかと問いかけます。しかしイエスは直ちに自答して、こう言います、戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない(マルコ12,9)。これは、先にふれた紀元70年のローマ軍による第二神殿の崩壊を暗示する言葉です。ほとんどの学者たちは、ここにイエスの予知能力の証明ではなく、紀元70年以降の原始キリスト教会による加筆を見ます。問題は、ここから引き出されるキリスト教的なユダヤ人理解です。それは例えば、<キリストを殺害したユダヤ人の国は、神の道具であるローマ帝国によって滅ぼされた。今や教会が真のぶどう園、真のイスラエルなのだ>、というような理解です。

 そこから出てくるのは、<真の世界の担い手は私たちキリスト教徒であり、ユダヤ人は神に敵対する者であり、本来生きるに値しない>という理解、つまりキリスト教的な反ユダヤ主義です。これが歴史の中で、そしてとりわけ20世紀に、どれほどの惨禍をもたらしたことか。主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血。正義を待っておられたのに、見よ、叫喚(イザヤ5,7)という言葉は、キリスト教徒にもそのまま当てはまります。

VI

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツは、ユダヤ人やシンディ・ローマと呼ばれる人々を、大量に組織的に殺害しましたが、それと並んで、身体や精神に障害をもつ人々を収容し、安楽死という名の下に組織的に殺害しました。<真の世界の担い手は私たちだ。お前に生きるに値しない>と言って。生きるに値しないとは、当時の医者たちが本当に使った表現です。そして優性思想は、決して過去のものではありません。現在では、遺伝子レベルで赤ちゃんをデザインすることは可能になりつつあります。出生前検診を受けるか受けないか、私たちは子どもを生むたびに決断しなければなりません。

 さて、ナチス・ドイツによる心の病をもつ人々の組織的殺戮に対して抵抗した人の一人に、フリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィングという牧師がいます。彼の同名のお父さんは、ベーテルという町の創設者です。この町は、最初は癲癇(てんかん)患者の収容施設から出発し、やがては路上生活者や心の病をもつ人々なども受け入れて発展し、現在では町全体が福祉の町のようになっています。町には幼稚園から大学、神学大学まであり、ホテルやレストランもあり、さまざまな病院があります。老人ホームもありますし、心を病む人たちのための施設もあります。もっとも施設といっても、町には誰でも自由に出入りできますし、見張り番などはいません。町全体が、こうした人々と渾然一体となって暮らしています。

 いま東京で、日本におけるドイツ 2005-2006年の枠内で、ベーテル・ボーデルシュヴィング総合福祉施設で暮らす芸術家たちの絵画展が行なわれています。
⇒ http://www.doitsu-nen.jp/index_JA.php

先日私は、そのオープニングセレモニーに参加しました。展示された絵を見ると、それらを描いた芸術家たちが、いろいろな心理的な問題や精神の病を抱えていることはすぐに分かります。しかし絵は本当に素晴らしい。私が気に入った画家の絵は、じつに豊かな色彩に溢れています。お話をうかがうと、この人は中年の女性ですが、重度の精神障害のため、これまでの生涯で一言も言葉を発したことはないそうです。誰一人として、彼女に絵の才能があるなんて知りませんでした。だから彼女は、誰からも注目されずに生きてきました。社会は彼女に、<お前は生きるに値しない>というメッセージを送り続けてきたのです。しかし彼女が絵筆を手にしたとき、この人に神が与えた才能があふれ出たのです。

VII

私たちと神の物語は、どうなってゆくのでしょうか。かつての過ちを、少しでも繰り返さずにすむには、どうすればよいでしょうか。今日のテキストに引用された詩編の言葉に、そのためのヒントを求めたいと思います。

家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。(10-11節)

イエスは捨て石として、社会で役に立たない者、<お前は生きるに値しない>と言われて排除された者の一人として死にましたが、新しい建築物の中心となりました。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。言葉をまったく話すことのできない重い障がいをもつ人が、溢れんばかりの色彩の絵を描く。これも、私たちの目には不思議なことです。

 先にふれたボーデルシュヴィング牧師は、1938年、仲間の障がい者たちを、なんとかナチスから守ろうと苦闘している時期に、ある詩を書きました。その第一節は、次のようです。

今や、私たちの心は、
ゴルゴタの丘で犠牲となられたお方のもの
この方は激しい死の苦しみの中で、
神の秘密をご覧になった。
人間のすべての罪の
裁きの秘密を、
父なる神の永遠の恩恵からの
新しい光の秘儀を。

(橋本孝『福祉の町ベーテル』五月書房、2006年、139-140頁より)

この詩によれば、キリストの十字架は、イエスが神の秘密を見た場所です。それは人間のすべての罪の裁きと永遠の恩恵からの新しい光が同時に明らかになる場所です。私たちが、このことに与りたいならば、私たち自身が社会から捨て石として見棄てられ、追いやられた人々に、少しでも寄り添う生き方を目指すほかありません。

 受難節に属するこの主日、私たちもボーデルシュヴィングとともに、今や、私たちの心は、ゴルゴタの丘の上で犠牲となられたお方のもの。と祈りたいと思います。



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