今や、恵みの時

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

今や、恵みの時

 今日の箇所の初めのほう、2節で、パウロはイザヤ書49章8節のわたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けたという言葉を引用している。わたしとは主なる神ヤハウエのことであり、あなたとはイスラエルの民を指す。バビロン捕囚からの解放という歴史的な出来事(紀元前539年)を経験した預言者・第二イザヤは、神の恵み深い歴史介入について語ったのである。

 何百年も前の預言者の言葉を援用して自らの信じるところを展開するというやり方は、なにもパウロに限ったことではない。新約聖書の至る所に見られる特徴である。そして、それは、聖書を書いた人々の心の中に、民族の記憶ともいうべきものが脈々と受け継がれていたことを物語っている。

 民族の記憶といっても、この国の政治家たちがしばしば語るような、独りよがりの栄光の記憶ではない。靖国神社の遊就館には、日本が正義のために、あるいはアジア諸民族を欧米諸国の植民地支配から解放するために戦争を始めざるを得えなかったとか、その際、日本の若者たちがいかに勇敢に戦って尊い命を捧げたかといった趣旨の展示が並べられている。日本が起こした戦争のためにアジアの多くの人々が受けた言葉に尽くせぬ苦しみについては、ほとんど全く顧みられていない。自分たちの国が犯した罪に目をつぶって過去を美化するようなものは民族の記憶とは言えまい。苦しめられたアジアの人々も決して容認しないだろう。

 聖書にある民族の記憶はそういうものとは違う。ヨーハン・バプティスト・メッツというカトリックの神学者は、それは苦難の記憶(メモリア・パッシオーニス)だ、と言ったことがある。同感だ。それは、自分たちの経験した苦難を単なる被害者意識で記憶するのではなく、さまざまな苦難に出遭ったのは本来自分たちが神に対して不真実だったからであり、それ故に責任は自分たちにあるということを明確に記憶することである。自分たちの罪によって他者を苦しめ、ひいては自分自身も傷ついたということを心に深く刻むこと。その上で、恵み深い神が苦難の中にある民の声を聞かれたこと、そして繰り返し救いの手を伸ばされたことをも心に刻むことである。わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた!

 これが聖書の根底にある民族の記憶・苦難の記憶であって、今日のパウロの言葉の節々に息づいているのも、この記憶に他ならない。だから彼は、今や、恵みの時、今こそ、救いの日(2節)と言い、この民族の記憶は紀元1世紀半ばのコリント教会の中にも生きている、と断言する。だからこそ、あなたがたが空しく神の恵みを受けることがないように(1節、青野訳)と勧めるのである。

 私たちは、このことをもう少し広げて考えたい。聖書の根底を支える苦難の記憶は、21世紀の現代に生きるこの代々木上原教会にも生きている。私たちの教会は、『戦争責任告白』(1967年)を大切にしているが、そこでは、日本基督教団はあの戦争に同調すべきではなかったと述べた後、まことに私どもの祖国が罪を犯した時、私どもの教会もまたその罪に陥りました。私どもは<見張り>の使命をないがしろに致しました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主に赦しを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞に心からの赦しを請う次第でありますと告白している。これこそが、私たちの記憶なのであり、これは風化させてはならないものだ。

 さて、パウロは、この記憶を風化させないことが神に対する私たちの奉仕の務め(3節)だ、と言う。それを遂行するのは簡単なことではない。ありとあらゆる障碍が生じるであろう。そのことをパウロは身をもって体験した。それを具体的に描写したのが4節以下である。青野氏はこの所を、煩わしくなるのを恐れずにこう訳している。すべてのことにおいて私たちは、神の奉仕者として己れを示している。[すなわち、]多くの忍耐において、患難において、危機において、行き詰まりにおいて、鞭打ちの刑において、牢獄において、騒乱において、労苦において、不眠において、飢餓において、純粋さにおいて、知識において、寛容において、慈愛において、聖霊において、偽りのない愛において、真理の言葉において、神の力において、左右[の手]の義の武具によって、栄光と恥辱とによって、悪評と好評とによって[、己れを示している]

 ここからも既に明らかだが、キリスト者として生きるということは一つの逆説なのだ。はそのことを見事に示している。この逆説は、人間の目に見える現実と神がご覧になる真実は違う、ということを示すものではないか。

 ボンヘッファーが獄中で作った詩に、私は何者なのか?というのがある。出だしはこうだ。私は何者か? 彼らはよく私に言う、私が自分の獄房から平然と明るく、しっかりとした足取りで、領主がその館から出てくる時のように歩み出ると。これは、他人の目に映った自分の姿だ。だが、自分の姿は自分だけが知っている。彼は私は本当に、他の人々が言うような者なのか?と自問し、正直にこう告白する。籠の中の鳥のように動揺し、憧れて病み、・・・色彩や花々や鳥の声を求めて飢え、渇いたようにやさしい言葉や人間的なぬくもりを求め、恣意や最も些細な無礼にも怒りにふるえ、・・・疲れ、祈り・思索・創造への余力ももはやなく、くたびれ果てて、みんなに別れを告げる用意をする

 だが、注目すべきことに、最後はこう結ばれる。私は何者か? ただひとりでこう問う時、その問いは私をあざける。私が何者であれ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものだ。このことを知る者だけが、逆説に耐えて生き得るのである。


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