聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿4)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

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④いのちの矢印

このシリーズの最終回が見えてきました。今回は「いのちの矢印」というタイトルで、キリスト教倫理がどうあるべきかについてまとめていきたいと思います。

以前の記事「①キリスト教倫理と自己物語」の中で、聖書は矢印だと書きました。聖書は、神さまが世界をどのように導こうとしておられるかの大きな矢印です。そして、私たちはその大きな矢印に自分の人生という矢印を重ねていくのです。

 

前回の記事で見たヨハネの福音書の物語は、私たちにどのような矢印を見せてくれるのでしょうか。「神さまの物語」という大きな矢印と「私たちの人生」という小さな矢印を、「聖なるものの受肉」の物語から見ていきましょう。

(1)大きないのちの矢印

私たちが生きる世界は、神さまに「あれ」と望まれた良い世界です。けれども、この世界は神さまに生かされることを拒み、本来の在り方から外れてしまいました。それによって、世界はいのちを失ってしまいます。神さまはそのような世界をなおも愛し、交わりを回復しようとされている。それが、ヨハネが冒頭で描き出している世界と神さまの関係です。

神さまが向かおうとしているのはいのちの回復です。「聖なるものの受肉」は大きないのちの矢印を示しているのです。

あなたは子に、すべての肉(新改訳2017では「人」)を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。(ヨハネの福音書17章2節)

ヨハネは、「永遠のいのち」というものを神さまとの交わりとして描き出します。

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。(ヨハネの福音書17章3節)

神さまとの交わりを拒んだ世界が、再び神さまとの交わりを回復することが大きな矢印の向かう先です。そして、この矢印の先では「すべての人」が「一つ」となっています。

また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(ヨハネの福音書11章52節)

わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたこと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(ヨハネの福音書17章23節)

ばらばらになって、交わりといういのちから遠く離れてしまっている人たちが「一つ」になっていく。いのちは個人的な神さまとの関係にとどまらず、人々の愛の交わりとしても描かれるのです。神さまの愛の交わりの中でいのちを回復した人たちが、そこに愛の交わりを形成し、その交わりがどんどん重なり、広がっていくこと。それがこの大きな矢印の向かうハッピーエンドなのです。

(2)小さないのちの矢印

もしかしたらこの大きな矢印は、私たちにはあまりにも壮大すぎるものかもしれません。そこにどう自分自身を重ねたらいいか途方に暮れてしまう人もいるかもしれません。けれどもイエス・キリストの「聖なるものの受肉」としての歩みは、小さな私たちに、大きな矢印への自分の人生の重ね方を教えてくれます。

イエス・キリストは聖なる神でありながら、肉なるものとしてこの世界に来て、私たちと同じように限界の中で生き抜かれました。だから私たちも、この方の生きざまに自分の生きざまを重ねることができます。そして、大きないのちの矢印に、私たちの小さな矢印を重ねていくことができるのです。

真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。(ヨハネの福音書17章17-19節)

私たちは、神と交わりを持ち、聖なるものとされました。だから、聖なるものとして神のいのちを帯びてこの世界に遣わされていきます。この世界がいのちを回復するために。

同時に私たちは、肉なるものとしてこの世界に遣わされていきます。イエス・キリストの肉の弱さは人々と連帯するために用いられました。イエス・キリストだけではありません。サマリアの女性、病を癒された人々、ラザロ…彼らは肉によってみわざを経験し、そのあと証人として用いられていきました。

愛するということにおいて、私たちは自分たちが生身のいのちであるということに肯定的な意味を付与することができます。人々と連帯して生きるために、私たちが肉であり、弱さや痛みを覚えるということは重要なことです。私たちが誰かのために生身のいのちに痛みを覚え、そして、究極的な愛の行為として生身のいのちを使っていくときに、私たちは神さまの大きないのちの矢印に加わる小さないのちの矢印になっていくのです。

(3)いのちなき場所に

(1)(2)で見たように、「聖なるものの受肉」はいのちの回復に向かっており、いのちは交わりの回復として描かれます。そのような矢印を意識するとき、キリスト教倫理の関心事は〇×の判定ではなくなります。どのようにいのちを回復することができるか、何がいのちを阻んでいるのか、それが私たちの関心事になるはずです。

人がいのちを失っている状態とは何でしょう。それは、疎外です。神さまとの交わりから疎外されていること、人々の愛の交わりから疎外されていること。そして、その疎外は、人に大きな痛みを引き起こします。サマリアの女性は、家父長制の社会の中で傷つき、人目のある時間に井戸に水を汲みに来ることができませんでした。生まれつき目が見えなかった男性は、本人か家族が罪を犯したのだという偏見に晒され、傷ついていました。イエス・キリストはそのような傷つきと疎外を経験している人たちに出会い、交わり、そしてかれらを共同体の交わりに回復させました。

現在、私たちが置かれているこの社会で、疎外されている人たちは誰でしょうか。どこに痛みがあるのでしょうか。私たちが出会い、交わるべき人たちとは誰でしょうか。

(4)いのちへの矢印の共同体

そしてもう一つ考えなければいけないことがあります。それは、私たちの共同体は、いのちある共同体になっているかということです。(1)で見たように、大きないのちの矢印は、「一つ」という方向性に向かうものでした。小さないのちの矢印がばらばらに存在するのではなく、「一つ」の交わりを形成するという未来を指し示しています。ここにある共同体のイメージは、いのちへの矢印の共同体です。

ただ、「一つ」ということは時に難しいことです。「一致を守る」という大義名分の下に他の人と異なった性質を持つ人が差別されたり、そこにある力関係が無視されたり、大きな傷が放置されて赦しが強制されたり、弱くされている人の声がないものとされたり…あらゆる暴力が許されてしまうことがあります。「一つ」であるとは、見たくないものから目を背けて表面を取り繕うことではありません。私たちの共同体が本当に「聖なるものの受肉」が指し示す「一つ」になっていく過程には、きっと大きな痛みがあるのだと思います。

けれども、たとえ痛みを伴ったとしても、自分たちの共同体がいのちを失っていると認めることは大切なことです。それは悔い改めの始まりだからです。私たちは、いのちを失った世界がいのちを回復するということ、いのちから疎外されている人たちがいのちを回復するということに加えて、私たちの共同体がいのちを回復していくということにも目を向けなければならないのです。

三つの「いのちの回復」の手がかりになるのは痛みです。痛みとは、大きないのちの矢印に小さないのちの矢印を重ねていく、いのちへの矢印の共同体であるためのヒントです。誰かの痛みは、いのちから疎外されている人がいるという世界の傷つき、共同体の傷つきに気づかせます。そして、その痛みをともに痛むこと、世界や共同体が傷ついていることを痛むことがいのちの回復の始まりです。なぜなら、「聖なるものの受肉」には肉にあって痛みを覚え、その痛みによって連帯し交わりの回復を実現されたイエス・キリストが描かれているからです。

痛みを手がかりにして交わりを回復していくキリスト教倫理とは、具体的にどのようなものでしょうか。次回、セクシュアリティのゆえに疎外されている人たちの痛みから、このことについて考えていきたいと思います。

(続く)

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