聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿5)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

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⑤イエス・キリストの真剣さ

(注:今回の記事には性についての様々な専門用語が出てきます。この記事の最後に用語の解説を載せますので、性についての専門用語になじみのない方は記事の最後から読んでいただければと思います)

前回までの内容をまとめてみましょう。前回まではキリスト教倫理の枠組みとも言える内容を扱っていました。キリスト教倫理とは単に〇×を判定するものではなく、神さまの目指すいのちの回復に向かっていくものです。そして、いのちの回復の手がかりとなるキーワードは痛みです。今回の記事では、こういった倫理を現代の問題に適用していきたいと思います。前回の最後に予告した通り、扱うのはセクシュアリティのゆえに疎外されている人たちの痛みです。

2017年に刊行された『聖書信仰の成熟を目指して』の中で多様な性のあり方についての言及があります。

LGBTを受け入れるのは、よりリベラルなキリスト教であって保守的なキリスト教ではないと思われています。(斉藤善樹「聖書は多様な性のあり方にどのように向き合うべきか」『聖書信仰の成熟を目指して』96頁)

この一文から二つのことがわかります。一つは、「保守的なキリスト教」は「LGBT」と呼ばれる人々を受け入れることができない現実があるということ。そして、「保守的なキリスト教」の人々が「LGBT」を拒否するという選択をしない人々に「リベラル」というレッテルを張っているということです。セクシュアリティのゆえに人を排斥すること、自分と立場の違う人にレッテルを張って拒絶すること、それは前回見たような「一つ」になるといういのちの回復とは真逆です。ちなみに、私は福音派教会の中で使われる「リベラル」という言葉が好きではありません。ご自身で誇りをもって「リベラル」を名乗る友人はいますが、残念ながら福音派の中では、自分と異なる立場の人を侮蔑するために「リベラル」という言葉が使われることが多いように思います。

この本が刊行されてから6年。現在はどうでしょうか。残念ながらあまり状況は変わっていないように思います。それに加えて、「教会を分裂させる」という理由でセクシュアリティについて語ることが忌避されているようにも思いますし、このことについて発言する人が「攻撃的」「戦闘的」に見られてしまう様子も見受けられます。

ですが、忘れてはいけないのは、「LGBT」は今はやりの論争テーマなどではなく、すでに傷つき、痛み、そしてそれでも生きている生身の人々のことなのだということです。「LGBT」が教会を分裂させるのではありません。すでにこの人々は、話題に上がろうと上がるまいと関係なく引き裂かれるような痛みを覚え、実際にいのちの交わりから引き裂かれているのです。

すでにそこにある痛みに対して、私たちはどのような倫理的態度をとっていくべきでしょうか。

本題に入っていく前に、最近友人が言っていた言葉を紹介したいと思います。

「あなたは、神さまと向き合うくらい真剣に、セクシュアル・マイノリティと向き合ってくれましたか。聖書や神学書を読むくらいに真剣に、セクシュアリティに関する専門書を読んでくれましたか。」

私に向けられた言葉ではありません。ゲイである彼が、ある牧師に向かって語った言葉です。けれども私は、この言葉が自分に向けられているように感じました。私はどれくらい真剣だったのだろう。どれくらい真剣に人と向き合おうとしていたんだろう。そう問われました。

イエス・キリストが生身のいのちになって私たちの間に住まわれたこと。それは、真剣に人と向き合おうとされたということです。生身のいのちである私たちの痛みも傷つきも弱さも限界も、他人ごとではなく自分の体で体験したということです。私たちは、そのイエス・キリストの真剣さをもって人と関わるべきなのではないでしょうか。

もちろん、すべての人の痛みを理解することはできませんし、他人の痛みを同じように体験することもできません。けれども、私たちはイエス・キリストの真剣さを可能な限り追い求めていくべきなのではないでしょうか。

この後その牧師は、沢山のセクシュアリティに関する本を買い、読んでいました。斉藤善樹が指摘したような「保守的なキリスト教」の悲しい現実もありますが、一方で、真剣に、謙遜に学ぼうとする方もいるのだということは大きな希望だと思っています。

セクシュアリティについて扱う上で非常に助けになる『クイア・レッスン 私たちがLGBTQから学べること』という本があります。「クイア」とは聞きなれない言葉かもしれませんが「LGBT」や「セクシュアル・マイノリティ」といった言葉と同様、社会が「基準」として定めてしまっている性の在り方から外れた人たちを指す用語です。この本は、教会が「クイアに教えようとする」立ち位置から「クイアから学ぶ」立ち位置にシフトするということを勧めています。

クイア・レッスンの学び直しは、教会にとって不都合かもしれない。そのレッスンを通じて自分の立場を変えるように招かれるからだ。懐疑的なアプローチでは、質問をすることを許されるのは特権をもち、共同体の包括性を決める立場にある権力を持った人々(すなわち異性愛者やジェンダー・アイデンティティに違和感のない人)だけだ。それらの人々は共同体の中心位置から、周縁にいるクイアな人々について、懐疑的な態度で生活や愛情についての尋問をすることが許されている。そして会話のルールを決め、どのような質問をするかを決め、場合によっては「どのような答えならば聞き入れるか」ということさえも決めてしまう。そうではなく、本来私たちが招かれているのは「低くされたものから学び直す」プロセスだ。(コディー・サンダース『クイア・レッスン』39-40頁)

異性愛者やジェンダー・アイデンティティに違和感のない人々で構成された教会は長いこと「クイア」「LGBT」「セクシュアル・マイノリティ」と呼ばれる人々を上からジャッジしていました。この人々の性の在り方が罪かそうではないか、どこまでが罪でどこからがそうでないのか、どのようにすればこの人々を教会のメンバーとして受け入れられるか、そういったジャッジの仕方です。けれども、私たちに求められているのは「低くされたものから学び直す」プロセスではないでしょうか。

イエス・キリストはサマリアの女性とどのように出会われたでしょうか。家父長制の社会において、男性であるというだけで彼女より優位な立場にいたイエス・キリスト、さらに二人の間にはユダヤ人とサマリア人という壁がありました。女性が男性の庇護下に入らなければ生きていくことが困難だった時代、彼女は自分を守ってくれるはずの男性との別れを何度も経験しました。死別か、それとも離縁か。どちらにせよ、彼女が選んだことではありません。(当時は男性の側が簡単に妻を離縁することができた時代です)今も夫ではない人と暮らしている。どれだけ不安定で、そして不安だったでしょう。けれども、おそらく彼女はその不安定な状態のゆえに人々から虐げられてきたのでしょう。人のいない時間に水汲みに来るような生活をしていました。イエス・キリストは、彼女に一杯の水を求めます。ユダヤ人男性として上から彼女をジャッジしたのではありません。疲れて渇きを覚えた弱々しい旅人として彼女と出会ったのです。聖なる神が生身のいのちになるとは、こういうことでした。ピリピ2:6-8にあるように、ご自分を無にしてへりくだってこの世界のいのちと関わること、それが、イエス・キリストの真剣さでした。教会は、このイエス・キリストのようにへりくだることができるでしょうか。上からジャッジするという立場を捨てることができるでしょうか。

まずは、教会の側が弱さを認めるところからではないかと思うのです。この方々について何も知らない、無知であるということを認め、へりくだって学ぶところから。そこからしか対話は生まれないと思うのです。

具体的な内容に入っていく前に、学ぶところから始められたらと思います。そのためにまずは、用語の確認から入っていきましょう。もしかしたら知らずに使っている言葉、知らなかったら概念もあるかもしれません。簡単にではありますが、最低限の用語の解説を以下に載せておきます。なお、その語を使用する人によって細かい定義が異なる場合もありますが、その点はご了承ください。

【セクシュアリティ】

WHOはセクシュアリティを以下のように定義します。(web上に掲載された定義ですが、現在は掲載されていません)

セクシュアリティとは、人間であることの中核的な特質のひとつで、セックス、ジェンダー、セクシュアル・アイデンティティならびにジェンダー・アイデンティティ、性指向、エロティシズム、情緒的愛着/愛情、およびリプロダクションを含む。

ここに挙げられているように、セクシュアリティには様々な要素が含まれていますが、セクシュアリティの要素のうち「身体的性別」「性自認」「ジェンダー表現」「性指向」の四要素を取り上げて説明されることが多くあります。皆さんは下の図のどこに〇がつくでしょうか。必ずしも両端にだけ〇がつくというわけではありません。中央あるいは中央寄りに〇がつく場合、全体に〇がつく場合、どこにも〇がつかない場合もあります。

【身体的性別】

性染色体、外性器、内性器、ホルモン等で判別できる性のことです。こちらも簡単に「男性/女性」に分けられるわけではなく、様々な要素が絡み合ってグラデーションになっています。多くの場合は出生時にお医者さんが判断しますが、DSDs(性分化疾患)の場合、成長の過程で出生時の性別とは違った特徴が現れることもあります。

【性自認】

自身が認識し、経験している性のことです。性自認も必ずしも「男性/女性」の二択ではなく、どちらでもない人、どちらでもある人、とグラデーションになっています。性自認が身体的性別と一致している人を「シスジェンダー」、異なる人を「トランスジェンダー」と呼びます。

【ジェンダー表現】

自分らしい性の表現がジェンダー表現です。これは文化的背景に強く影響を受けます。たとえば、上の図は男性を青、女性をピンクにしていますが、これは恣意的なものです。青が男性らしい色でピンクが女性らしい色というのは社会が決めたものであり、文化によっては逆になることもあります。

【性指向】

どのような性の人に恋愛感情を抱くかが性指向です。恋愛感情が異性に向く人を異性愛者(ヘテロセクシュアル)、同性に向く人を同性愛者(ホモセクシュアル)、両性に向く人を両性愛者(バイセクシュアル)、どのような相手にも恋愛感情を抱かない人をアロマンティック・アセクシュアル、単に性的欲求を持たない人をアセクシュアルと言います。

【性的マイノリティ】

先ほどのセクシュアリティの表の中で右側一直線、あるいは左側一直線に〇が並ぶ人を社会は「基準」にしてしまっています。その「基準」から外れる人は「性的マイノリティ」として生きづらさを強いられます。「性的マイノリティ」「セクシュアル・マイノリティ」「LGBT」「LGBTQ」「クイア」等様々な用語が用いられます。「LGBT」というのはレズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(性別違和を持つ人)の頭文字をとっており、そこにA(アセクシュアルあるいはアライ)Q(クエスチョニングあるいはクイア)を加えたり+やsを加えたりする場合もあります。私は個人的には「性的マイノリティ」あるいは「クイア」という表現がしっくりくるので「LGBT」という語はあまり使いません。また、マイノリティではないけれど性的マイノリティと連帯しようとする人たちのことをアライと言います。

様々な用語を挙げましたが、いかがだったでしょうか。聞き慣れない言葉もあったかもしれませんが、中には、こういった言葉を知ることで、自分のアイデンティティが少しはっきりしてくるという人もいたかもしれません。私も、セクシュアリティについて学び、言葉と出会っていく中で、あぁ私はこういう存在だったのだとしっくりきたという経験があります。言葉との出会いは、自分について語る言葉を手に入れることでもあると思うのです。多くの性的マイノリティが、幼少期に「自分は他と違う」という苦しみを抱えながら、成長してこういった言葉と出会い、「自分は一人ではなかった」と知る経験をしています。言葉と出会うことが必ずしも幸せに直結するわけではなく、多くの場合自分を語る言葉を手に入れた後も苦しみは続くわけですが、こういった言葉との出会いがマイノリティが自分のいのちをいきいきと生きるための助けになっているのです。

最後に、精神科医の針間克己の言葉を紹介して今回の記事を閉じたいと思います。

「性」という漢字は「生まれる」と「心」という二つの部分に切り分けることができます。このことからもわかるように、漢和辞典で調べてみますと、漢字の「性」とは「生まれながらの心の働き」が本来の意味であると記されています。そこから「万物の本質」「心」「いのち」などという意味で用いられるようになったのです。……ですから、性について考えるときには体の一部や心の一部を切り取って考えていくのではなく、人間全体の問題として捉える必要があるのです。(針間克己『一人ひとりの性を大切にして生きる』)

(続く)

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He will be sent to your Side.
Emmanuel

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