わたしはぶどうの木で、あなたがたが枝です。

わたしはぶどうの木で、あなたがたが枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5) 

これは、「まことのぶどうの木のたとえ」(ヨハネ15:1〜8)の一節です。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」ということばで始まる有名なたとえです。イエスはよく、民衆の生活や農耕作業を題材にたとえ話をしました。ここでは、イエスはぶどうの木、信者はその枝、父なる神は農夫というわかりやすい設定です。

さらっと読むと、のどかなブドウ園の風景を思い浮かべるのですが、ちょっと待てよ、私は実を結ぶような自信はないし、と少し不安になります。6節に読み進むと、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」とあります。こうなると、自分にはクリスチャンになっても信仰生活を続けていける確信はないし、そうか私の結末は枯れ枝かも、と半分あきらめて、しかし神様は愛だというなら、そんな無理なことは本気では言われないだろうと、他の安心できる聖句をさがす、というのが信仰初心者の頃の私でした。

その後、たとえ話を読むときに大切なルールがあると学びました。「まず結論を見て、そのたとえ話の真意をつかむ」というルールです。ここでの結論は、8節の「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになる」、です。天の父なる神様は、私たちが多くの実を結ぶことで栄光を受けられる、ということは、実を結ぶことは神様のみこころです。そのために農夫のように刈り込みをしてくださる、とわかりました。刈り込みとは試練や訓練です。それは、父親が愛する子をしつけるようなものです。

結論をつかんだら、次は、たとえ話の中心テーマをひとつ絞ります。ここでは「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」です。たしかに、枝がどんなに頑張っても、木から離れて養分が来なければ、実を結ぶどころか、枯れてしまいます。

私たちがすることは「人がわたしにとどまり」とあるように、イエスを救い主として信じる、それだけです。そういう人には、「わたしがその人の中にとどまっている」、つまり、イエスの霊、神の霊である聖霊様がイエスを信じる者の中に住んでくださっています。

そして、私たちが聖霊の働きにゆだね、苦難があってもそれを天の父の刈り込みとして受け取っていくとき、豊かな実が結ばれます。聖書は、そのような実を、次のように表現しています。「御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5:22〜23)。これは人の力や努力でできる実ではありません。あなたの人生をご自分の手から放して、イエスを信じ、聖霊様にゆだねてはいかがでしょうか。父なる神様の祝福が豊かにあなたの上にありますようにお祈りします。

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