この所、我々は紀元前8世紀の預言者イザヤの言葉を学んでいる。今から2700年も前のことだが、現代に当てはまることがあまりに多いので、私は心を打たれている。彼は、その頃の母国(南王国ユダ)の有り様に心を痛めていた。政治家は頼りない。そして、宗教家は堕落していた。彼らは「主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向け」(1,4)て、形式的に儀式(供え物や犠牲)を行うだけで、最も助けを必要としていた孤児や寡婦の苦しみを見過ごし、搾取する者を手厚く遇していた。この本末転倒をイザヤは激しく批判し、3章ではエルサレムとユダに対する神の審きを預言する。
このように神の裁きが来ることを預言しながらも、イザヤは全く絶望していたわけではない。1963年、M.L.キングはワシントン大行進に際して、黒人差別の現状が一向に改善されないことを厳しく批判しながらも、「なお私には夢がある」と語ったが、ちょうどそのように、エルサレムとユダに対する神の審きを語りながらイザヤはなおも将来の栄光を信じていた。特にこの点に、今日は目を留めたい。
「残りの者」と言われている。
これは何だろうか。表の掲示板で説教題を見たある人が、「あれは何のことですか」と質問した。「残り物には福があるという、あれですか?」
この意味での「残り物」には、我々は興味がある。南部地方には「南部の一つ残し」という言葉があって、大皿に盛られたご馳走を皆で食べる時、最後に一つ残ると誰もそれに手を出そうとしない。食べたいのは山々なのだが遠慮もあって、なんとなく辺りの様子を窺っている。その事を言うのである。
それに比べるとヨーロッパの人間はもっと攻撃的だ。同じ状況で、突然停電があり、テーブルの周りは真っ暗になった。忽ちさっと動く気配がし、一瞬後に物すごい悲鳴が聞こえた。そこへ電気がまた点いて明るくなった。見ると、一人の男が一つだけ残った肉の固まりを鷲掴みにしていて、その人の手には食卓に着いていたすべての客のフォークが突き刺さっていた!
このように、人は「残り物」には関心がある。だが、イザヤの言う「残りの者」とは、むろんこういうことではない。
神は人々の罪を罰して場合によっては滅ぼしたりするが、その中から少数の者を残して救いと祝福の担い手とするという思想があり、これが「残りの者」である。この思想はイザヤだけでなく旧約聖書全体を通じて見出される。ノアの箱船の話もそれだ。
その他にも、「残りの者」について書かれた個所は多くあるが(例えば、エレミヤ 23,3.ミカ 5,2.など)、今日読んだところはその代表的な個所の一つであろう。
「残りの者」は、「聖なる者と呼ばれる」(3)。「命を得る者」(3)である。この者たちのゆえに神は「シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めて下さる」(4)。
もっともこの個所は、後世、つまりバビロニア補囚以後の、イザヤの基本的な考えを汲んだ人々の加筆だろうと注解書は言う。それはそれで構わない。
肝心なことは、旧約を一貫してこのような考え方があり、事実「残りの者」として生きた少数の人がいる、ということである。
預言者は、現状は滅びを予感させるほど悲観的だと見ていた。だが、それにもかかわらず、預言者は「全く絶望というわけではない!」と信じたのである。「残りの者」がいる。将来の祝福の為に、やがては救いが全世界に及ぶ為に、残される者がいる!その頂点として現れたのが、イエス・キリストであろう。
先週、東京教区総会に正清さんと一緒に出席した。
その二日前に国会で「新ガイドライン関連法」が成立して、我が国は危険な方向に進み始めた。このことを憂えた何人かの人々が、こういうことに反対し、戦争には協力しないという意志を公に声明すべきだとして緊急の議案を提出したが、議長はこれを一蹴した。理由は、第一に、この法案はずっと以前から話題になっていたことだから緊急性はない。第二に、こういう問題で少数の教会が声明を出しても実効性はない。第三に、そもそもこういった政治の問題に教会が口を差し挟むのはなじまない、ということであった。大多数の議員はこれに同意し、この議案は圧倒的大差で否決され、議論らしい議論も行われなかった。
私は、この教区総会の姿勢に失望した。もちろん、教会は政党ではないのだから、政治の問題にいちいち口を出すべきではない。だが、社会で正義と公平が重んじられているか、人間が大切にされているか、わが国は周辺諸国・諸民族間に真に平和を作り出す努力を行っているか、といった基本的な方向に関しては、教会は重大な関心を持っていなければならないし、ここぞという時には効果など問題にせず、良心のゆえに発言しなければならない。預言者がしたことはそれだったのである。
預言者はいつでも少数派だった。彼らの発言は概して有力者からは無視され、迫害された。時に無力感に苛まれ、絶望に瀕することも稀れではなかったであろう。だが、彼らは「残りの者」が来ることを信じた。このことは、今日の我々にとって無限の慰めである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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