霊の耳が開かれる

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「霊の耳が開かれる」

秋葉 正二
イザヤ書29,17-19;

 テキストの31節には、イエスさまが「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。これらの場所については、聖書の後ろについている地図をご覧ください。地図には番号と太字の説明が振られているはずです。お分かりでしょうか。番号6「新約時代のパレスチナ」とある地図を見てください。

 中央上の方にティルスとシドンという町の名が海沿いに記されています。イエスさまはそれらの町を通って、ガリラヤ湖の東南に位置するデカポリスを通りぬけ、ガリラヤ湖へやって来たということなのですが、どうもこの行程は理解しにくいのです。おそらく一度湖の東岸を通りぬけられて、デカポリスを縦断するような形でまたガリラヤ湖まで戻られた、ということでしょう。そういうふうに考えないと、何とも理解しにくい行程です。

 聖書学者の中にはこの行程はおかしいと指摘する人もいるのですが、これはイエスさまの旅の性格によるのではないかと思います。と言うのも、イエスさまの旅はどこを通って何月何日までにどこそこへ到着しなければならないといったものではなく、旅すること自体に目的が置かれていたように思えます。結果的にその旅の行程はかなり広範囲にわたることになりました。歩いて移動するのですから、パレスティナが四国ほどの広さしかないとは言っても、結構大変な旅だったでしょう。

 旅がなされた期間はイエスさまにとって試練の時期でした。神の子が権威に満ちて堂々と各地を巡り歩くというのではなく、異邦人の地を、寂しく密かに回らなければならないという旅です。どちらかと言うと、乞食修行みたいな日々だったと思います。イエスさまには神の国の宣教という明確なヴィジョンがありましたが、弟子たちはよく理解もできないままお伴をしたのですから、彼らにしてみればかなり苦痛の旅だったのではないだろうかと、つい要らぬ心配までしてしまいます。旅の期間、イエスさまは未だご自身のメシア性をはっきりと人々には告げておられません。

 さて、ガリラヤ湖にやって来られると、人々が耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、「手を置いて」くださるように頼んでいます。5章に「ゲラサの豚」の話がありますので、デカポリスを通りぬけていることを考え合わせれば、ガリラヤから見て湖の対岸の異邦人の地が舞台であることは間違いないでしょう。イエスさまは人々の願いに答えて治療の業をなさいます。人々の前でそれをされたのではなく、群衆の中から連れ出しているわけですから、二人きりになられたということです。

 この頃はまだメシア性を人々に告げられない期間だと先ほど申しましたが、この時期にはできるだけ奇跡を人目につかぬようにされています。そこにはイエス・キリストの本質が暗示されています。基本的にイエスさまは、私たちと一対一の関係を結ばれる方なのです。人は多人数いますが、イエスさまを信じる時、一人ひとりの心の中にイエスさまは存在し、向き合われます。神の子メシアの特別な力です。

 この時イエスさまがどんな治療をされたかが、33節34節に記されます。「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって“エッファタ"と言われた。」何とも不思議な動作ですが、そこに一貫して流れているのは、主イエスの手の働きが相手の病気に直接触れて治していくという実際行動である点でしょう。

 今流に言えば、触診がつばを使った治療になっていくわけです。現代医学では医療機器も高度に発達して新薬も次々に開発されていくわけですから、触診がそのまま治療になっていくなんて考えにくいのですが、昔は珍しいことではなかったと思います。はるか昔でなくても、私の子供の頃のお医者さんは今よりも丁寧に時間をかけて触診をしていたように記憶しています。イエスさまの癒しはダイレクトな愛の働きだということです。

 ダイレクトと言えば、話が少し脇にそれますが、私たちの伝道の業も一昔前はダイレクトでした。路傍伝道というものがありまして、私の先輩たちの中にはそれをされている方が何人もおられました。私も渋谷駅と小田原駅で実際に聴いたことがあります。語る方はだんだん熱を帯びてきますから、真面目に聴こうと思う者にはズンズン胸に響くものがあります。そういうダイレクトな伝道方法によってキリスト者へと導かれた人が幾人もおられます。

 ですからダイレクトに何かを行うということの中にはある種の力があるのでしょう。イエスさまは癒しを願い出た人にダイレクトに治療を施されながら“エッファタ"と言われました。これは「開け」という意味のアラム語ですが、福音書は時々イエスさまの語られた言葉を原語のまま、つまりアラム語で保存しています。「アッバ」とか「タリタ・クム」とかです。「エロイ エロイ レマ サバクタニ」もそうです。

 なぜアラム語のまま保存したかと言えば、その言葉がイエス・キリストの生涯の働きに密着していたものであったからです。その一言が神の国の宣教の要になっていたからです。イエスさまは決して簡単にそうした言葉を口にされたのではありません。この物語を読んでいる私たちにとっては、耳が聞こえず口がきけないという身体機能の不備が癒されることだけが問題の中心であるように見えてしまいますが、イエスさまはそれ以上のことをこの身障者に見ておられたと思います。

 イエスさまは「天を仰いで、深く息をついて」“エッファタ"と言われています。口語訳聖書は「ため息をつき」と訳し、新改訳聖書は「嘆息して」ですから同じような意味合いですが、永井訳は「天を視上げて嘆じ」と訳していますので、「嘆き」の意味合いが少し強い感じがします。原語には「うめく」という意味もありますから、どの訳語を採るにしても軽い意味ではないと思います。神の子の力を見せつけるように癒すというのではなく、人の子として力無き者の代表として、渾身の力を振り絞ってイエスさまは癒されたのではないでしょうか。

 「指をその両耳に差し入れる」ことを最初になさっていますが、これは「信仰は先ず聞くことから始まる」ことを表わしているのかも知れません。人間の悩みはそれを聞いてくれる人がいると解決に向かうと言われています。ですからカウンセラーはまず相手に語らせて、それを聞くことに徹します。神学校で牧会カウンセリングを教えてくださった恩師イアン・マクラウド先生はそのことを何度も強調されておりました。ですからカウンセラーにとっては、聞かせるよりも語らせる方が治療効果があるのです。

 ここでイエスさまが示されていることの一つは、真の救いは聞くことにあるということでしょう。人の悩みを聞くのに最もふさわしい人格を持たれているイエスさまが、まず聞かせようとなさっています。指に力を込めて、両耳に差し入れているのはそういう意味です。それから、その人の舌を癒されます。この順番が大切です。人はまず神の言葉に耳を傾けねばなりません、そして聞いたことに応答しなければならないのです。

 ですからこの奇跡物語は、お手軽な癒し物語ではありません。ここに記されている奇跡は、打ち出の小づちで出て来るような奇跡ではありません。イエス・キリストが天を仰いで、呻きながら“エッファタ"と言わなければ起らなかった奇跡です。私たちは、ひとりの人間の回復のために、イエスさまがどんなに苦しまれたかということを知っておかねばならないでしょう。

 イエスさまの“エッファタ"の言葉に奇跡は起こりました(35節)。「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」。このことを科学的に問うても無意味です。福音書記者マルコは、ただイエス・キリストの行動が、ひとりの閉じ込められていた人間を、その孤独の寂しい世界から、主イエスや人々との交わりの世界に解放されたことを伝えたかったのです。イエスさまと交わり始め、向き合って話をする一人の信仰者が誕生したことをマルコは伝えたかったのだと思います。

 私がまだ中学生の頃、創価学会の折伏攻勢が非常に盛んでした。我が家にも近所の学会員が毎晩家に訪ねて来て、私の両親に熱心に信仰に入るように説得していました。私の両親はちょっと醒めたところがあって、その誘いに乗ることはありませんでしたが、イエスさまの行動はそうした態度とは正反対です。折伏攻勢のお蔭で、私はそれ以後宗教と言うと新興宗教の強引さを連想してしまって、警戒心を抱くようになりましたが、そういう私が高校生になって友だちに誘われて、生まれて初めて教会の門をたたいたということは、今思い出すとよくぞ行ったものだと思うのです。

 これは多分教会に、聴く・語るということについての強引ではない、ある種の誘引力があったからだと思っています。言うなれば、イエスさまが私に向き合ってくださって、“エッファタ"と口にしてくださったのです。その時から、私のイエスさまと向き合って対話に生きる人生がスタートしました。人間の暗く閉じられた在り方に、イエスさまの“エッファタ"という声が響いて、その人に神さまの摂理が信じられる世界がもたらされます。

 古代教会には、エッファタという言葉と、つばきをつけることをバプテスマの式に採り入れるところがあったほどです。きょうも私たちはこの礼拝の中で、み言を通して、奇跡を起こされたイエスさまにお会いしているのだと思います。私たちと主イエス・キリストとの出会いは、イエスさまが口止めされたように、軽々しく話すようなことではないでしょう。 私たちは一対一という、神さまと自分の関係をイエスさまが純粋に保とうとされたことを忘れないようにしたいものです。


 
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