逆説”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、‘逆説’ということを考えてみました。‘逆説’というのは、一見、真理に背いているようで、その意味が解ると、それこそ真理だと言える表現のことです。実際、‘逆説’は他のどんな表現でも言い表せない事を伝えることができます。イエス・キリストは、多くの逆説的表現を用いられました。それは聞く人々の注意を引くためであり、それによって人々はその事を考えさせられたのです。使徒パウロも、またよく逆接的表現を用いた人です。クリスチャン生活は、それを信じて生きている人にとっては別ですが、多くの人々に対して逆説的です。そこで以下の‘逆説’は、クリスチャンであることを理解する助けになります。失うことによって得る自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。(マタイ10:39)与えることによって得る与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。(ルカ:38)低くなることによって高くされるだれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(マタイ23:12)弱い時にこそ強いところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(2コリント12:9、10)仕えることによって治めるそこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ10:42-45)死ぬことによって生きる生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。(ガラテヤ2:20)では、これらの事は何を意味するでしょうか。もしクリスチャン生活が逆接的であるなら、クリスチャンの生き方がクリスチャンでない人に不思議に思われるということです。クリスチャンが同じ状況の中でクリスチャンでない人と正反対のことをするなら、彼らの人生に対するアプローチに疑問を呈することになるのです。今日の一言: 真理は逆説の中に平安鶴田健次クリックありがとうございます