自分は正しい人間か

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「自分は正しい人間か」

秋葉 正二
申命記14,22-23; ルカによる福音書18,9-14

 「ファリサイ派の人と徴税人」の譬え話です。 ファリサイ派はイエスさまに何度も批判されていますので、私たち聖書を読む者は単純に、「ファリサイ派みたいにはなりたくない」とか「イエスさまに敵対しているようだから、悪人だろう」とか思いがちですが、社会的に見て一言で言えば、ファリサイ派は立派な人たちです。 どのように立派かと言いますと、まず品行方正です。 それは彼らの信仰理解に由来します。 彼らは律法を重視しました。 これは福音書からも分かります。 その重視の仕方なのですが、これが神殿を中心にして活動したサドカイ派とは異なり、口伝律法の重視でした。 口伝ですから、書物に記された成文律法とはだいぶ違ってきます。 サドカイ派が重視した成文律法はモーセ律法として記されたものだけを意味しますが、ファリサイ派は成文律法以外の戒律を口伝律法という形で民衆に伝えました。 サドカイはとは明らかに違う慣習法です。 そこで両者にどういう支持層の違いが現われたかと言いますと、サドカイ派支持者はお金持ち、ファリサイ派支持は民衆ということになりました。 エッセネ派というセクトもありますが、彼らは古代律法に帰るという形で生活環境そのものを現実から逃避させてしまったので、これは少数派です。 民衆に根を下ろすことが生き残っていく上で一番有力な条件ですから、ファリサイ派は実際にユダヤ教の中心を占めて後代に伝えられていきました。

 ファリサイ派のことを理解するには、もちろん福音書がありますが、その他にはユダヤ人歴史家ヨセフスの著作があります。 「ユダヤ戦記」とか「ユダヤ古代史」という著作は、日本語に訳されていて、ちょっと長いですが文庫本で手軽に読めます。 ファリサイ派は福音書ではイエスさまとある種の緊張関係の中に描かれていますが、実際は民衆に支持されただけあって、その考え方はかなり柔軟であったようです。 そもそもモーセ律法の成立時は、イエス時代よりも生活がはるかに単純でしたが、長い年月の間に民衆の生活は大きく変化して、古い律法はやがて状況に適合しなくなって行きました。 こうした事実をファリサイ派は真剣に受けとめて、成文律法だけでなく、口伝律法という形で、時代に適合した規約を示していったのです。 もっともそうなったのはイエスさまの活動時代以降のことで、教会が成立していく時代です。 イエスさまが活動した当時は、律法規定を几帳面すぎるほど厳格に守ろうとしていたようで、それが新しい時代をもたらしつつあったイエスさまの教えとぶつかっていたのでしょう。 ですから私たちは、ファリサイ派即反イエスと決めつけないで、もう少し時代理解も広くとって、眺める必要があると思います。

 こうしたことも頭に置いつつ、イエスさまの譬え話に戻ります。 イエスさまが誰に譬えを話されたかと言うと、『自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々』 に対してです。 ですから話される相手がファリサイ派の人であるかどうかは、この表現だけだと分かりません。 一応信仰を持っているユダヤ人一般と考えればよいでしょう。 当時の敬虔なユダヤ人たちは、律法をきちんと守ることによって神の国への準備ができると考えていました。 ですから彼らには信仰的な自信みたいなものがあったでしょう。 その自信に対してイエスさまは、「いや、神さまの判断基準は違うよ」 と踏み込まれたのだと思います。

 さて、例によって「譬え話」です。 10節から13節。 神殿に祈りに来た二人の登場人物がいます。 一人はファリサイ人、もう一人は徴税人です。 ファリサイ人は最初に確認した通りユダヤ人を代表する存在です。 それに比べれば徴税人は少なくとも代表的とは言えないでしょう。 しかし明確なユダヤ人であることは確かです。 徴税人についてもいくつかのことを確認しておかなければなりません。 ご存知のように、ローマ帝国はユダヤから租税と関税を徴収して皇帝の金庫に納めました。 当時の関税は通行税です。 ローマ帝国は、〈すべての道はローマに通ず〉と言われる通り、整備された道路網をもっていたので、要所要所に関所を置いて警備し、通行する者から通行税を徴収しました。 その際、その通行税の取り立ては公職にある有給の役人が行うのではなく、前もってローマに対し税率に従って担当額を前払いして関税徴収権を認められた者たちが行ったのです。 それが徴税人です。 ザアカイやレビの話を思い出してください(ルカ19,2、マルコ2,14)。 大区域を請け負う者と小区域を請け負う者がいましたが、彼らとしてみれば収益を出さなければ生業とはなりませんから、関税率をよく知らない人々に対して一種の詐欺まがいのことをやって儲けをひねり出したわけです。 おまけに徴税人はローマ人という異教徒と交わりますし、ローマ帝国という異教の国家権力に奉仕する結果になるわけですから、同胞のユダヤ人から見れば、不浄な罪人であり、異教徒の仲間であったのです。 結果、徴税人はユダヤ人共同体から排除されることになりました。 それに加えて、ローマ帝国から王として認められていたヘロデ王家も独自の金庫を持っていて、その徴収のために私的な徴税請負人を雇っていました。 これも徴税人です。 イエスさまはそうしたユダヤ人社会の税の構図をご存知の上で、徴税人を譬え話の一人として登場させました。

 さて譬え話ですが、ファリサイ人の祈りも徴税人の祈りも真面目なものです。 イエスさまがまず指摘されたのは、ファリサイ人の自己証言と言いますか、自己認識の在り方です。 そこには自分の敬虔な業についての意識がはっきりと打ち出されています。 倫理的な生活を送っていることはもちろん、週に二度も断食するとか、十分の一税の忠実な履行とか、他の人たちとは違うのだというプライドです。 他の人たちとは違うという意識も、他の人を馬鹿にすると言う意味ではなく、元々は民の中に罪ある人がたくさんいるので、自分たちがその罪を贖おうという願いから出たものでしょう。 もちろん自分たちファリサイ人はきちっと律法順守の生活をしているから今さら贖いなど必要ないということです。 これに対して13節には徴税人の姿が描写されています。 ファリサイ人に比べると徴税人は神さまの前に誇るべきものを何も持ちません。 ですから徴税人は確信を持って神さまの前に堂々と祈れません。 それどころか自分が罪を犯したことをはっきり自覚しています。 そこから、『神様、罪人のわたしを憐れんでください』という言葉が口をついて出てきます。 イエスさまがファリサイ人の姿に見て取られたのは、神と人との関係を計算づくで捉えている態度です。 これは神様の前の甚だしい驕慢な態度でしょう。 イエスさまはそれをゆるがせにはなさいません。 対して、徴税人は神さまの前で自分の無価値なことを認めています。 自分が共同体から疎まれたり憎まれたりしていることも自覚しつつ、このままでは滅び去っても仕方ないと覚悟して、無条件で神さまを義とし、憐れみを懇願しています。 イエスさまはこの徴税人の方を義と認められる者として、救われる者として認定されました。

 私たち人間にとって、神さまは交渉相手ではありません。 私たちはいろいろうまく行かないことがあると、神さまにうそぶいたり、時には怒りさえぶつけたりする存在ですが、本来はその全能の存在に対して、私たちはただ額ずくことしか出来ない取るに足りない存在だと思うのです。 私たち人間がいろいろな形で神さまに反抗した時に、神と人との間に立ってとりなしてくださるのがイエスさま、イエス・キリストだということがここでは示されているのではないでしょうか。 神さまの赦しは、イエスさまのとりなしがなければ成り立ちません。 ファリサイ人と徴税人の対比によって強調されるのは、自分では気がつかずにファリサイ人として生きている私たち自身の姿と、徴税人の姿を通して救いに導かれ恵みに置いて頂いている両方の自分の姿です。 敬虔な信仰は神さまの前での悔い改めからしか生まれません。


 
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