自我からの解放”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、
‘自我からの解放’ということを考えてみました。 私たち人間は、自己中心性のゆえに、自分の都合に合わせて物事の良し悪しを判断しやすいものです。私たちの正義は実に主観的で、普遍的な真理に根ざしていない場合がなんと多いことでしょう。 絶対者なる神に土台を据えて生きていると思っていたつもりが、そうではなかった自分に気付かされることがあります。また、これでいいと思っていたことが、あるとき突然、そうではないことを示されることがあります。神とある一定の距離を保っていたときには分らなかった自分の肉の思いが、神に近づいたときに露(あらわ)にされることがあります。そんなとき、私たちは古い自分にしがみつくか、それとも主の前に悔い改めて自我から解放された新しい自分を生きるか、その二者択一を迫られるのです。 そんな事を考えていたら、マザー・テレサのこんな詩を目にしました。 主よ、私は思いこんでいました。私の心が愛にみなぎっていると。でも心に手を当ててみて、本音に気づかされました。私が愛していたのは、他人ではなく、他人の中の自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。 主よ、私は思いこんでいました。私は与えるべきことは何でも与えていたと。でも、胸に手を当ててみて、真実がわかったのです。私の方こそ与えられていたのだと。主よ、私が自分自身から解放されますように。 主よ、私は信じ切っていました。自分が貧しい者であることを。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。実は思い上がりと妬みとの心に、私がふくれあがっていたことを。主よ、私が自分自身から解放されますように。 自我から解放された世界はなんと自由な世界であることでしょう。
今日の一言: 自我から解放されよう 平安鶴田健次