文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第5回 書簡の解釈 (中)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

関野祐二
聖契神学校校長

● 書簡解釈のむずかしさ

 元々の手紙受取人である「彼ら」にとって何を意味したのかを再現するのが釈義なら、今日の読者たる「私たち」にとっての意味を見いだすのが解釈(狭義 hermeneutics)。前者の「釈義」で、書簡の背景を歴史や文脈に沿って再構成した結果は、少なくとも紀元一世紀の地中海世界という範囲に収まります。しかし後者の「解釈」、すなわち私たち自身の時代という文脈における意味を聞き取る作業は、どんな原則と枠組みで行うべきなのでしょうか。

 書簡とは本来「特別な機会に書かれた一世紀の文書」であるという特殊性が解釈をむずかしくします。なぜなら、神のことばは時代と文化のただ中に語られたのですから、どのみことばが文化に関係あるゆえ紀元一世紀に属しており、どの箇所が文化を超えたすべての時代へのみことばなのかを、現代の読者自身が峻別しなければならないからです。

● 常識的解釈?

 新約書簡を読む際、無意識のうちに私たちは自分の持つ常識を「その時そこで」に持ち込み、私たち自身の状況下で実行可能な箇所は現代へと適用する一方、「今ここで」に適用できないと見なされる聖句をさっさと一世紀へ置き去りにします。たとえば「あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください」(Ⅱテモテ四・一三a)と明白に命じられていても、誰もこれを字義通り行うべきとは思わないでしょう。しかし、この聖句の少し前にある「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(四・二a)は、少なくともキリスト者であれば皆、字義通り実行すべき主の命令と受け取るはず。これは共通の常識です。

● 解釈の分かれる例

 問題は、ある人がその通り実行すべきと考えても、別の人はそうは思わない類の聖句をどうするかです。たとえば一九六〇~一九七○年代の米国では、青年の長髪がカウンターカルチャー(対抗文化)のシンボルとなり、彼らが伝統的教会の礼拝に出席しようとする際、「男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり」(Ⅰコリント一一・一四b)とのみことばによって、長髪は神への反抗と見なされました。しかしこの聖句を引用する人々は、次節に「女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです」(一五節)とあることを無視して女性のショートカットは許容し、さらには少し前の四~六節を実行するべく女性が礼拝でかぶり物をするように、とは主張しなかったのです。

 要は、今日の読者が生きている文化が、常識とは何かを考える際に多大な影響を与え、無意識のうちに私たちのいわゆる「常識的解釈」を規定しているということ。今のテキストでしたら、当時のコリントには性的倒錯の傾向が蔓延し、それが教会にも入り込んでいたため、男女の相違を明確にする必要性からパウロが具体的指示を出したと考えられます。ですから、私たち読者の置かれた文化や教会事情との比較で、パウロの命令をどこまで普遍化するか、解釈の幅を決めればよいのです。

● 消極的基本ルール

 前回も確認したことですが、「あるテキスト(聖書本文)は、それが著者あるいは受取手(テキストの読者)に決して意味し得なかったことを意味することはあり得ない」、これが釈義の基本ルールでした。同じ原則が解釈にも適用できます。つまりこのルールは、あるテキストが何を意味するかの助けにはならなくても、それが意味し得ない(決して意味することのない)限界を引く助けとなるのです。現代の文化を読み込んだ突飛な聖書解釈は、このルールを意識した消去法で、相当数減らすことができましょう。

● 積極的基本ルール

 もう一つ、今度は積極的な解釈ルールを紹介しましょう。「我々が一世紀の聴衆と同等の事柄(すなわち類似した特定の生活状況)を共有する時はいつでも、我々に対する神のことばは彼らに対する神のことばと同じである」。この原則は、書簡にある神学(教理)的テキストや教会への直接的な倫理命令の多くが、現代のキリスト者に、一世紀と同じ直接的な意味を与え得ることを意味します。「すべての人は、罪を犯したので」(ローマ三・二三)、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」(エペソ二・八)などの聖句は、今日の教会に生きる私たちにもそのまま真理でしょう。

 また、私たちがコリント人への手紙第一を読んで共感を覚えるのは、コリント教会の状況が少なからず今日の教会と重なり、そこで命じられていることが、私たちの経験にもあてはまるからです。大切なのは、私たちの置かれている状況が本当に彼らの状況に相当するか否か確信を持つため、しっかりと釈義し、彼らの抱えていた問題を再構成することでしょう。やはり今回も、健全な解釈の基本は釈義(「その時そこで」)、という結論になりましたね。

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