【潜入ルポ】ウワサの「預言カフェ」に行ってみた!

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

巷で噂となっている「預言カフェ」に実際に行ってみました! その実態とは――?

 

▼予言は人を魅了する ▼預言カフェに行ってみた!  ▼さっそく入店してみる ▼さっそく「預言」を受けてみる ▼「預言」の中身はどんなもの?! ▼「預言」について聞いてみた ▼ぶっちゃけ、「預言カフェ」はどうなの? ▼預言カフェは大丈夫なのか? 小林の個人的見解

 

▼予言は人を魅了する

 恐怖の大王がやってくる――。そんなノストラダムスの大予言の日、私は小学校1年生だった。友人の家に泊まっていた私は、「もしかすると明日、世界が滅びるかもしれない」とビクビクしていた。目が覚めると、いつもの朝だった。朝日があれだけ嬉しかったことはない。

 ハッピーな予言も、恐ろしい予言も、「未来予測」というものは、人間を魅了する。テレビの朝のニュースでは、毎日「占い」を放送している。血液型占い、星座占い、おみくじの大吉、小吉、末吉・・・様々な占いに人は一喜一憂する。個人の程度の差こそあれ、未来への予測はどこか「人間の心の拠り所」となっているのは間違いない。人間は「時間」の軸を超えられない存在だ。だからこそ、人には「未来」「運命」など、届かないモノへの憧れがあるのかもしれない。 

 さて、あなたは「預言カフェ」なるものを知っているだろうか。東京都内の教会が運営するカフェで、高田馬場と赤坂に2店舗だけある。噂によれば、コーヒーを飲みながら、「預言」を受けられるらしい。しかし、ちょっと怪しい噂も聞く。占いじみているとか、いや、預言カフェを通じてイエスを信じた人もいるとか、そも噂は様々だ。その実態はどんなものなのか。噂話だけをアテにしても仕方がないので、実際に足を運んでみることにした。

 

 

▼預言カフェに行ってみた! 

 と、いうことで今日は「預言カフェ」に来ちゃいました!

 いや~楽しみ。

 あんた誰やねん。

 あなたもね。1人で行くのはなんか気まずいので、今日は「行きたい!」と声を寄せていただいた友人の方に来ていただきました。 

※左から友人の岡田さん(仮名)、筆者小林、白川さん(仮名)。ちなみに全員クリスチャンです。

 今回はフリー素材「いらすとや」さん全面協力のもとお送りします。全員男かよ! というツッコミはなしで。

 男で悪かったな。

 男3人でカフェに行くとか、怪しすぎじゃない?(笑)

 ・・・(今さら気がついて言えない)

 白川さんは、なんでアロハシャツテイストなの?

 今日は仕事が休みやねん・・・

 ・・・それはさておき、みなさんの意気込みを聞いてみましょう。

 以前から噂は聞いていて、どんなところか気になっていたので、今日はかなり楽しみ!

 俺はバリバリ怪しいと思ってて、確認したい感じかな。「占いと違うんか!」ってね。

 なるほど。僕も噂ベースでは聞いていて。「部屋のカーテンを緑色にした方がいいとか言われるとか言われないとか。

 それめっちゃ占いじゃんか。

 聖書の「預言」は「神から預かる言葉」だから、未来を予測する「予言」とか「占い」とはちょっとテイストが違うよね。そこの違いも、今回明確なのか確かめたいよね。

 宝くじ当たるとか預言されちゃったらどうしよう。

 それはキミの願望じゃないか。

 最近「預言カフェ」は、世間一般でも割と有名になってるっぽいね。

 そう。仕事相手の方も、クリスチャンではない方だけど「預言カフェ」の存在は知ってて。今度一緒に行こうと誘われたよ。でも、一緒に行こうとしたけど営業時間的に無理だった。

 そうなんだよね。高田馬場は18時までしかやってないし、平日だと無理だよね。

 と、いうわけで、今日は19時までやっている赤坂店に来てみました!

「預言カフェ」は、東京メトロ千代田線・赤坂駅から徒歩2〜3分ほどの好立地。

 

堂々と「預言カフェ」の看板が!

 

 

▼さっそく入店してみる

 お店に入る前に、今回の方針を決めておきましょう。

<今回の方針>

1:あえて自分たちはクリスチャンであることは言わずに入店

2:クリスチャンかどうか聞かれた場合は正直に答える

 嘘は良くないですよ、嘘は。

 クリスチャン相手かどうかで対応が変わるかも注目ですね。


さっそく入店。ドキドキ。

中に入ると、こんな感じのお姉さん(推定35~40歳)が接客してくれました。

(ガチでこんな感じ)

 いらっしゃいませ。何名様ですか?

 3人で。

 今お席が空いてるので、すぐご案内できると思いますが、そちらの受付ボードに、カタカナでフルネームを書いてお待ち下さい

 なるほど、フルネーム書くのか。これも預言の材料になるのかな。

 

女性の店員さんに導かれ、男3人は店内へ・・・


店内は明るい雰囲気で、テーブルが7〜8個ほど。閉店1時間前だったが、他にも3名ほどのお客さんが。店内には「クリス・トムリン」(クリスチャン界の有名アーティスト)の聞き覚えのあるCDが流れていました。

 へぇ~、思ったより雰囲気いいね。

 天井がちょっと低いな。

 プロの目線や。

 

メニューを手渡され、見てみる。


 「預言カフェブレンド」っていうのがあるんだね。

 俺はラーメン屋でも一番店が押してる最初のメニューを頼む派。

 キミの情報は聞いてねぇよ。

 

と、いうことでそれぞれ、

「預言カフェ・ブレンド」(税込850円)

「預言カフェ・プレミアムブレンド」(税込950円)

「預言カフェ・アイスブレンド」(税込1000円)を注文。

 

 で、預言っていくらなの?

 メニューに書いてなかったね。

 てっきり「大預言●●円」「小預言●●円」とかメニューに書いてあるかと思ってた。

 預言に大も小もあるのか? 預言コミコミの値段なんじゃない?

 あ、そうか。どうりでコーヒーとしてはなかなか高い値段設定だなァって思ったわ。

 おい。

 

などと、話していると、テーブルの上にこんな物を発見。

あなたのための預言を聞いてみませんか?

預言は神様からのメッセージです。神様は私たち一人一人にご計画をもっておられ、励まし、助けを与えたいのです。ご来店のお客様に預言を録音してプレゼントします。ご注文の際にスタッフにお声がけください。

 

裏面には・・・

お客様各位。預言を受けていただく際は録音するようにしています。テープでの録音をご希望のお客様は、カセットテープのご持参にご協力いただくと助かります。(お持ちでない場合には当店に用意があります。1本150円です)また、お持ちの録音機器、ケイタイのボイスレコーダーで録音することをお勧めしています。どうぞ、ご協力ください。

上記の録音方法が難しい場合には、お客様のPCアドレスに音声をお送りすることができます。送信には十日~二週間程のお時間をいただくこともあります。ご理解のほど、よろしくお願いします。

こんなことが書いてあった。

 

 ん? ということは頼めば「預言」してもらえるということ?

 たぶん、そういう感じだね。 

 テープって、カセットテープ? 今どき再生できる機械あるの? ボイスレコーダーも今は持ってないな・・・

 ふふふ。僕は今日、某テレビ朝日の手法を使うために、胸ポケットにICレコーダーを忍ばせてきたのだ!

と、記者の三種の神器、ICレコーダーを取り出す小林。

  やる気満々やないか。

 「某」になっとらんやないか。 

 

などと、くだらないやり取りをしている間に、イケメンの白人のお兄さんがコーヒーを運んできてくれる。

↑「預言カフェ・プレミアムブレンド」

 お~、いい香り。

 ホンマに分かっとるんかいな。 

 ごゆっくり。

 あ、お兄さん、ちょっとすみません。

 はい。

 この「預言」ってしてもらえるんですか?

 もちろんですよ。少々お待ち下さい。(ニッコリ)

 (めちゃめちゃイケメンスマイルやんけ・・・)

 なんか素敵だね。

 騙されたらアカン。中身を見て判断や。

ほどなくして、先程のお姉さんが席までやってくる・・・3人の運命やいかに?!

 

 

▼さっそく「預言」を受けてみる

預言を受ける直前の3人。

 本日はありがとうございます。預言を希望されるのはどなたですか?

 全員受けたいんですけど、預言は1人ずつですか?

 はい、そうですね。

 この席で?

 そうですね。預言は録音させていただいています。録音機器をお持ちでしたら、ご自身でスタートボタンを押していただいて、お渡しいただければそこに録音いたします。

 持ってきてないんですが・・・

 でしたら、私どもの録音機器をご用意いたします。

 あ、いいよ、僕のICレコーダーを使って。

 (もはや忍ばせてすらいない・・・)

 ありがとうございます。こちらのカードもお読みください。

 

といって、お姉さんが手渡したカードはこちら。

預言を書き出してください。主イエス・キリストからの言葉をより深く心に受け取ることができるでしょう。

預言だけで方向転換や決断を急がず、状況が整えられるのを期待し確認することが必要です。

預言を聖書の原則によって吟味し理解してください。「預言CAFÉ」の本をお薦めします。

預言は条件的です。運命的に捉えることなく信仰をもって受け取ってください。

□ 礼拝(日・木曜日)へ参加することも大切です。

 (ナルホド、預言についての注意事項みたいなもんやな)

 (これを見ると、結構な配慮はされている印象があるね)

 お姉さん、この「預言を書き出して下さい」ってどういう意味ですか?

 あ、これはボイスレコーダーに録音した預言を、後で聞き直して文字にすることをオススメしてるんです。

 へ? その場で書けっていう意味ではなく?

 そうではなく、後でですね。結構早口ですので、その場で書ききるのはちょっと無理だと思います(笑)きちんと後で内容を吟味して、受け取っていただければと思っています。

 そんなに早口なんですか。

 聞いてもらえば分かるかと。それでは、どなたから始めますか?

 ・・・・・・。

 

ここで発生する日本人的な譲り合い。

 

 じゃあ僕が。

 

勇気ある白川氏からスタート。

 

 分かりました。ではボイスレコーダーの録音ボタンを押して、お渡しください。

 はい。ポチっとな。

 

いよいよ、預言が始まります・・・!

 

 

▼「預言」の中身はどんなもの?!

↑預言を受ける小林

 主は言われます。我が愛する息子よ。私はあなたを愛しています・・・

 (うわ、確かにめっちゃ早口だわ)

 

だいたい4分ぐらいの預言があったので、お店のオススメ通り書き起こしてみた。太文字は、小林が重要だと思った部分である。 

<白川さんに対する預言・全文>(本人許可済)

主は言われます。我が愛する息子よ。私はあなたを愛していますと主は言われます。そのサハラ砂漠のような、何かその状況に、今私のこう愛の一撃というか、何かすごい変化がある。砂漠が、割れないんですけれども砂漠が割れて、何かその地面のこの土台の根っこの部分が大きく現れてくる。だから表面の砂ばっかり見てるともうここは不毛地帯で、僕がいっくらやっても何にもならないと思っていた。でも息子よ。実にこの深いところから命の水が湧き出てくるように私はあなたに私の豊かさを、また何か繁栄ですね。何かその喜びをちゃんとあなたに用意しています。だからもう自分を責めてはいけないと主は言われます。すごく頑張ってきましたよ。あなは私が喜んでいます。見ていますよと主は言われます。人はあなたを責めたかもしれない。でも私はあなたを責めていないからと主は言われます。
そしてその経済に対してちゃんと助けるものというか、支えるもの。私はあなたに用意して、最初はこう砂浜を歩くのは結構大変。杖があって足が支えられて、でもだんだんにそのスタスタと歩いていけるように良い意味で自立と何かその変化と、かその状況があなたに見えていくだから、いや、僕は助けてばっかりではよくないからと、ちょっと無理にあなたが頑張ろうとしているけれど、息子よ、私がいっつもです、私がいっつもあなたの状況を助け、そして私があなたを支えると、だからもう1人ぼっちで歩く、何かそれではなくて、私があなたを本当に大胆にダイナミックにというかな、何かこう力づけています。あなたはそのような愛の勇士、その戦士ですよと主は言われます。
だからあなたが通ってきたその患難もその難しさも決して無駄ではなかったと主は言われます。あなたがそのような痛みをくぐり抜けてきた。もう茨の道をもう裸足でボロボロになって。でも、あなたがそのように深い痛みを知っているからこそ、その立ち上がったときにちゃんとまわりを、何かこう育てていく、何か変化を状況を変えていくあなたはそのようなものですと主は言われます。だから受けるよりも与えるものが幸いですと聖書にありますけれども、あなたが自分の分だけ欲しいじゃなくて。すごく人に与えたい。なんかすごく丁寧な思いやりがある。
息子よ、私はちゃんとその兄弟っていうかな、横並びに見たいにはちょっと感じて。ちょっとがんじがらめな何かその状況からちょっとあなたがスポッって抜けて何かこう新しいビジョンをしっかり持っていく、そしてそこから変化がその兄弟っていうか家族っていうか肉の家族だけではないですけれども、その周りにちゃんと波及をしていく伝わっていく。だから自分だけここから抜けちゃったらなんでしょうね。周りを置いていくんじゃないかって。なんかそれではなくって、まずあなたがデビューするというか、道を見ると、何かそのことによって周りが、あ、そうか。僕たちも頑張んなきゃなってちゃんとこう見ていきます。だから恐れなくていいですよと主は言われます。まだその変化に対してもちゃんと私の何かあわれみがある。
うーん。例えば、例えば、例えばの話なんですけど、毎日例えば帽子をずっとかぶってたとする。何かそうすると何か帽子ぬいだ自分がちょっと恥ずかしいっていうか。いや、ずっとこのかぶってるしなって。でもそうじゃなくてその変化の中でそれすごくいいねって、すごく良かったねって周りが何かあなたを喜んでいく。だから自分ではいやこんなことをしてあんなことをして、誰に思われるだろうってすごくあなた学校辛く感じでいる、家族や状況の中で。でも息子よ、それが本当に良かったと、何かあなたはそれを選んでいく、それを見ていきますよ、わが愛する息子よ、私はあなたを呼んでいますようと主は言われます。

(以上)

 ・・・・・・。

 (ずっと目をつむって聞いている!)

 (想像を上回るめちゃめちゃな早口で内容を吟味する暇がない・・・)

 さあ、次はどなたになさいますか?

 では僕にお願いします。

 わかりました。では、ボイスレコーダーの録音ボタンを押してからお渡しください。

 (ポチッとな)

 それでは、お願いします。あ、どうぞみなさんコーヒーをお飲みになりながらで結構ですよ。リラックスしてくださいね。

 あ、あ、ありがとうございます!(たじたじ)

 それでは始めますね。

<小林に対する預言・全文>
主は言われます。我が愛する息子よ。私はあなたを愛していますと主は言われます。「はしご」が例えばかかっていると。登りたくなるっていうか。あの、なんかあるんじゃないかなって。でも、こう壁にただかかってるはしごを登っても実は何もなかったなって。いろんなトラップとはいいませんが、状況に(シャッター音に気がついて1秒ほどフリーズする)あ、ごめんなさい。あ、大丈夫ですか。
・・・いろんな状況にあなたが踏み込んではなんかこう、あ、違った。なんかこれ間違ってたって自分を責めてきた。だが息子よ。もう責めなくて大丈夫と主は言われます。あながたこのようにチャレンジする。何か応答する心ですね。それは私があなたに与えているすごく良い賜物です。あ、才能です。主は言われます。だからその個性を、その思いを大事にしてくださいと主は言われます。

また失敗してもどうしようと思うと、もう手も足も出ない。何かそれではなくって、次なるつつながりが、チャレンジがあなたの人生に始まっている。あなたがそれをまとい、外套というかマントですね、何か新しい服を着て、ちゃんとそこに何か応答していく、デビューしていく、そしてその道を何か舞台を、状況を何か整えていく。それは私があなたに与えていく恵みですと主は言われます。

だから人たちもあなたを振り返る。あなたを喜ぶと主は言われます。出会わなかった人たちにあなたは出会っていくでしょうと主は言われます。まぁ分野というのかな。例えば自分はこういう役割、こういうお仕事。だからこういうビジョンの人とかこういう状況の人とはちょっと話が合わないじゃないけど、ちょっと関係ないかなと思っていた。でも実にあなたは多様性に富む。なにか人たちの状況に対して、すごく憐れみ深い、その慈しみ深い、それは私がそのように憐れみ深く、いつくしみ深い、その私の愛を、み父の愛ですね、天のお父さんの愛をあながたこの地であらわしていくように、私はあなたに新しい家族をその役割を、つながりをちゃんと用意していますと主は言われます。

だから子供の頃にすごく願っていた、なんかこうなりたいなって、なにかその思うがなにか形を変えて現実になる。そして本当にこれで良かったと。僕が本当にほしかったっていうか、知りたかったことはこのことだったと、ちゃんと分かっていく。何か理解していくと主は言われます。
だから何かこう人間的な目線というかな、今の理解する範囲で私を知ろうとしなくていいと主は言われています。私のみ思いの総計を知ることは砂の数を数えることよりも難しいことですと主は言われます。あなたの思いをはるかに超えて私の目線は高い、そして私は良い神ですと主は言われます。家族を心配しないで、恐れないで大丈夫と主は言われます。つい心配して、やっぱり何ていうんでしょうね。うーん、お母さんの願っているとおり、お父さんの願っているとおり、何か周りが自分を信頼してくれているから、何か聞き分けの良い、すごくいい子でありたい、でも息子よ、あの、すごくこうあなたの中に待ち望んでいた時、何かその時間が、状況が動いてみると、実は周りもそれを待っていたというか、何かそれをあなたが知ると主は言われます。

だからすごく細やかな感性ですね。でもそれでありながらその骨太な、何か真理の柱をしっかりと家に、例えば家だったら柱がしっかりと立っていくように、私はあなたを大きく用いていきます、膨らませていきますと主は言われます。経済において、何かやるべき方向性をもう一度あなたに与えていく、確認させていくと主は言われます。手放したと思うもの、振り返ってはいけないと主は言われます。

あなたがしっかりと何か道に対して、おそれずに何か果敢に取り組んでいる、だからこの自分ではちっちゃい努力っていうか、みんなには言わない、見せていない、でもそれであっても息子よ、私はあなたの努力を見ています、喜んでいます。だから地道に思う時間の積み重ねのその、現れを、結果を私はちゃんと大事にして、あなたの人生にそれを返していきますと主は言われます。我が愛する息子よ、私はあなたとともにあると主は言われます。
(以上) 

 はい、ボイスレコーダーをお返しします。どうぞ。

 (すげぇ、終わった瞬間に冷静になる感じがヤバい)

 (一瞬、僕のシャッター音にびっくりして止まってから、1秒ぐらいかけて集中戻した感じがしたな)

 はい。それでは次の方は・・・

 私にお願いします。

  では始めます。

 

<岡田さんへの預言・全文>(本人了承済)

主は言われます。わが愛する息子よ私はあなたを愛しています。あなたをすごく喜んでいますと主は言われます。あの、横笛をふく人、私、笛は吹かないんですが、何かこうふくかのようにあなたが奏でる何かその柔らかなメロディーというのかな、すごい深みがあって、でもすごく繊細。なんかそれがあるからこそ、人たちがちゃんと心、何かその思いを、なにかこう思いを取り戻すというのかな、何か荒れてて、もうカラカラで干上がってもう状況何にもわからないと思うと、もうみんな気持ちが荒んで、もう何か、そこに水に石を投げるみたいに一等地を、何かこう投げていく。何かそれによって人がちゃんと振り返る。ああそうだったこんなことをしてはいられないと。だから息子よ、あなたの手に今されている。何かこうて手に持っているその武器というか、持っているその良いものをますます大きく何か成長させる。だからスキルアップというか、見える資格とかそういう話だけではないんですが、何かもっともっとあなたは大胆であっていい、自由であっていいと主は言われます。
私はそのメロディーが、本当にこう風に乗っていく。風にあおられていくというのも変ですけれども、なんでしょうね。出会っていない人たちが、何かあなたを聞きつけてやってくるというか。僕はその人たちには笛はふえていないと。僕はその人たちは知らないと思っても、ちゃんとあなたが必要なもの、存在が本当に大きなものとして、かけがえのないものとして呼ばれていく。だから息子よ、焦らずに、何かそのときを待ってきた、あなたの誠実さ、その忍耐強さを私は決して忘れてはいないと主は言われます。

いろんな人たちが(ここで涙ぐむ)あなたを追い抜いていったというか、なんかすごい辛かった。でも息子よ、私はちゃんとあなたの人生に私の実りがあるように、喜びがあるように、今、移動のとき。本当に新しい変化と「聖化」のとき、「成長」のときそれが新たに与えますと主は言われます。
また家族を心配しないでと主は言われました。心配してないと、なんかこう言っても何か不思議に心配しているというか、どう思われているか、どうかなってでも私はちゃんとそれぞれの人生に良い計画をしています。1人1人が私の息子であり、私の娘ですよと主は言われます。なんか自分はやりたいことをやってあげてない。何かこう例えばですけど、使えてあげたい、こうしてあげたいと思うけど十分にできていないと。そのように責めないで。あなたの祈る声、求める声に、私がいつも応じている。だからあなたの祈りは声はちゃんと私に聞かれていると主は言われます。
また山に向かって海に入れと。その宣言する何かそのように、そのあなたがからし種ほどの信仰と思った。小さいこんな気持ちでいいのかなって。でもこの山が海に入っていくように今あなたが時代の流れを超えていくように、私はその大きな変革者としてあなたを呼んでいると主は言われます。
だから息子よ、生きることを心配しないでと主は言われます。こんな小さい、こんなに何か幼いと、何かあなたが思ってきたけれども、実にその子供のように信じる信仰ですね。何かそれを私がいつも愛しているように、これだけわかった、こんなふうだったじゃなくて本当にこんなふうに変わったと。何かあなたの日々が本当に新しくされていく。私はそれをあなたに与えます。何かこうふりしきる雨のように、シャワーのように、私の聖霊の雨を、日々受ける。なにかそのものであってくださいと主は言われます。

古い何かチリとかホコリとかもう知らずに新たの心を締め付けてきた。何か古い考えが、痛みが今本当に洗い流されて、あなたは立ち上がる。あなたは勇気を得る。あなたはよみがえると主は言われます。わたしがよみがえりです。わたしが命です。だから語る言葉を恐れずにいなさいと主は言われます。向かう場所も、何がそこここでというかな、なんかこうちゃんと私の知恵が与えられる。だからここ行って、何話すのかな僕どうするのかなってこう考えちゃう。でもそうじゃなくって、そのときにその知恵が私によって与えられる。あなたはますます喜びへ、ますます私の平安を知ると主は言われます。だが愛する息子よ、私はあなたを呼んでいますよと主は言われます

(以上)

 はい。ありがとうございました~(すぐさま席を立つお姉さん)

  あ、ちょっと待ってください!

  はい?

  いくつか質問が。

  なんでしょう。

 

この謎な「預言」だけでは引き下がれない・・・! 本番の質問タイムが始まる!!

 

 

▼「預言」について聞いてみた

 このカードに書いてある、「預言は条件的です」っていうのは、どういう意味ですか?

 ああ、それですね。預言というのは、一方的に決められている運命のようなものではありません。必ずそれを信じる「信仰」が必要になってきます。神様から示された言葉を信仰を持って受け取るのと、かならずセットなんですね。

 ナルホド? 言われたことが自動的に全て実現するっていうわけじゃなくて、信じる行為が必要ってことですか? 

 信じる「行い」が必要だという意味ではないんですが、神様は人間と人間関係を持ちたいと思っておられるんです。手を差し伸べているけど、その手を人間が取る必要があるというか。その関係性が「預言」を受け取るには必要という意味で「条件的」という表現をしています。

 一方的に決まっちゃうわけじゃなくて、あくまでも神と人との双方向のやり取りっていうことかな。

 

 もう何点かだけ。さっき、「はしご」とか「笛を吹く人」っていうイメージが出てきましたよね。

 俺は「砂漠」だったな。

 そうですね。

 ああいうイメージは、どこから来てるんですか? 神から「降ってくる」んですか? それとも頭で思い浮かべてるんですか?

 「降ってくる」という表現が適切かどうか分かりませんが、私たちは「信仰をもって”受け取る”」という表現をしています。神様が伝えようと思っておられるものを、聖霊様の導きで感じ取って、それをお伝えしているんです。

 「預言」全体がそうなんですか? 神様の声が聞こえたりするんですか?

 いえ、あくまでも神様が語られていることを、感じ取るというか、「受け取る」ということです。別に何か私に特殊能力があるわけではなく、神様はみなさまお一人おひとりに語っておられるんです。それをお伝えしているわけですね。

 

 「預言」をするには、資格などが必要なんですか?

 いいえ。何か特別な資格が必要なわけではありません。クリスチャンであれば、誰でも預言ができます。もちろん、「預言カフェ」では人様に預言をさせていただいているので、それなりの「訓練」というか、一定のものを学んだ後でお店には立っています。けれど、「預言」は本来はクリスチャンであればどなたでもすることができるものなんです。

 ナルホド。全員ができるんですね。(※これについては詳細は後述)

 そうですね。詳しくは毎月「預言カフェ」の創設者によるセミナーをやっていますので、そこでお聞きできますよ。無料のセミナーなので、ぜひお気軽にお越しくださいね。

 ありがとうございます。

 

こうして、男3人は会計を済ませ、店をあとにしたのであった・・・

 

 

▼ぶっちゃけ、「預言カフェ」はどうなの?

「預言カフェ」を退店した3人。本音としては、どうだったのだろうか。

 ぶっちゃけ、どうだった?

 俺は正直、イメージと全く違ったというのが本音かな。もっと占いチックなことされるかと思ったけど、違った。かなり勘違いしてたな。自分の予想を上回ってきた感じ。預言が合ってるかどうかというよりも、言われた言葉を神様の言葉として受け取ったときに、「自分はめちゃめちゃ神様に愛されてるんだ」ってことを実感したかな。

 店に入る前とは、やっぱりイメージは変わったよね。

 あと、自分は既に不安や恐れから解放されてるんだって思ってたけど、そうとも限らないんだなって思った。まだ頭では理解できてないけど、今日言われた言葉を神様の言葉として捉えたときに、ものすごく納得したっていうか。安心感があった。一言付け加えるとしたら、個人的にはもっと「聖書の言葉」があってもいいのかなぁとは思った。

 

 僕も、総じて印象は悪くなかったかな。スタッフの方の礼節、接客、コミュニケーションの距離感も嫌なところは全くなくて。視線を合わせれば、自然と笑顔で応えてくれるし、必要以上に押し付けがましく話しかけられることもなかった。質問に対する説明も丁寧だったし。コーヒーもちょっと高いけど、美味しかったし、預言コミコミならまぁそんな感じかなって。

 接客はほんと丁寧だったね。店員のお姉さんの対応、話し方はとっても丁寧だった印象。

 ぶっちゃけ、預言そのものは良く分からなかったな(笑)何か具体的なものを指しているわけじゃなくて、曖昧なイメージというか。本当に神様の言葉かどうか、白黒つけるのは難しいと思う。ただ曖昧ではあるけど、聞いていて嫌な感じではなかった。

 そうだねぇ。個人的には、何か曖昧なイメージを伝えて、受け取り側が勝手に都合よく解釈するという「占い師あるあるの手法」の域を出ないと感じたかな。「砂漠」「はしご」「笛を吹く人」なんて言ってみたり。「もう心配しなくていい」とか「頑張らなくていい」とか「成長のタイミング」とか、結構どんな人にも当てはまりそうじゃない?(笑)

 今日の店員さんの預言は、超えちゃいけないラインは超えないいい塩梅だったと思う。ただ、予想だけどあれも店員さんによってクオリティに差があって、店舗を拡大していくと、どうしても危ない預言をする人も出てくるんじゃないかっていう懸念はあるね。

 

 あとは、「教会に来てください」っていう勧誘がなかったのが意外だったかな。もらったカードの一番最後に「礼拝が大事」と書いてあるだけで、「ウチの教会に来てください」って一言も言われなかったよね。

 確かに、教会にダイレクトにつなげようとする勧誘じみたものは全くなかったね。

 違和感があるとすれば、なぜ「預言カフェ」を営業しているのかっていう「目的」かな。

 確かに。「預言カフェ」ってそもそも何を目的に作られたんだろう。

 僕個人としては、「神の素晴らしさ」「イエスの素晴らしさ」を伝えるために作ったんじゃないかなと想像してるけど。じゃあ「預言」を「神を伝える手段」として使うのはアリなのだろうか? っていう疑問があるんだよね。

 確かに。今の「預言カフェ」をイエスが見たら、頭をポリポリ掻きながら「ちょっと違うんだよなァ・・・」ってつぶやくような気がする。勝手なイメージやけども。

 結論としては、預言そのものの内容が真実かどうかは、分からない。だけどもカフェ自体には嫌なところはなかったかな。でもカフェの目的や、預言を手段とするところに違和感を覚えたって感じ。

 ナルホド。2人とも、今日はありがとうございました。
 ありがとう〜。またね!

 

▼預言カフェは大丈夫なのか? 小林の個人的見解

 さて、今回はコミカルなテイストでお伝えしたが、最後にあえて真面目モードに戻って、小林の個人的な見解を述べたいと思う。「預言カフェ」はアリなのか、ナシなのか。怪しくないのか。今回、実際に足を運び、ある程度の結論が個人的に出たのでお伝えする。

 結論としては、評価できるポイントと、できないポイントがあった。個人的にまとめてみる。

<評価できる点>

・店の雰囲気、店員の接客、コーヒーの味など、カフェとしてのクオリティは及第点だった

・「預言」についての素朴な疑問に、丁寧に対応・説明がされていた

・「預言」の中身は至極曖昧であったが、逆にその慎重さが「踏み込みすぎない」という意味で、個人的には評価できた。決して「あなたの将来はこうなる」などと断定するようなものではなく、あくまでイメージを伝えるにとどまっていた。

「預言」の内容も客への励ましがメインであり、何か災いを予知し、不安を煽るようなものではなかった

・基本的には、聖書の記述をもとに主義・主張が展開されており、その内容に聖書の記述からの大きな逸脱は感じなかった

 

 「クリスチャンならばみな預言ができる」というお姉さんの発言に、驚いた方もいたかもしれない。先ほどは述べなかったが、実はこれは聖書にれっきとした記述がある。見てみよう。

預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。

(コリント人への手紙第一 14:29~33)

 

 ここに「だれでも一人ずつ預言することができる」と明記されている。新改訳聖書第3版では、「みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができる」と書いてある。この「すべての人」というのは、文脈的にイエスを信じるクリスチャンたちを指す。だから、店員のお姉さんが言っていた「クリスチャンはみんな預言ができる」という主張は間違いではない。その点は評価できる。

 また、預言の中身も、かなり曖昧なものであった。しかし、その曖昧さが「踏み込みすぎない」という意味で、逆に評価できるポイントだった。事前に聞いていた噂では、「カーテンの色を変えた方がいい」とか「家具のレイアウトを変えたほうがいい」とか、風水や占いじみた預言がされているという話だった。しかし、実際はそんなことはなく、曖昧なイメージを伝えるのみであった。

 これは、評価ではなく分析だが、超えてはいけないラインは超えないように、おそらく運営側の教会が相当なマニュアル作り、預言をするスタッフを訓練しているのだろうと感じた。預言の内容も、3人分しか聞いていないのだが、おそらくこんな教育がされているのだろうと推測できる。

<預言カフェの預言のあり方>

・「主は言われる」というフレーズを繰り返し、強調する

・預言の対象者は「父なる神の息子(娘)である」という立場に立つ

預言のはじめは、預言を受ける人についての「映像で表すイメージ」から始める

基本的に「あなたはダメだ」「失敗する」などといったネガティブな預言はしない

過去の痛みや傷を再認識し、そこからの癒やしや解放を目指す「励まし」の預言が主体である

・1回の「預言」はおおよそ4分でまとめる

・イメージの多くは聖書から引用している。時たまに聖書の言葉を引用するが、クリスチャン用語はなるべく排除して伝えている

 

 評価できるのは、「あなたは失敗する」などといったネガティブな預言はしていないという点だ。占いの多くは「このままでは災いが起きるなどといって、そこから逃れるための方法を伝えるものだが、預言カフェの預言はそういった「占い」とは一線を画している。実は、これも聖書の記述に関係がある。

しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。(中略)預言する人は教会を成長させます。

(コリント人への手紙第一 14:3~4)

 

 預言は「人に語るもの」である。そして、「人を育て」「励まし(勧め)」「慰める」ものである。その意味で、預言カフェで今回受けた預言は、内容こそ曖昧だが、人の心を癒やし、解放し、励ますことに主眼が置かれているように感じた。

 例えば、岡田氏に語られた「いろんな人たちがあなたを追い抜いていった。辛かったでしょう。でも息子よ、あなたの人生に喜びがあるように」との言葉や、白川氏に語られた「あなたが通ってきた患難は、決して無駄ではなかった」といったような言葉は、明らかに相手を励ます言葉である。何が具体的に辛かったとか、患難だったのかは語らないところがズルイ部分ではあるが、裏を返せば、大外れしないように工夫されたやり方でもある。超えてはいけないラインを超えないように、それでいて相手が過去を振り返り、慰められ、励まされるように、よくできた仕組みといえよう。スタッフも、この点はかなり訓練されていると感じた。

 また、私に預言された「はしご」のイメージは、おそらく聖書に登場する「ヤコブのはしご」(創世記28章)から連想したものだろう。岡田氏に対する予言では、「わたしがよみがえりであり、いのちである」というイエスの言葉を引用している。そのように、預言の中で聖書の言葉を引用するのは、決して間違っている行為ではない。「預言」は「神から預かる言葉」なので、聖書の言葉をそのまま語るのは、まさに本物の「預言」である。

 また、お姉さんが「聖化」と言いかけて「成長」と言い換えたところから、「クリスチャン用語をなるべく使わない」というポリシーが透けて見えた。「聖化」というのは、クリスチャン用語で平たく言えば「イエスのような人格に成長すること」を指す。しかし、一般のお客さんにはそんなクリスチャン用語は通じないので、「成長」と言い換えている。このような言い換えは、スタッフの言動の随所に見られた。預言について説明を求めた際も、なるべくクリスチャン用語を排除して説明する努力が垣間見えた。その点の努力は評価したい。

 預言を一律で「4分前後」にしているのも、何か意図がありそうだ。スタッフのお姉さんは、預言をしながら、目をつぶって瞑想しているのだが、時たま目を時計にやり、時間経過を確認していた。店として、時間をきっちり決めるのはよいことで、それは評価したい。しかし、本当の預言ならば、短くなる場合も、長くなる場合もあるのではないかと感じた。少しビジネスライクのように感じた。

 

 では、懸念すべきポイントは、どのようなものがあるのだろうか。まとめてみた。

<懸念すべきポイント>

「主は言われる」という断定口調が踏み込みすぎではないか

・曖昧なイメージだけを伝えるのは「踏み込みすぎない」という意味では評価できるが、「誰にでも当てはまることを言って解釈させる」という占いでありがちな手法の域を出ないのではないか

・「息子よ」と連呼されても、キリスト教の「神=父」「イエス・イエスを信じる者たち=息子」という概念を知らない人にとっては恐怖でしかない

預言の内容が、人の見た目に左右されている可能性

 一番懸念すべきなのは、「神の名を軽んじていないか」という点である。「主は言われる」というのは、「神はこう言っていますよ」という意味なので、非常に重い言葉である。気づいた読者の方もいると思うが、「預言カフェ」の預言の中で「主は言われます」という言葉がかなり多く使われている。たった4分程度の預言の中で、白川氏は10回、小林は20回、岡田氏は15回も「主は言われます」と言われている。3人合計で、なんと45回も言われているのだ。

 「主は言われる」と宣言するというのは、それが絶対起こらないといけない。そうでないと、神の名前を使って、嘘を言っていることになる。中には「あなたを愛していますと、主は言われます」という普遍的な、100%間違いない聖書の言葉をもって宣言している部分もある。そこは問題ない。しかし、必ずしも正しいと思えない預言でも「主は言われます」と言ってしまうと、それは神の名前を使って嘘をつく行為になる。いわば「冒涜」になってしまうのだ。

 例えば、私に対して預言された「経済において、何かやるべき方向性をもう一度あなたに与えていく、確認させていくと主は言われます」という言葉は、果たして本当なのか。必ずしも、全員に当てはまるような内容ではないかもしれない。その場合、本当にこんな軽々しく「主は言われます」と宣言していいのだろうか。経済活動については、必ずしも聖書に明確な記述がたくさんあるわけではない(少数はあるが)。

 あまりに主の名前を軽く用いるのは、決して良い行為ではないと、私は思う。もし仮に今の「預言カフェ」のような活動をするならば、「主は言われます」ではなく、「主がそう言われると、私は思います」とか「主はこう言われていると感じます」などと、主語を自分にした方が懸命だ。

あなたは、あなたの神、主<しゅ>の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

(出エジプト記20:7)

昔から、私(エレミヤ)と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの地域と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病を預言した。平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。

(エレミヤ書 28:8~9)

 

  また、曖昧なイメージだけを伝えるのは、「踏み込みすぎない」という意味で賢いが、裏を返せば「誰にでも当てはまる曖昧なことを言って、相手に解釈させ、まるでズバリ言い当てたかのような錯覚をさせる」という「占いあるあるの手法」の域を出ないと思う。「預言」をまるで「占い」かのように用いて商売をしているという批判は、この状態では免れないであろう。

 もちろん、この点については、かなり詳細な注意書きが書いたプリントを手渡されたり、オーナーの著書の詳細な記述があったりと、一定の配慮はされていたようには思う。

 

 また、岡田氏の指摘のように、このカフェの目的が「神の素晴らしさ、イエスの素晴らしさを伝える」というものであったとしたら、その手法が適切かどうかについては、疑問が残る。例えば、「あなたを愛しています、息子よ」という言葉が、何度も何度も預言の中に出てくる。これは、「神=父」「イエス=息子(長子)」「イエスを信じる者=息子(長子に続く子どもたち)」という聖書の概念を知っていて、初めて理解できる言葉だ。聖書の概念を知らない人にとっては、いきなり知らない人に「息子よ」と言われても、怖いだけ。いや、私あなたの息子ちゃうし、って思ってしまうだけだ。

 それに加え、スタッフさんが預言をかなり早口でまくしたてるため、少し圧がある。正直、「怖い」と思ってしまったのは事実だ。「預言カフェ」が初心者に優しい設計になっているかという目線で見ると、少し敷居が高すぎるような気がする。

 聖書になじみがない客が来る場合に備えて、もう少し「預言とは何か」というものを説明してから預言の行為に入った方がよいのではないかと、私は思う。今回は、預言を頼むなり、スタッフさんがいきなりテーブルに来て、ボイスレコーダーを手渡した瞬間に、早口で預言をまくし立てていた。預言が終わると、何のフォローもなく、席を立とうとしていた。もう少し、「預言」とは何かを丁寧に説明する必要があると思う。

 ただ、預言を「神の素晴らしさを伝える」ために用いるのは、決して間違いではない。聖書にこう書いてある。

しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、心の秘密があらわにされます。こうして、「神がたしかにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。

(コリント人への手紙第一 14:24~25)

 預言は、神の素晴らしさを伝える、いわゆる「伝道」のために用いてよいツールなのである。

 

 最後に、「預言」とは言いながら、人の見た目に左右されたものが多かったのが気になった。例えば、白川氏は仕事が休みだったので、アロハシャツ。私は仕事終わりだったので、スーツで向かった。その結果、白川氏は少しファンキーに見えたのだろうか、過去の心の傷や痛みに言及するものが多かった。また、白川氏は帽子をかぶっていた為か、預言にも「帽子をかぶっている」という言及があった。

 一方で、スーツだった私に対しては、「経済」や「仕事」、「家族」に関する言及が多かった。単なる邪推だが、「人を見た目で判断し、そこから予測して預言しているのでは?」と思ってしまった。私がもう一度、今度はTシャツ、短パンで髪の毛を金髪に染めていったら、果たして同じような預言になるのだろうかと、いじわるのようだが感じてしまった。神はうわべではなく、心を見る方なので、もし本当の預言であれば、見た目には左右されない預言ができるはずなのだ。


 今回の記事は、今までで最も長い記事となったが、それだけたくさんの言及をしなければいけないほど、「預言」というものは深く、また間違えやすい要素である。しかし、聖書には「預言」がしっかりと明記されている。聖書に記述がある以上、「もはや預言はない」などと言うつもりはない。

 問題は、与えられた能力・賜物をどう用いるかだ。包丁で料理をするのか。それとも人を刺すのか。便利な道具ほど、扱いは慎重になるべきだ。その意味で、「預言カフェ」は評価できる点はあったものの、若干、慎重さに欠けるのではないかというのが、私の意見である。

 気になった読者の方は、ぜひ一度、自分の足を運び、実際はどうなのか確認していただけたら良いだろう。その上で一番大切なのは、神に祈り、神ご自身がどう思われているかを求め、聞いてみることだと思う。

 

ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。(中略)預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。

(申命記 18:20~22)

だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら、その人は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。それを無視する人がいるなら、その人は無視されます。

(コリント人への手紙第一 14:37~38)

 
(了)

 

◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

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