【体験】「あの人を変えてください」という祈りで自分が変えられた話

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

今回はネタ切れのため、私個人の体験談をつづります。

 

 

▼バイト先の嫌な先輩

 バイト先に嫌な先輩がいた。飲食店のバイトだった。表では山田さん(仮名)と言っていたが、裏ではコッソリ山田くんと呼んでいた。

 山田くんは偉そうな奴だった。僕のような新人から、パートのおばちゃんまでお構いなしにタメ口で指示を出して、失敗するとお客の前でも怒鳴るような輩だった。ご飯の盛り方が汚いと、お腹を殴られた。小麦粉と水の分量がなってないと、何度も足を蹴られた。初日から「嫌なバイト先を選んでしまった」と思ったが、僕はこのバイト先が見つかるまで8回も面接に落ちていたので、もう他のところを探す余裕もなかった。ファストフードのチェーン店で、私は厨房で慣れない手付きで料理を続けるしかなかった。

 山田くんは、僕よりも1つか2つだけ年上の先輩だったが、実際はバイト先の店長のようなポジションだった。僕が来たときは既に、彼が新人教育、シフト作成、材料の発注など、重要な業務をすべて担当するようになっていた。彼の憎らしいところは、偉そうなだけではなく、誰よりも仕事ができる所だった。だからこそ、反論も許される雰囲気ではなかった。

 僕はいつも「彼と仕事が被らないように」と願っていたが、週8でシフトに入る彼と鉢合わせないのは不可能だった。それどころか、何でも「はい、はい」ということを聞く僕の存在が都合が良かったのか、必ず彼と一緒のシフトに入れられた。「勘弁してくれよ」と思いつつも、バイトをしないと生活できないので、やめるわけにもいかなかった。

 

 

▼神に「あの人を変えてください」と祈る

 僕はイエス・キリストを信じるクリスチャンだ。クリスチャンにできるのは、真実な祈りである。僕はバイト先に向かう自転車のペダルをこぐ前に、神に祈るようになった。「神様、今日バイトで殴られませんように」「神様、僕が忍耐をもって山田くんに接することができますように」「神様、どうか山田くんの心を変えてください。彼の人格を優しく変えてください」そんな祈りをしながら、高田馬場のバイト先まで自転車をこいで出勤した。

 しかし、現実は甘くなかった。祈って他人の人格が変わるならば、こんな楽なことはない。現実の山田くんは、相変わらずの傍若無人ぶりで手のつけようがなかった。僕の後に入った後輩バイトもすぐに辞めてしまって、僕はいつまで経っても一番下っ端だった。しばらく経っても、閉店後の片付けが遅いだの、仕込みがなっていないだの何かと目をつけられては、叩かれたり、怒鳴られたりした。

 まともな人ならば、店長に相談するのだろう。当然、僕だってそうしようと思った。ところが厄介なことに、店長は山田くんを気に入っていたのだ。なぜなら、彼は人一倍働くし、シフト作成や材料発注などの手間のかかる業務を、彼が一手に引き受けていたからである。店長にとっては、問題を大きくして彼がいなくなっても困るし、彼自身の責任になっても困る。見ても見ぬふり。これが店長の処世術だった。一アルバイトでしかない僕は、泣き寝入りという処世術を使うしかなかった。

 

 

▼山田くんが終電を逃す

 年が明けて1月になった。大学3年生の冬、僕は相変わらず同じ店でバイトをしていた。夜の5時間だけのシフトが、いつまで経っても永遠に思えていた。

 その日は、長く勤めたバイトの先輩が退職するので、11時の閉店の後、近くの店に飲みに行く流れになった。「小林も行くよな?」山田くんが誘ってきた。下っ端の僕は、当然逆らえない。味のしないビールを2時間半も飲む羽目になった。

 やっと帰れると思った矢先、山田くんが僕に言った。「俺、終電ないからお前ん家泊まるから」。なんと彼は千葉の柏から高田馬場まで通っていたのである。当然終電はなかった。死ぬほど嫌だったが、帰れない先輩を前に断るわけにもいかず、山田くんが僕の家に泊まるという、1ミリも望んでもいないイベントが発生したのである。

 嫌なバイトの後に、嫌なやつが自宅に泊まるなどという、考えたくもない嫌な夜を過ごした。当然、彼はベッドで寝て、僕は床で寝る羽目になったのであるが、無事朝を迎えた。家のwifiのパスワードを勝手に変えられたのと、シャワーを浴びている間にお湯の温度を50℃にされて火傷しそうになったの以外は平和な夜だった。肩透かしを食らった気分だった。

 それから、山田くんは頻繁に僕の家に泊まりに来るようになった。店を閉めるのは夜11時だったのだが、「発注が終わっていない」とか、「冷蔵庫のドアを掃除しておけ」とか、「シフト作成が終わっていない」とか、普段しないはずの仕事まで命じたりして、何かと理由をつけて終電を逃すようになった。女の子の家でもないのに、なぜ「わざと」終電を逃すのか、疑問だった。毎回家に来られるのは心から嫌だったので、本当にやめてほしいと願ったが、泊めれば泊めるほど、彼は僕の家に来るようになった。

 そのうち、本当は廃棄の時期が来ていない食材を横流ししてくれたり、シフトに融通をきかせてくれるようになったり、ご飯の盛り方にグチグチ言わなくなったり、山田くんは少し優しくなったように見えた。相変わらず僕のベッドで寝るし、シャワーの温度を勝手に上げてくるのはやめないし、僕の水タバコの部品を勝手に買い替えたりしたけれども、なんとなく以前の関係とは違ってきたように思えた。

 それでも山田くんは、まだ「嫌な奴」で、僕の神に対する祈りは聞かれていないように思えた。

 

 

▼山田くんの家で見えた人生

 「柏の俺の家に泊まりに来いよ。4月1日な」。バイト終わりに、山田くんはいきなりこう言ってきた。彼の家に呼ばれたのは初めてだった。僕は、本心では嫌だったが、またいつもの断れない悪い癖で、第一志望の出版社の面接をサボって、彼の家に泊まりに行った。

 彼の家は、柏駅から歩いて20分ほどの公営住宅だった。2LDKの間取りは、彼の私物で埋め尽くされ、どう見ても「家族で」住んでいるようには見えなかった。「親父と住んでるんだよ」。そう彼は言った。おふくろは? の問いに、彼は、「親父と離婚はしていないがずっと前から別居している」と話した。

 しばらくは何もすることもなく、かといって話す話題もなく、ただテレビを見ていた。すると、彼は突然テレビを消した。「親父が録画している番組があるから。テレビ見てるとちゃんと録画されないんだよね」と彼は言った。部屋は、いつもの彼の傍若無人ぶりとは打って変わってキレイだった。僕が飲んでいた爽健美茶のペットボトルを捨てようとすると、「おい、ちゃんとラベルとフタを分別しろよ。親父がうるさいから」という声が聞こえた。僕はペットボトルをゴミ箱には捨てず、そっとかばんにしまった。

 彼の家に行って、彼の人生が見えた。納得した。なぜ彼がご飯の盛り方に厳しいのか。閉店時の掃除に厳しいのか。ごみの分別に厳しいのか。なぜ細かい言葉遣いに厳しいのか。なぜ彼がすぐ手を出すのか。なぜ出来ない人を罵倒しても、褒められないのか。すべてに合点がいった。彼の背後には、父親がいた。父親から受けた、「愛情」。それが彼の人格を形造っていたのだった。

 すべてが見えた気がした。母親のいない寂しさが。父親の容赦ない厳しさが。友達のできない辛さが。居場所がない怖さが。山田という人間は、孤独と恐怖で出来上がっていたのだ。部屋の住みにあった古びた抱き枕も。愛情が金に変換された最新のパソコンも。日焼けしたマンガも。傾いたタペストリーも。すべてが彼の人生を物語っているように思えた。

 その日、何をして、何を話したのか、もはや覚えていない。しかし、その日を境に、僕が山田くんを見る目が変わった。「彼を変えてください」とずっと祈っていたのに、変えられたのは、僕の心の方だったのだ。

 

 

▼誰が隣人になったか

 変えられたのは自分の方だった。ずっと「彼が変わるように」と神に祈っていたのに、自分が変わってしまう体験をしたのである。彼が変わったのではなく、彼を見る僕の心が変わったのである。彼との関係性が変わったのである。

 僕はふと、こんな聖書のエピソードを思い出した。

さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」

イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」

すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」

イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」

 

しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか」

イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。

彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です」

するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい」

(ルカの福音書 10章25~37節)

 

 これは、イエスのたとえ話である。イエスは「誰がこの人を愛しましたか」と聞かなかった。「誰がこの人の隣人になったか」と聞いたのであった。「隣人」とは本来、日本語では「同胞」のような意味で、ユダヤ人を指す言葉だ。しかし、僕にとってはその瞬間、その言葉は「友人」のように読み取れた。そうだ。友達を愛するなんて大それたことを言う前に、その人と友達にならなきゃいけないんだ。そう気が付かされた。

 僕は、山田くんの友人になったのだろうか。分からない。未だに彼は嫌な奴であるのは変わらない。相変わらず叩いてくるし、家でのイタズラはやめないし、人の家のwifiのセキュリティを勝手に強化するし、彼のやっている行為は変わっていない。

 けれども、明らかに僕の気持ちは変わった。もはや、彼の行動が気にならなくなった。むしろ、いじらしいと感じるようになった。可愛そうだと思うようになった。可愛いと思うようになった。彼は変わっていない。けれども、僕らの関係性が変わったのである。

 「彼を変えてくれ」と神に祈った。神が変えたのは、僕らの関係だった。その結果、変えられたのは自分の心の方だった。僕らは大学を卒業して、それぞれ就職した。バイトも辞めた。それ以来、彼とは連絡を取っていない。

 

(了)

 

◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

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