クリスチャンは、タバコを吸ってもOKなの?
クリスチャンにとっての飲酒の是非は、既に記事を書いたので参考に読んでいただきたい(→飲酒の是非の記事はこちら)。さて、「酒」より「ハードル」が高そうなのは、「タバコ」である。喫煙はクリスチャンにとって、いいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。
インドネシアに伝道旅行に行った際、とある聖公会のチャプレンに出会った。キリスト教系の高校生の引率だった。彼は、教え子たちがいる前で、タバコをプカプカしていた。衝撃だった。私は、以前、クリスチャンにとって、喫煙は当然のように罪だろうという考えを持っていた。クリスチャンであれば、タバコなんぞに手を出さないのは当たり前で、そこに疑問の余地はないと考えていたのだ。しかし、目の前で教職者がタバコをファーッとふかしている。驚きを禁じ得なかった。ある意味、「喫煙」は「飲酒」よりショッキングな出来事であろう。
学生時代の留学先はイスラエルだった。イスラエルに行くと、私の狭い常識は、いっそう打ち砕かれた。ユダヤ人とドイツ人の信仰の友が、バイブルスタディーに誘ってくれた。喜んで行くと、皆の真ん中には、テーブルではなく、大きな水たばこがあった。彼らは、ヘブライ語で「ナルギーラ」という水タバコの煙を、ブクブクと音をならして吸い込み、ファーッと煙を吐き出しながら、聖書の言葉を共に読みはじめた。はじめは戸惑ったが、留学中ということもあり、「ええい、ままよ」の精神で、僕もジョインしてみた。これが、結構ハマった。僕らの「ナルギーラ・バイブルスタディー」は、定期的な習慣となった。これまた、いい霊的教訓の場になったのである。
僕は一度、ユダヤ人の友人、ジェイク(仮名)に尋ねてみた。「タバコやナルギーラはOKなのかい?」。ジェイクは、ユダヤ人だがイエスをメシア(救い主)だと信じている、「メシアニック・ジュー」だ。彼は、いつもの「ナルギーラ・バイブルスタディー」のメンバーだった。彼は非常に熱心な信者だった。そんな彼がタバコも水たばこもやっているのが不思議だったのである。
彼は当然のように言った。「え? 聖書に全く書いてないからいいに決まってるでしょ」。なるほど。ユダヤ人にとっては聖書の律法が全て。それがハッキリ分かった。
そんなジェイクは、イエスを信じている。彼は、ユダヤの律法は、もはや意味がないと知っていた。それでもなお、彼は、習慣的に律法を守っていた。肉と乳製品は一緒に食べないし、食器やスポンジも別。電子レンジも、肉用の電子レンジと乳製品用の電子レンジで分けている。安息日(土曜日)は出歩かないし、頭にはいつもユダヤ人が身につける小さな帽子、「キッパ」を被っている。そんな彼は、イエス(イェシュア)を心から、本気で、めちゃめちゃ信頼していた。彼とは、たびたび夜通し、イエスや聖書について、熱く語ったものだ。そんな彼も、パーティーの時は思いっきり酒も飲むし、ナルギーラもブクブクとやっていた。
僕の「信者像」は、ガラガラと音を立てて崩れていった。酒やタバコをやらないといった、僕が「クリスチャンらしさ」だと思っていた部分は、イスラエルでは全く通用しなかった。逆に彼らにとっては、「安息日に出歩かない」とか、「肉と乳製品を分ける」とか、「豚肉を食べない」ことが、「信者らしさ」であった。このとき、私は初めて、「信仰って何だろう」と考えるようになった。パラダイム・シフトが起きた。イスラエル留学は、自分で聖書を吟味しようと思ったきっかけになった。
さて、聖書はタバコについて何と教えているのだろうか。
ジェイクの言うように、聖書には、タバコに関する記述が全くない。良いとも、悪いとも言われていないのである。どんなに探しても、ないのである。もっとも、中東経験のある人ならば、アブラハムとかイサクとかヤコブといった族長たちが、タバコをプカプカしながら、チャイを飲んでいた、といったような風景は、容易に想像できるだろう。しかし、明確な記述がない以上、それは想像の域を出ない。
では、どう考えたらいいのか。まず、大前提として、飲酒の是非の記事でも述べたが、「それ事態でNGな行為は、もはやない」のである。私たちは、「これはやっていい」、「これはやってはダメ」といった、律法主義的な考えからは、既に解放されている。そのような律法の要求は、全てイエスが十字架の上で完結させたのだ。イエスによる「なだめの香り」によって、現在過去未来の全ての罪に対しての神の怒りは、既に鎮まっているのである。
完全に自由であるといっても、何でもかんでもしていいわけではない。それはもう、「心の動機」に聞けば分かる。あなたは、あなたの行為の「結果」(consequences)を刈り取る。食べ過ぎれば太るし、寝不足になれば健康を害する。それと同じで、あなたと神様の関係を傷つける行為をすれば、当然、神様との距離は離れる。神が離れるのではない。あなたが自発的に離れていくのだ。あなたと信仰の友との関係を傷つける行為をすれば、当然、あなたと信仰の友との距離は離れる。では、「喫煙」という行為は、どういう影響を及ぼすのか。
今回は、1:あなたと神の関係、2:あなたと信仰の友の関係、の2つの視点から、喫煙について考えていきたいと思う。
喫煙をするとしないとでは、あなたと神の関係は変わるのだろうか。正直いうと、私はほとんど変わらないと思う。ある意味、お酒より変わらないと思う。
よく、クリスチャンの間で、喫煙を避けるべきという人が引用するのは、以下の聖書の言葉である。
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
(コリント人への手紙第一 6:19)
あなたは、「聖霊の宮」なのだから、その宮を喫煙によって汚してはいけないという理論である。これは、2つの点から間違っている。
1:性的な失敗の文脈であり、喫煙について書いてある箇所ではない。
2:喫煙だけが「汚す」ものではない。
この箇所は、「性的な失敗」について書いてある箇所だ。喫煙についてではない。聖書は、婚前交渉や近親相姦、同性愛などを明確に禁じており、それについての箇所である。少し前の箇所を見てみよう。
それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」(※創世記2:24の引用)と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
(コリント人への手紙第一 6:16~18)
「淫らな行い」というのは、「ポルネイア」(この部分は、ポルネオ)というギリシャ語で、「ポルノ」の語源となったと言われている。「ポルネイア」は、婚前交渉や近親相姦、同性愛や獣姦など、「正しくないセックス」を指す。異論はあるだろうが、今は議論は避ける。
コリントの箇所は、「性的失敗」は、神との関係を阻害するものとして警告している。それらを避け、神と一つの存在となるべきと書いてあるのであって、喫煙や飲酒の是非と問うているわけではないのである。
私たちは聖霊の宮である。だからこそ、毎日毎日、神を知り続け、神とのシンクロ率を高めていく必要がある。それが根本のメッセージであり、「神の宮だから禁煙!」というのは論点がズレている。
しかし、神とひとつのからだとなったのだから、タバコを吸ったらからだが汚れるのではないか、という指摘もあるだろう。これに対しては、イエスは明確な方針を示している。
イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」(中略)イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません」
(マタイの福音書 15:10~20)
当時、手を洗わないで食事をするのは、ユダヤの律法的にご法度だった。というか、現代でも手を洗わないで食事をするのは、ばっちいからヤメた方がいいが、ユダヤ的には清潔+清めの儀式としての意味合いもあったようである。パリサイ人たちは、手を洗わないで何かを食べれば、からだが汚れると心から信じていた。
しかし、イエスは、「どうせ食ったものはウンコになるんだから、別にどうってことない。本当にヤバイのは、心の問題だ。食べるものより悪口を言わないように気をつけろバカヤロー!」と言ったのである。タバコも同じではないか。もちろん、健康には良くないだろう。しかし、霊的な目線では、飲酒よりも、喫煙よりも、悪口の方が100億倍悪いのだ。
あなたがタバコを吸ったところで、せいぜい健康的影響は、微々たるものだろう。もちろん、両手を上げて健康に良いとは言わない。肺がんのリスクは高まるし、様々な身体への悪影響はあるだろう。妊婦は喫煙を避けるべきだし、ニコチンによる依存症もある。だから、お酒と同様、自分なりの「線引き」はした方がいいだろう。しかし、たばこを吸っても、吸わなくても、人はいつか死ぬのである。あなたはどんなに健康に気をつかっても、あなたの寿命を1秒たりとも長くすることはできないし、1秒たりとも短くすることもできない。それは、イエスがハッキリと言っている。
「この世の健康」に気をつかい出すと、キリがない。無闇やたらなオーガニック主義、紫外線恐怖症、過度なダイエットなど、ある意味「偶像礼拝」に陥ってしまう危険性もある。気をつかい出すと、気楽に外食もできないし、外も安心して出歩けないし、食物を感謝して受け取ることもできなくなる。コリントの箇所に記述がある通り、「『食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある』が、神は、そのどちらも滅ぼされる」のである(コリント6:13)。
むしろ、そのような健康に気をつかうより、「悪い考え」や「ののしり」に気をつけるべきと、イエスは教えている。さすがに、「殺人」はなくても、「不倫」や「婚前交渉」の罠には、意外と簡単に陥ってしまう。手癖が悪い人は「盗み」、ちょっと話に盛りグセがある人は「偽証」にも気をつけないといけない。教会の裏口でコッソリとタバコを吸っている人より、公然と牧師や教会スタッフ、他の教会メンバーの悪口を言う方が、100億倍危ないのである。あなたがもし、悪意のあるウワサ話をするなら、それはあなたの霊のからだを汚すことであり、あなたと神との関係を傷つけ、霊的成長を阻害することになる。タバコを吸っても、それは阻害されない。むしろ、上記のような心の問題に気をつけるべきである。
喫煙は、「あなたと神の関係」においては、さほど影響がないと分かった。もちろん、依存症による悪影響は避けられない。だから、気をつける必要がある。しかしながら、「禁止」するべきかというと、そうではないと思う。
では、「あなたと信仰の友との関係」においてはどうだろうか。喫煙が、決定的に「飲酒」などと違う点は、「副流煙」の存在である。これは、現代社会において大きな問題となっている。政府・与党は、日本においても基本的に店舗での喫煙を規制しようと動いている。東京都では、既に路上喫煙や店舗での喫煙が、条例によって規制されている。
あなたが吸いたいと思っても、他の人がどうかは分からない。人によっては、匂いだけで嫌な気持ちになるし、服についたニオイもなかなか取れない。「副流煙」は、タバコを吸う人が吸い込む「主流煙」と比べて、ニコチンが2.8倍、タールが3.4倍、一酸化炭素が4.7倍も含まれている(出展:すぐ禁煙.jp)。
タバコは、吸っている本人より、周りにいる人の方が、害を受けてしまうのだ。自分の意思とは関係なしに、吸い込んでしまい、健康は害されるし、嫌な気分になるわで、いいところが一つもない。がんや、脳卒中、呼吸系の病気、妊婦の出産のリスクなどが高まり、百害あって一利なしである。
もちろん、リラックスしたり、気分転換するという意味で、タバコにも利点はある。しかし、「副流煙」を考えると、配慮は必要不可欠だ。クリスチャンは、「愛」の観点から、喫煙のマナーには、一層気をつける必要がある。
ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。
(マタイの福音書7:12)
これは、イエスが旧約聖書の教えを、ざっくり一言にまとめた箇所である。「律法」と「預言者」というのは、大まかに「旧約聖書」のことを指す。「人からしてもらいたいことは何でも、同じようにする」。言い換えれば、日本語でとても耳馴染みのある言葉、「他人の気持ちになって考えてみよう」ということである。
もし、あなたがタバコを吸いたくなったら、他の人の気持ちになって考えてみよう。もしあなたがタバコが嫌いだったら? もしあなたの妻が妊婦だったら? もしあなたが喘息だったら? もしあなたの家族が肺がんで死んでいたら?
そのような気持ちを考えたとき、「分煙」のマナーを守るのは、至極当然であろう。
また、加えるならば、ニコチンはとても依存度が高い物質である。もしあなたの何気ない喫煙が、やっとこさ「禁煙」に成功した信仰の友の決意を、揺らがせることにならないだろうか。あなたの喫煙の習慣が、信仰の友との関係を阻害していないだろうか。喫煙事態は悪い行為ではないが、特段の配慮が必要なのは、言うまでもない。しかし、一人でカフェに行って、喫煙席に座り、一人でタバコを楽しむのは、全く問題ないと思う。むしろ、弱い人間にこのような嗜好品を与えた神に感謝して、これを受け取るべきだ。
最後に、リーダーたちがどうあるべきか書く。「飲酒」については、明確な注意喚起や基準が定められている。しかし、「喫煙」については、明確な記述がない。
であるならば、根本的には「自由」だ。しかし、愛の原則を忘れてはならない。これはもう解説するまでもなく、ひとりの人間として当たり前のことである。もちろん、喫煙は国や文化の背景によって、常識がかなり違うので、その文化背景も尊重する。では、マリファナはどうか? 覚せい剤はどうか? という議論になるとラチがあかないので、ここでは避ける。
とにかく、日本の文化背景では、「分煙」のマナーを守る。「ポイ捨て」をしない。これが最低限のマナーではなかろうか。そう考えると、高校生の引率で来ていた例の聖公会のチャプレンが子どもたちの前でプカプカやっていたのは、ちょっといかがなものかとも思う。
あなたの考えている「信仰」は、実はただの「文化」かもしれない。僕は、イスラエルで自分の「信仰観」を打ち崩された。僕は、そこからやっと、しっかりと自分の足で歩き出すクリスチャンになれたのである。あなたはどうだろうか。自分の足で歩いているだろうか。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
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Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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