イエス・キリストを信じて、罪贖われた者とされたにもかかわらず、今も、罪への誘惑を受けるのはどうしてだろうか。アーウィン・ラッツァー『悪習慣を断ち切る法』(いのちのことば社刊)から学んでみよう。
*強力な誘惑の力
「肉欲って、どうしてこんなに強いのですか」と、一人の青年が自分の罪の力に打ちひしがれて尋ねた。彼は性的な罪に陥ってしまったのである。「自分が信用できないのです。……こんなまずいことはすまいと誓ったのに、またやってしまったのです」
彼の質問には解答が必要である。なぜ誘惑はこうも魅力的で、容赦なく、強力なのだろう。なぜ神は誘惑の力を減らして、私たちをもう少し楽にしてくださらないのだろう。
クリスチャン生活は、時として必要以上に困難なものに思えることがある。神はすべての力と権威を持っておられる方なのだから、神を愛する者の人生をもっと容易にしてくださるはずだ。多くのクリスチャンが何らかの罪に屈服し、ついには破局に至ることも少なくない現状を考えると、神が一歩先に進んで、行く手の障害を取り除いてくださるのが理にかなっているように思われる。
もし、神がサタンを追放してくださったら
第一に、神がサタンを抹殺してくださればよいではないか、という考えがある。神が天地創造の時にそうしておいてくださったら、アダムとエバは人類を罪に陥れることもなかっただろう。アダムとエバが自由意思を持った存在だったとすると、なぜ神は、彼らが蛇という外部の干渉なしに選択できる機会を与えてくださらなかったのか。私たちの知る限りでは、アダムとエバはサタンの存在を知らされていなかった。そのために、突然の対決に心備えができていなかったのは当然である。もし蛇がエデンの園に入ることを禁じられていたら、アダムとエバはずっと神に従いやすかったし、禁断の実を食べないほうを選んだかもしれない。エデンの園にサタンがいたことと、この地球上で活動を許されていることは、人間が悪を選択しやすい条件を作っている。もし悪魔が地球から締め出されたとしたら、私たちは誘惑を容易に拒絶できて、一歩進んでは二歩下がるという生き方をもうしなくても済むだろう。それなのになぜ、神はサタンを抹殺されないのだろうか。
もし、私たちの情欲が弱くされたら
クリスチャン生活から挫折する者を少なくするための第二のことは、私たちの内面を悩ます誘惑の矢を神が鈍くしてくださることが考えられる。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」(ヤコブ1・14)と言われている。道徳的な純潔をもっと実現しやすくするために、神は私たちの情欲を弱めてくださらないのだろうか。
私たちは罪の性質を持って生まれてきたので、外から刺激を受けると、内から貪欲、自己中心、怒り、反抗、肉欲といったよこしまな欲望でこれに応じてしまう。正直なクリスチャンならだれでも、魂の遍歴の途上のどこかで、これらのよこしまな欲望に負けたことを認めるだろう。神は私たちのもろさをよくご存じなのだから、そんな欲望を少しは弱めてくださればよいのだ。そうすれば私たちは勝利を味わうことができ、主の御名を傷つけずに済む。
「自分のすべきことはわかっている、だができない。努力したし、神の助けも求めた、それでもだめだった」と言う声を聞いた。パウロは彼自身の戦いについてこう書いた。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ7・15)
もし、神の計画が変更されたら
神がサタンを追放されず、私たちの罪深い欲望を弱めてくださらないとしても、誘惑に近づかないように導いてくださってもよいではないか。そうすれば罪を犯しそうになる環境に立たされなくても済む。
ダビデがバテ・シェバとの罪を犯したのは、屋上で休んでいた時に彼女がたまたま隣の家で入浴していたからではないか。神は彼女が二時間早くか一時間遅れて入浴するようなこともおできになっただろう。
アカンが罪を犯したのは、エリコ攻略の後に美しい外とうが見張りもつけずに置かれていたのを見たからではないか。アブラハムがうそをついたのは、その地にききんがあり、命の危険を感じたからではなかったのか。サムソンは魅力的なデリラに引かれたからこそ、秘密をもらしたのではなかろうか。
神は、私たちが罪を犯しやすい状況に陥らないようにはしてくださらない。試みを受けるためにキリストを荒野 に導いたのは聖霊であった。主の祈りの中で、イエスは、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈るように弟子たちに教えられた(マタイ6・13)。私たちは、罪に陥りそうな事態から救ってくださいと神に願うべきである。だが、罪を犯しかねない環境に神が導き入れる事実は認めざるをえない。もちろん、神はサタンのように私たちを試みたりはなさらない。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません」(ヤコブ1・13)
私たちは、自分の行為を神のせいにすることはできない。罪を犯したら、それは罪深い性質のせいであり、責任は自分にある。しかし、神が私たちを試されるのは事実である。神は、サタンが私たちを誘惑するのをお許しになる。サタンは私たちの生活に入り込んでくる。罪の性質には制限も警告もなく、気がつくと罪を助長するような状況に身を置いていることがよくある。なぜ誘惑はこうも強力なのか。
『悪習慣を断ち切る法』
アーウィン・ラッツァー 著
島田礼子 訳
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