聖書には「父と母を敬え」という大原則が書かれています。しかし、それはどこまでの範囲なのでしょうか?
聖書は、両親を敬うという大原則を教えている。かの有名な「十戒」の中のひとつの教えに、このような命令が書かれている。
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
(出エジプト記 20:12)
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じたとおりに。それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである。
(申命記 5:16)
十戒では、最初の4つの教えが「神と人との関係」についての教えで、後半の6つが「人と人との関係」についての教えとなっている。そして、この「父と母を敬え」という教えは、6つ目、つまり「人と人との関係」においての第一の戒めとして書かれているのだ。
父と母を敬う。この大原則は、旧約聖書のみに留まらず、新約聖書でも同じである。
子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。「あなたの父と母を敬え」これは約束を伴う第一の戒めです。
(エペソ人への手紙 6:1~2)
子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。
(コロサイ人への手紙 3:20)
父と母を敬う。両親に従う。これは聖書が全体を通して教えている、人生の大原則である。
しかし、現代においてはこの教えに様々な疑問が出てくるだろう。どこまでの範囲が親の権利なのか。何でもかんでも親に従わないといけないのか。悪い親、いわゆる「毒親」に対してはどう対処すべきか。肉体的・精神的虐待をしている親に対しても従わなければいけないのか。この病んだ現代の社会においては、親と子の関係がとても難しくなっている。
そんな現代に生きる私たちにとって、今一度「親と子」の関係について見つめ直す必要がある。今回は、そんなデリケートかつ重要なテーマを見ていこうと思う。
まず、もう少し聖書の原則を深掘りしていきたい。聖書は上記以外の箇所で、どのように教えているのか。さらっと見ていこう。
先に挙げた「十戒」の教え以外にも、聖書はあらゆる場面で両親を敬い、両親に従うことの大切さを説いている。知恵に満ちたソロモン王が書き記したとされる「箴言」の言葉を見てみよう。
わが子よ、父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭に戴く麗しい花の冠、首にかける飾りだから。
(箴言 1:8~9)
子たちよ、父の訓戒に聞き従え。耳を傾け、悟りを得よ。
(箴言 4:1)
愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は賢くなる。(箴言 15:5)
叡智を極めたソロモンは、父と母の訓戒に聞き従うことの大切さを教えている。
実際、聖書は両親に従わなかった人たちの悲惨な末路をたくさん描いている。エサウ、サムソン、祭司エリの息子たちなどなど、両親の教えを守らなかった者は、祝福を逃したり、命を落としたりしたのであった。
何のために両親に従うのか。聖書によれば、「あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるため」とある。両親の教えに従うことは、結果としてあなたに幸せをもたらすのである。
旧約聖書には、両親をののしった場合は死刑に処せられるという恐ろしい規定がある。もちろんのこと、これは現代にそのまま適用できるものではないが、それほど大切な教えだったと心に留める必要があるだろう。
自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。<中略>自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。
(出エジプト記 21:15~17)
だれでも自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければなならない。その人は自分の父あるいは母をののしったのだから、その血の責任は彼にある。
(レビ記 20:9)
現代において、両親との関係は難しい課題のひとつだろう。このような厳しい規定が適用されないからこそ、難しいチャレンジなのかもしれない。いかに両親への尊敬と従順がファンダメンタルな教えなのか、覚えておく必要がある。
さて、イエスの場合はどうしたのか。当然だが、イエス自身も子どもの時代があった。その時のイエスはどうしたのか。こう書いてある。
それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背丈も伸びていった。
(ルカの福音書 2:51~52)
イエスは「両親に仕えた」。その後に「神と人とにいつくしまれ」(新改訳聖書3版では「神と人とに愛され」)と記述があることから、イエスは両親への敬愛と従順の模範も示したと考えられる。もちろん、イエスの本当の父は神ご自身であるゆえに、不思議な言動を多々している面はある。それについては後述する。
また、イエスは「父と母を敬え」という教えを強調し、何度も教えている。「永遠のいのち」を求めた人に対して、イエスはこう教えている。
すると見よ、1人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい」彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」
(マタイの福音書 19:16~19)
イエスが引用したのは「十戒」の後半6つの教えだ。もちろん、これはイエスの「とんち問答」の前半部分なので、これをもってイエスが十戒の遵守を教えたと断言するのは、いささか説明不足ではある。しかし、イエスが生活の基礎として「十戒」の一部を挙げたのは注目すべきだ。
さらに、イエスは別の場面でもこのように教えている。
そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人はその物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神にことばを無にしてしまいました。
(マタイの福音書 15:3~6)
これは、当時のパリサイ派たちが聖書の教えよりも「言い伝え」を重視した結果、聖書本来の教えがないがしろにされているではないか、という指摘である。ここでもイエスは「父と母を敬え」という部分を引用して話している。いかに基礎的かつ重要な教えだったかが分かる。
最後に、聖書は「神を知らない悪者」の特徴として、以下のようなものを挙げている。その中に「親に逆らう」「両親に従わない」というものが含まれている。
また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。
(ローマ人への手紙 1:28~32)
終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者となり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。
(テモテへの手紙第二 3:1~3)
人殺しや悪事、情け知らずに恩知らず。これらと「並列表記」で、「親に逆らう」「両親に従わない」という要素が記載されているのは、とても興味深い。
<まとめ>
1:両親を敬うのは聖書の基本である
2:両親をののしる者は、かつては死刑になったほどであった
3:イエス自身も両親を大切にし、親を敬うように教えた
4:「悪者」の象徴として「親に逆らう者」との記述がある
さて、ここまで聖書の言葉を並べ連ねると、「どんな親でも無条件で従わなければならないのか」という疑問がわいてくる。確かに、これほどまで聖書が語っていると、否定しがたい事実のように思えてくる。
しかし、立派でない親が多数いるのも現代社会の現実である。これは悲しいが、事実である。いわゆる「毒親」の問題は、現代において大きな問題だ。
ただ立派でないだけならマシだが、中には肉体的・精神的な虐待をする親もいる。暴力をふるう。言葉でののしる。性的な暴力をふるう。無視・ネグレクトをする。子供をコントロールしようとする。親と子の関係の問題は、今や社会問題に発展している。これは、現代社会の病といってもいいだろう。
この問題に対して、どう考えたらいいのか。私はとても悩んだ。聖書の中から、「親に逆らった結果功を奏した人物」を探そうともした。しかし、考える限り、明らかにそのような記載がある人物はいなかった(いたらご指摘願う)。この記事を書くのは、実は時期尚早なのではとも思った。
しかし、「親と子の関係」は、無視できない重要なトピックである。今回は、今の時点で私の中でまとまっている3つの点だけ述べたい。腑に落ちない点がもしかしたらあるかもしれないが、コメント等でご指摘願う。実は私もまだ腑に落ちきっていないのだ。
神に従うことと、親に従うことが対立したら、どうしたら良いだろうか。例えば、親が「イエスを信じてはいけない」「聖書を読んではいけない」「祈ってはいけない」「教会に行ってはいけない」「クリスチャンと関わってはいけない」と言ってきたらどうすれば良いのか。これは、子の年齢や立場によっても言える内容が違ってくる、難しい問題だ。結論から言えば、ケースバイケースである。
しかし、私なりの「原則」を申し上げたいと思う。それは、「人間である親に従うよりも、神である主<しゅ>に従う方が優先」というものだ。もちろん、その言動が「本当に神に従っているのか」、慎重な吟味は必要にはなってくるが、親への従順より神への従順が優先されるのは大原則である。
例えば、旧約聖書には様々な王が登場する。北イスラエル・南ユダの王たちの変遷は、とても面白い(列王記、歴代誌など参照)。王によって、その良し悪しは様々である。神に従う「善い王」と、神に従わず他の神々や偶像礼拝にふける「悪い王」が様々登場する。例えば「善い王」の代表格としてはアサ王、ヒゼキヤ王、ヨシヤ王などが挙げられる。「悪い王」は挙げればキリがないが、代表格は何といっても北イスラエルのアハブ王だろう。他にも北イスラエルの初代王であるヤロブアム王、南ユダのマナセ王、アモン王などは悪い王の代表格だ。
「善い王」「悪い王」といっても、その判断基準は、「神に従うかどうか」のただ一点である。「悪い王」とされているのは、いずれも唯一の神ではなく、他の神々を信奉し、偶像礼拝を行ったためだ。実は、治世の長さや勢力などを考えると、人間的・政治的な尺度では「悪い王」の中でも活躍した王はいると考えられる。しかし、神の評価基準はただ一点、「神に従うかどうか」である。神に従った王はいずれも「ダビデのように歩んだ」との記載がある。
面白いのは、「善い王」と「悪い王」が入れ違いになっている点だ。「善い王」であってもその息子は「悪い王」になったり、逆に「悪い王」の息子が「善い王」になったりしているのだ。例えば、ヒゼキヤ王は神に従う「善い王」であったが、その息子のマナセ王は超絶に悪い王だった。その息子アモン王も最悪の王とされているが、孫のヨシヤ王は、宗教改革を行い、律法を回復させたとまで言われる「善い王」として描かれている。また、ヒゼキヤ王の父親であるアハズ王も「悪い王」だったが、息子のヒゼキヤは神に従う「善い王」だった。神に従わない父親のもとで、神に従う息子が育っているのである。
仮に、ヒゼキヤやヨシヤが、親に従った結果、偶像礼拝を行っていたら、どうなっていただろうか。信仰は継承されなかっただろう。しかし、彼らは親の信仰に倣わず、神に従う道を選んだのであった。そして、その生き方は神に評価されている。このことから、神に従う方が、親に従うよりも優先だと考えられるだろう。
信仰や習慣の悪循環があれば、その道を断ち切るというのも、大切な選択である。ヒゼキヤ王やヨシヤ王は、親の悪い習慣を断ち切った。現代においても、親に悪い習慣があれば、それを断ち切る必要がある。暴力、暴言、怠慢、コミュニケーション不足、不貞、男女関係の乱れ、信頼関係の欠如、噂話をする癖、浪費癖、過度な清貧思考、無計画性、無知、人を支配する傾向、思考パターン、信仰スタイル、アルコール依存、ギャンブル依存、生活習慣、などなど・・・子が親の悪癖を断ち切らなければならない要素はたくさんある。これらを断ち切ることは、決して親を尊敬しないことにはならない。親は尊敬しつつ、良くないものは断ち切っていく必要はある。
だからといって、神に従うためなら親の言葉に全く従わなくていいわけではない。神に信頼する道を選びつつ、親を尊敬する道を模索するのが大切である。尊敬はすれど、間違っているものは指摘し、話し合い、解決していくというプロセスが大切である。
現代人は「大人」になるのが遅すぎる。いい大人がいつまで立っても子どものように振る舞い、成長しない。ある親たちは、親になってもなお子供のように振る舞っている。「アダルトチルドレン」はいたる所に存在する。人は、ある一定の年齢になったら、責任感ある、自立した大人になる必要がある。
聖書では、いつ「大人」になるかは書かれていないが、親の権威の下からいつ離れるか、その基準は書いてある。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
(創世記 2:24)
聖書によれば、人が父と母を離れるのは、結婚したときである。究極的には、結婚が親の権威の下から離れるタイミングなのである。この「結婚」が、現代社会においてはどんどん遅くなっている。
旧約聖書をベースとするユダヤ教では、男子は13歳で「バル・ミヅヴァー」という儀式を行う。日本でいう「成人式」である。宗教的な意味合いでの「成人」ではあるが、13歳になったら、律法に対して大人としての責任が生まれるのである。個人差はあるが、原理主義的なユダヤ教徒たちは、その後、10代~20代前半の若い内に結婚し、子供を大勢もうけるというのが一般的である。
しかし、日本の現代社会では「大人」になるのが遅すぎる。高等教育・大学教育があまりにも一般化してしまったのが原因だと、私は個人的に思っている。かつては16歳にもなれば、ほぼ大人で、10代~20代前半で結婚し、家庭をもうけ、大人として歩んでいくのが当たり前だった。しかし、現代においては高校を出れば18歳、大学を出ればストレートでも22歳、社会人として落ち着くまで・・とやっていたら、あっという間に30歳になってしまう。「大人」になりきれないまま、子供の精神のまま大人になってしまうのである。今の社会は「アダルトチルドレン」を大量生産する仕組みになってしまっているのだ。
イエスの時代の面白いエピソードが聖書に残されている。これは、生まれつき目の見えない人が、イエスに目を見えるようにしてもらったときの話である。イエスが彼の目を見えるようにしたのは「安息日」だったので、パリサイ派の人たちは彼を呼び出して、どのように見えるようになったのか追及した。パリサイ派の人たちは、イエスの奇跡を信じず、ついには盲人だった人たちの両親を呼び出して追及する。元々、盲目ではなかったのではないかと疑ったのである。その追及に対する両親の返答が、傑作だ。
ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、訪ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか」そこで、両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えているのかは知りません。でれが息子の目を開けてくれたのかも知れません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう」
(ヨハネの福音書 9:18~20)
新改訳聖書3版では「あれはもうおとなです」と書いてある。とてもユニークな表現である。盲目の人の両親は、イエスを認めると会堂から追放されると知っていたので、こう言って責任を逃れたのだった。
この盲目の人が、具体的に何歳だったか、ヨハネの福音書の記述からは明らかではない。しかし、会堂で証言するに十分な年齢であったことは分かる。40歳ぐらいなのではないかとの話を聞いたことがあるが、確証はない。
話をもとに戻すが、大切なのは「ある一定の年齢になったら、親との適切な距離感を持つ」ことである。現代は、社会が人を「大人」にさせるのが遅すぎる。私は、10代後半になれば、もう立派な「大人」だとは思う。
しかし、大人になるというのは同時に責任も伴う。高校や大学に進学すれば、経済的に親に頼っている面もあるのだから、完全な「大人」とはいかないだろう。しかし、何でもかんでも親の言いなりというのは違うのではないか。ある一定の年齢になったら、1人の自立した大人として、親との適切な距離感を保つ必要があるのではないか。自分の人生の選択は自分でする。その代わり、その責任は自分で負う。親は敬いつつ、適切な距離は保つ。それが「大人」に求められている責任ではないだろうか。
近年、いい年になっても親におんぶにだっこの人がいる。決断力がなく、自分の人生の選択をすべて親まかせにしている人がいる。周囲の忠告に耳を貸さず、親の言うことしか聞き入れない人がいる。これは完全な肌感覚だが、クリスチャンの人ほど、この傾向が強くあるように思う。「あれは大人ですから」と親が距離を置くのも大事だが(子離れできていないクリスチャンの親も多い・・・)、子どもの方も、早く「大人」になっていただけたらと、私は思う。
3つ目は、この記事で一番重要なポイントだ。それは、「神があなたの父となってくださる」という事実だ。聖書にはこう書いてある。
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子供であるなら、相続人でもあります。私たちは、キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(中略)神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
(ローマ人への手紙 8:14~29)
クリスチャンは、イエスと共に、神に対して「わたしの父」と呼べる権利をもらっている。神は、私たちの「霊の父」となってくださったのである。イエスを信じ、クリスチャンになった瞬間に、本質的にはもう親の権威の下にはいない。親の権威の下から、神の権威の下へと移っているのである。神ご自身が、あなたの父となってくださっているのである。
それゆえ、もし読者の中に「毒親」に悩まされている人たちがいたら、天の神ご自身が父となってくださったことを、どうか思い出してほしい。天の神を「アバ、父」と呼ぶことによって、私たちの霊は癒やされる。親との関係に悩み、苦しんでいる人は、どうかこの素晴らしい神の約束を覚えてほしい。神があなたの父となってくださるのである。
先に挙げた、ルカの福音書2章において、イエスのエルサレムでの対応が両親に対して不遜なのではないかと、疑問を持つ人もいるだろう。イエスの本来の父は、ヨセフではなく神ご自身であったので、イエスはその原理を述べたのであった。しかし、ヨセフとマリアには、それが分からなかったのである。詳しくは、ルカの福音書2章をご参照願いたい。
他にも、イエスが「父や母を捨てて、わたしに従わなければ、わたしの弟子になることができない」(ルカ14章など)と言ったりしているのも、究極的には神がクリスチャンたちの父であり、クリスチャンは神の子どもだからである。これがイエスの約束である。
私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。
(ヨハネの福音書 14:18 聖書協会共同訳)
イエスが今や神の長子として、右の座に君臨している。クリスチャンも、神の子どもとして大胆に神に近づくと同時に、神に従う人生を歩む必要がある。
さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
(ヘブル人への手紙 12:9)
私たちには、霊の父、唯一の神がいる。その神が父となり、いつまでも一緒にいてくださるのである。詳しくは以前、別記事を書いたので参照願いたい。
最後に、「親に従う」という原則を強調しすぎると、カルト化する危険性があるという点について付言したいと思う。
例えば、聖書には「むち」について、このような言及がある。
むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。
(箴言 13:24)
愚かさは子どもの心に絡み付いている。懲らしめのむちがこれを子どもから遠ざける。
(箴言 22:15)
子どもを懲らしめることを差し控えてはならない。むちで打っても、死ぬことはない。あなたがむちでその子を打つなら、その子のいのちをよみから救い出すことができる。
(箴言 23:13~14)
この「むち」を実際の縄のムチと考えると、少し間違える。「むち」のヘブライ語である「シェベット」は、羊飼いの「杖」とも訳される。「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(詩篇23:4)とあるように、「シェベット」は羊飼いが羊を害獣から守るために使う「守りのむち」であった。これがムチ打ちのムチであったら、単なるドMである。これらは、羊を害獣から守るための「守りのむち」と、羊を杖で正しい道へと導く「導きの杖」であったと考えられる。「シェベット」は、「むち、杖、棒、さお」などと訳され、主には羊飼いが羊を導く際の、優しく穏やかな「杖」を想起させるものである。
箴言の「むち」は文脈から縄の「ムチ」の意味合いが強いが、そもそも子どもを訓戒する比喩として「むち」と言っているだけであって、何も本当に子どもをムチで打てなどとは言っていない。新約聖書において、「教えと、戒めと、矯正と、義の訓練のために有益」とされているのは「ムチ」ではなく「聖書」である(テモテへの手紙第二 3:16)。
この「親の権威」を「権利」と履き違え、強調しすぎると、途端に危ないカルト宗教に陥ってしまう。
私は一度、16歳のときに、極端な教えにハマっていた親から、「40に一度足りないムチ打ち」(※申命記25:1~3に記述があるが、現代で文字通り同じことをやるのは全くの間違い)を実際に受けたことがある。私自身も、親に暴力をふるってしまったのだが、その罰として「39回のお尻叩き」を受けた。コテージに見張り付きで監禁され、木の棒でお尻を39回、本気で叩かれたのである。まさか旧約聖書の規定を実際に現代でやる人間がいるとは思わなかったが、事実である。
幸いにも、今私の親はそのような極端で間違った考えから解放されている。しかし、私の記憶はなくならない。私のお尻は、未来少年コナンのように紫色に腫れ上がり、1ヶ月近く、座ることすらままならなかった。完全な虐待行為である。警察や児相に訴えたら、どうなるのか。忌々しい記憶である。絶対にゆるさない! とは言わないが、あの痛みと嫌な経験は、未だに忘れることができない。親が極端な権威を振りかざしたことを、子供はいつまでも覚えている。もちろん、暴力は反省しているが、今でもその苦い記憶は残っている。
親の「権威」を「権利」と履き違え、極端な教えに走ることがないよう、クリスチャンはいつも気をつけなければならない。「親を尊敬する」ことと「親が子供を支配する」ことは全く違う別次元のものだ。
もう一つ、クリスチャンの中には、親が子どもを必要以上に管理しようとする傾向がある。「これはダメ」「あれはダメ」から始まり、極端な人になると「あなたはここの学校に行きなさい」「あなたにこの職業は向いてない」「あなたは世の人とは違う」などと言って、自分の子どもをコントロールしようとする癖が、クリスチャンの親にはある。自分は何様だと思っているのか。その結果、いつまでたっても自分の頭で判断ができない、世間知らずで、自分から情報を得て行動しようとしない、子どものような大人のクリスチャンが出来上がってしまう。これではいけない。
あなたがするべきは、聖書の言葉を教えることであって、あなたの子どもの人生を支配することではない。子どもを世の中から隔離するのは、いい加減にやめた方がいい。
巷で流行っている、子どもを学校機関に通わせず教会や自宅で教育する「チャーチ・ホームスクール」の是非については、私も当事者の1人としていつか記事を書こうと思う。簡潔に言えば、やるのは大いに結構だが、子どもの夢と可能性をつぶすことだけはやめてほしい。両親共に意思があり、勉学の環境が整っていることが大前提である。この現代社会において、高等・大学教育を受けていないことが、どれだけのハンディキャップなのか知ってからやるべきだと、私は思う。十分なサポートや計画、進学の保証がないにも関わらず、見切り発車で子どもを不幸にする親が多いように私は感じている。親の「やりたいこと」に付き合わされた結果、苦しむのは子どもであり、結局のところ一番大事な信仰まで失うケースがたくさんある。
聖書の言葉を知っていれば、何が良いもので、何が良くないものか判別くらいできる。アナタの子どもの可能性をつぶさないでほしい。親の権威は、神に与えられたものである。それを自分のものと勘違いし、子どもをコントロールするのだけは、やめていただきたいと、心から思う次第である。
父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。
(エペソ 6:4)
子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。
(コロサイ人への手紙 3:20~21)
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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