神の国が来る

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「神の国が来る」

秋葉正二
イザヤ書2,1-5;

 救い主メシアの待望が旧約聖書のユダヤ人の信仰理解の中心にあったことはよく知られています。 これは後期ユダヤ教の中で終末論的色彩の濃い黙示文学という形でも現れました。 それはルカ福音書の中にも当然影響を及ぼしています。

 まずこのことを頭に入れてきょうのテキストを読んでいきましょう。 キリスト教の宣教は2千年という長い歴史をもっていますが、その出発点であるイエスさまの活動を一言でいえば、「神の国が近づいた。イエス・キリストを信ぜよ」となるでしょうか。 ですから神の国が重要な意味を持っていることは確かです。 もう皆さまご存知だと思いますが、神の国と訳された言葉は聖書の原語で何を意味しているのかを一応解説しておきます。 神の国の「国」はギリシャ語でバシレイアですが、この言葉は王という意味のバシレウスから作られた言葉です。 ですから神の国の「国」は「王の支配」という意味で、その支配が及ぶ領域という意味を持っています。 そのことから神の国の根本の意味は「神さまの支配」であることが分かります。 マタイ福音書では「天の国」という言葉が使われていますが、天は神さまのことですから、その意味は同じです。 なぜ最初にこうしたことを申し上げるかと言いますと、旧約聖書には「神の国」が出て来ないので、これは新約聖書で初めて出てきた思想だと考えてしまう方がおられるからです。 でも神の国が神の支配だと分かれば、これは旧約聖書にも通じるものであることが理解できます。

 さてテキストですが、ファリサイ派の人たちが「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのでイエスさまは答えておられます。 『神の国は、見える形では来ない。“ここにある”“あそこにある”と言えるものでもない。実は、神の国はあなたがたの間にあるのだ』。 これはおそらくファリサイ派の人々が神の国は何らかの形で見ることができると考えていたことを、イエスさまが見通しておられたところから出てきた表現でしょう。 これはファリサイ派だけでなく、黙示思想家も天体観察や自然現象の異変を観察することで神の国を見ることができると考えていたと思われるからです。 また「“ここにある”“あそこにある”と言えるものでもない」というのは、神の国が空間的に限定されたり、イスラエル民族や彼らが住む土地に限定されるものでもない、ということを明らかにした表現でしょう。

 そのように指摘された上で、イエスさまは、『実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』と言われます。 しかし、これもまた分かりにくい表現です。 「間に」と訳された原語はentosという言葉ですが、これは「内(側)に」とも訳すことができます。 最初にメシアの待望がユダヤ人たちの信仰の中心にあったと申しましたが、イエスさまの時代、ユダヤ人たちは神さまがローマ帝国の支配、つまり偶像礼拝をしている異教の人間の支配をくつがえして、再びダビデのような王を立ててこの世を支配される時が必ず来る、それはメシアの現れる時でもある、と信じていたので、ユダヤ民族が待ち望んでいる神さまの支配の時はいつなのか、ということが重要問題でした。 それがファリサイ派の人々の問いでもあったわけです。 そういう問いに対して、イエスさまは「いつ来る」とはお答えにならずに、神さまの支配はあなたがたの間に、内にあるのだ、と言われたのです。

 イエスさまは神の国が、人の意のままに来るのではないし、場所にも限定されないのだ、と明らかにされました。 ですから、神の国・神の支配は人の望みのままに見えるようにはならない、ということをはっきりと示されたのだと思います。 神さまの支配はあなたがたの生活の只中に既にあって、霊的な目をもって見るならば、わたしイエスと共に既に来ているのだよ、という指摘です。 もっと言うならば、あなたたちの心に既に与えられている神の義や愛や平和が神の国だということでもあるでしょう。 11章には悪霊を追い出す有名な「ベルゼブル論争」の記事がありますが、その20節でイエスさまはこう言われています。 『わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ』。 これは言うなれば、神さまの支配は、主イエスの力によって悪霊を追い出して頂くことによって私たちのところに来ているということです。

 さらに別の角度から神の国を考えてみましょう。 先ほど神の支配は旧約聖書にも通じる、と申し上げましたが、例えば創世記3章には楽園喪失の記事があります。 神が与えてくださったエデンの園という本来の居場所を人間が早くも失ってしまうという記事です。 自らの存在根拠である神さまを退け、神さまを崇めることをしなくなった時、人は故郷を失い、さすらい人になりました。 楽園を追放されたというのは人が心の故郷、魂の故郷を失ったということです。 それは人間が心の支え、魂の拠り所を失ったまま人生を送らなければならなくなったということでもあります。

 このことを思い起こすと、私たち人間は、失楽園以来、さすらい人として魂の故郷を慕い求める旅に出たというふうにも言えるでしょう。 イエスさまがガリラヤで「神の国は近づいた」と宣言して活動を始められたのは、この失われた故郷を人間に回復させるためだったと考えてもいいのではないでしょうか。 心の拠り所を求めてさすらう人間に、再び緑滴るエデンの園に連れ戻すために「時は満ちた。神の国は近づいた」と地上に来られたような気がするのです。 ですから3年半にわたるイエスさまの活動は、神の国の到来を告げ知らせ、人々を神の国に招き入れることだったと思います。 人間の最終的な故郷が神の国であり、その神の国がイエス・キリストの出現によって到来したことがこのテキストには示されていると思います。

 そこで重要なことは、イエスさまがその到来を宣言された神の国は、私たちの現在の生活と無関係な未来の理想社会のことではないということです。 「あなたがたの間にあるのだ」というお言葉は、今この地上において、私たちの心の中に打ち立てられている神さまの恵みの支配を指しています。 政治が乱れ、平和が壊されようとしているこの現代社会のどこに神の国があるのだ、と文句が出そうですが、そもそも人間は理想社会を築くことができなかったというのがこれまでの歴史です。 しかし神の国はそうした人間の国々の興亡には巻込まれないし、それを乗り越えて存続していくよ、というのがイエスさまのメッセージなのです。

 神の国が私たちイエス・キリストを信じる者の心に、神の正義や平和や聖霊における喜びとしてしっかり確立している限り、神の国は決して歴史から消えることはありません。 イエスさまは神の国がこの世を支配するものとして存続し続けるという希望のメッセージを語られたと思います。 イエス・キリストを信じる人が生きている限り、神の国は決して歴史の中に埋もれてしまうことはありません。 使徒パウロは『四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない』と第2コリントの4章で言っていますが、これは神の国が単なる空想上の存在ではなく、たとえこの世の歴史や現実の境遇がどのように移り変わったとしても神の支配は決して揺るがないということの証言でしょう。 神の国はユートピアではありません。 イエス・キリストを主として仰ぐ人々に確信として与えられる神さまの恵みそのものです。 それは目に見えないかも知れません。 しかしたとえ目に見えなくてもあるものはあるのです。 私たちがイエスさまに出会い、罪赦されて歩み始める時に、私たちは神の国が見えるようになります。 私たちはこの国で生きることが出来るのです。

 ところで、私たちはきょう「召天者記念礼拝」を守っていますが、言うなれば神の国は、私たちの明日に、私たちが知ることのできない自分の明日がどうなるかという問題に対する最終的な解決でもあります。 私たちが自分の明日に対して不安や恐れを抱くのは、明日が自分の死ぬ日だと知っているからです。 死を免れた人は一人もいないのですから、自分の明日にも死が待っていると思えば、不安になるのは当然です。 死が人間にとって最大の敵と言われる所以です。 黙示文学のダニエル書の7章13,14節にこういう言葉があります。  『見よ、“人の子”のような者が天の雲に乗り、“日の老いたる者”の前に来て、そのもとに進み、権威・威光・王権を受けた。諸国・諸族・諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない』。 これはダニエルの見た幻です。 新約聖書の神の国の先取りといってもよいと思います。 死を味わわずにすむ人は一人もいませんが、今この地上において樹立されている神の国の市民は、やがて出現する明日の神の国において永遠の生命を約束されています。

 ここにおられる方々はその明日の神の国、天国を歩んでおられる方々に他なりません。 天国、そこは黙示録が言うように、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人が神の民となり、神自ら人と共にいまして人の目から涙をぬぐいとってくださる、死も悲しみも痛みもない世界です。 ここにおられる方々はイエス・キリストを信じて、根本的な喜びと希望に溢れた生涯を送られました。 それは永遠に続く神の国が、明日に向かって力強く生きなさいとこの方々に力を与えてくれたからです。 私たちは23節にあるように、偽りの終末情報に踊らされてはなりません。 イエスさまの来臨が密やかに地域的に起こるのではなく、『稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように』突然現れることをしっかり胸に刻みつつ、神の国が死の世界を征服し、死の彼方に永遠の生命を約束してくれていることをしっかり見つめてこの世の生涯を生き抜きたいと願うものです。 この写真の皆さんと、天国での再会を楽しみに、私たちに残された人生を生き切りましょう。 祈ります。


 
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