2019年主の記念式シリーズ(8)天への復活か地上での復活かふたつの見込み

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

 今回は、聖書が天と地上での二つの命の見込みを差し伸べていること、その見込みにあずかるために復活もふたつの種類があるということを示す聖書的な根拠をさらに示したいと思います。 

(1)人間の前途には地上での永遠の命と天での永遠の命とふたつの見込みがある 

 聖書は二つの種類の見込みを差し伸べています。まず、聖書は確かに将来、一部のクリスチャンたちに死後に天の王国に行って「祭司」また「王」になるという機会を提供しています。(黙示録5:10新共同訳)回復訳でも、「彼らをわたしたちの神のために王国とし、祭司とされたからです。そして彼らは地上を支配するでしょう 」とあります。(啓示録5:10回復訳) 

もし支配される民が存在しないのであれば王であるとは言えない

 

 地上を支配するとあるのに、その地上に支配される民がいないのであれば、「王」になる者たちは、王とは言えないでしょう。ですから、地上には、神の王国に支配されるアダムの子孫が存在するはずです。 

天の王国は地上を支配するのに地上に民がいなければ意味がない

 

 そして、聖書には王がいるのであれば、民が必ず存在するという記述もあります。「国が強大であれば王は栄光を得る。民が絶えれば君主は滅びる」とあります。NASBでも、”In a multitude of people is a king’s glory” となっています。(箴言14:28新共同訳)ですから、king「王」はpeople「民」とセットで存在します。 

 ですから、「民」が存在していないのであれば、「王」になるクリスチャンたちは「王」とは言えません。しかしながら、神の王国の場合は、王は単に民に対していばり権威を振るうために存在しているのではありません。イエスのように民にキリストの贖いを適用して、人間としての完全さに到達するよう仕えるために存在します。(マタイ20:25-28) 

 ですから、聖書が人類の大多数に差し伸べている見込みは、基本的にこの地上で永遠に生き続けるという見込みです。それで、天に復活して王になり支配することになるのは、人類の中の少数派、すなわち「小さな群れ」”little flock” です。(ルカ12:32新共同訳・NASB) 

(2)地上への復活と天への復活と二つの種類の復活がある 

  聖書は、将来人類に復活という機会があることを約束しています。大多数の人々には、聖書は、この地上で人間として復活することを約束しています。(ヨハネ5:25,29) 

 復活には、聖書に従った生き方をしていた人も、聖書を知らずに聖書に従わない生き方をしていた人々も含まれます。「義人にも不義な者にも等しく復活があるという望みを、神に対して抱いているのです」という言葉があります。(使徒24:15回復訳) 

 新共同訳にも同じ言葉があります。使徒言行録では、パウロは、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」と述べました。(使徒24:15新共同訳) 

 結局、不義の生き方をしていた者が天に復活するというのは、公正でもないし、道理にもかなっていないでしょう。不義の生き方をしていた人は、天で「王」として統治する資格がありません。 

不義な生き方をしていた人が天に復活するというのは公正なことではない

 ですから、義人にも不義な者にも復活があるという聖書の記述も、天と地上への二つの復活の見込みがあることを示しています。 

(3)イエスの隣で死んだ犯罪者に地上の楽園に復活するという見込みが差し伸べられた理由 

 イエスが、地上で亡くなる前に、隣にいた犯罪者はイエスに対して、「イエスよ、あなたがあなたの王国に入られる時、わたしを覚えてください」と言いました。(ルカ23:42回復訳)この犯罪者はイエス・キリストがとにかく復活して、王になるという信仰を持ち始めたようです。

 それに対して、イエスは、「まことに、わたしはあなたに言う.今日あなたは、わたしと一緒にパラダイスにいる 」と言われました。(ルカ23:43回復訳)このイエスの言葉は、イエスが「今日」その言葉を語られたということなのでしょうか。あるいは、犯罪者が「今日」パラダイスにいることになるという意味でしょうか。 

 

イエスは犯罪者がパラダイスにいることになると約束された

 また、このイエスの約束は、天の「パラダイス」について語っているのでしょうか。あるいは、地上の「パラダイス」について語っているのでしょうか。 

 ルカ 23章43節の解釈の仕方は,翻訳者の句読点の打ち方によって影響を受けます。アメリカーナ百科事典(1956年版,第23巻,16ページ,英文)は,「ギリシャ語の初期の写本や碑文に句読点が打たれなかったことは明らかである」と述べられています。西暦9世紀になって初めて句読点が打たれるようになりました。 

 Biblegatewayによると、この部分のギリシャ語のセプタギンタ訳の原文は、και ειπεν αυτω αμην σοι λεγω σημερον μετ εμου εση εν τω παραδεισω となっています。この元のギリシャ語原文には句読点はありません。赤い部分が、「今」あるいは「今日」を表すギリシャ語です。それで、イエスが「今」あるいは「今日」言われたと翻訳することもできます。 

 ですから、イエスは、「今」あるいは「今日」犯罪者に言いますと言われたわけです。犯罪者がその日に「パラダイス」にいることになると言われたわけでは決してありません。 

 また、イエスの隣の犯罪者が天に行くはずがないということは、その犯罪者が天に行く人に求められるさまざまな資格にかなっていないことから分かります。 

 イエスは一部のクリスチャンに将来の約束を次のように言われました。「あなたがたは、わたしの試練の度に、わたしと一緒にいてくれた人たちである。だから、・・・わたしは王国をあなたがたに与える.」(ルカ22:28,28回復訳)ですから、王国に入ることを許されるクリスチャンは、「試練」の中でイエス・キリストに忠実につき従うという生涯の記録が求められています。 

 さらに、王国に入る弟子たちは、前もって聖霊で油注がれなければなりません。イエスの復活の後、五十日たったペンテコステの日に、集まっていた120人のイエスの弟子たちの上に聖霊が注がれました。(使徒2:1-4回復訳)それは、神の王国に入る人に求められている「聖霊」の「バプテスマ」でした。(マルコ1:8回復訳) 

天の王国に入るクリスチャンは前もって聖霊をイエスから注いでもらう必要がある隣の犯罪者は聖霊を注いでもらう機会がなかった

 

 犯罪者はイエスが贖いの犠牲をささげた時とほとんど同時に亡くなったので、自分に聖霊が注がれるという経験もしませんでした。また、その犯罪者は、「試練」のもとでイエス・キリストに忠実を示してきたわけではありません。ですから、犯罪者は、神の王国に入るためのステップを経験していません。 

 ですから、犯罪者は、死の直前にイエスが将来の王になるという信仰を働かせましたが、その報いとして、彼は一挙に、天の王国に入ることが許される立場になったわけではありません。 

 ですから、イエスが犯罪者に約束された「パラダイス」とは、天の「パラダイス」を意味するのではなく、この地上の「パラダイス」です。 

犯罪人はイエスの支配下の地上のパラダイスに復活してイエスと共にいることになる 

  彼は、罪を犯したにもかかわらず、復活しないという「第二の死」を免れることができました。(啓示録21:8回復訳)将来この地上の「パラダイス」に復活することができるという神とイエス・キリストのご親切を経験できることになりました。 

 このことは、その犯罪者にとって祝福だったことでしょう。ですから、イエスはご自分の贖いの犠牲のゆえに、「正しくない者」として死ぬ大勢の人々にこの地上のパラダイスに復活するという見込みを差し伸べられます。 

(4)義人であっても地上に復活することになる信仰の人がいる 

 義人として生活してきた人がすべて天に行くわけではありません。バプテスマのヨハネ以前の人は、天には行きません。バプテスマのヨハネは偉大な人でしたが、「天の王国で最も小さい者も、彼(バプテスマのヨハネ)よりは大きい」ので、ヨハネは天の王国には入りません。(マタイ11:11回復訳) 

バプテスマのヨハネは大いなる正しい人だが神の王国には入らない

 

 ですから、アベルはおおむね義人としての生き方をしていたと考えられますが、それでも彼には地上での永遠の命の希望しかありませんでした。 

 また、ロトは「正しい人ロト」と言われていても、天には行きません。(ペトロ二2:7新共同訳)ですから、「正しい人」であっても、天にいかない神の僕がいます。 

 ですから、地上でクリスチャンとして正しい者として生活して来た人でも「天の王国」に入らない人々がいます。 

 ですから、聖書は永遠の命には、二種類の見込みがあることを示しています。天での永遠の命とこの地上での人間として永遠の命を享受するという見込みです。ですから、人類の大多数はこの地上に復活することになります。 

(5)大多数の人がこの地上に人間として復活する希望がある 

 人類の大多数には、この地上に復活するという希望があります。(ヨハネ5:25,29)それは、復活後に、聖書について教えられて、聖書の神エホバ神を崇拝するかどうかという選択をするためです。 

 それで、聖書によると、天の政府の統治者となるために、天で霊者としての体を与えられることになるクリスチャンが存在します。しかしながら、アダムの子孫の大多数には、キリストの贖いの犠牲に基づいて、この地上で永遠に生き続けるという見込みが差し伸べられています。 

 そして、聖書の中には、地上で大患難を生き残る地的な希望を持つ「だれも数えることのできない大群衆 」が存在することを約束しています。その大群衆の数は数えきれないほど多くなることになっています。(啓示録7:9回復訳) 

 

数えきれない大群衆が大患難を生き残って地上で永遠の命を楽しむことになる

 

 私たちはおのおの自分が神から与えられている希望は天的な希望なのか、それとも、自分が希望しているのはこの地上で永遠に生きることなのかを吟味する必要があります。

 

「回復訳」は、JGW日本福音書房より発行されています。(この記載は著作権の関係でバイブルフォージャパンからの求めに応じて記載しています。)

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