神の国と家族

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「神の国と家族」

廣石 望
列王記上19,19-21;

 

I

 イエスが伝えた「神の国」のメッセージは、彼とその家族にとって何を意味したでしょうか? イエスは「神の国」について宣教するとき、一家の長としての役割からは離脱していたようです。そうしたイエスの生き方と、彼の受難の運命は、何か関係があるのでしょうか? またそのことから、現代社会における苦しみを理解するための手がかりはあるでしょうか?

 イエスはパレスティナ北部、ガリラヤ地方の寒村ナザレの出身です。およそ30歳になったころ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるために、南部ユダヤ地方のヨルダン渓谷に下ってゆきました。おそらくこの時点で家族をいったん棄てています。その後、ヨハネから独立してガリラヤに戻り、同胞ユダヤ人が暮らす村落に「神の国」の到来を告げて回るという活動を始めました。

 今日の聖書箇所には、活動に同行したいと申し出た人々に対して、イエスが言ったとされる言葉が三つ集められています。順番に見てみましょう。

 

II

 ひとつ目は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」という言葉です(58節)

 通常は、故郷や家族や家をもっているのは人間の方で、動物とりわけ野生動物にはそれがありません。しかし、ここではそれが逆転しています。「巣穴」すらない、戸籍も住民票も親族もない、定住地をもたないホームレスな人間の暮らしが言われています。

 「人の子」という表現は、「〈人間〉という分類に入る一つの具体例」という意味なので「ある人」という意味ですが、ここでは「ある人」としての「私」、つまりイエスのことだと思います。

 イエスは、自分が定住地を棄てた人間であるという自覚をもっています。さらに、そんな暮らし方は誰にでもできるものではない、というニュアンスがあります。

 

III

 二つめは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」というものです(60節)。

 「父を葬らせてほしい」という願い出に対してイエスが言ったというのですが、とんでもない発言です。私たちの群れは先週、一人の敬愛する姉妹を天に送りました。今週は告別式が予定されています。葬儀を執り行うことは、私たちに大切です。そんなとき教会の牧師が、イエスと同じように言ったとしたらどうでしょうか。ご遺族は絶句なさるにちがいありません。

 古代においても、それはまったく同じでした。「あなたの父母を敬え」(出20,12)という十戒の戒めには、父母に温かい服を着せて食事を与え、亡くなったならば丁寧に埋葬することが含まれます。

 初代のキリスト教徒たちが、周辺の異教徒たちから信頼を勝ちえた理由の一つに、「死者たちの丁寧な埋葬」があります。これは4世紀のローマ皇帝ユリアヌス――彼はキリスト教を廃絶して、ギリシア・ローマの伝統宗教を復興しようとしたことで知られています――が証言していることなので、本当だろうと思います。おそらく疫病死や、行き倒れを含む身元不明の死者たちを、当時のキリスト教徒たちは誰れ彼れの区別なく、丁寧に埋葬したのでしょう。

 それなのに、なぜイエスは〈葬式なら死人に任せておけ!〉などと言えたのでしょう?――おそらく彼は、じきに「神の国」は到来し、そのとき死者たちは起こされると考えていたのでしょう。彼は最後の晩餐式で、自分が死ぬかもしれないときに、〈この次に君たちとワインを飲むときは神の国で!〉という趣旨の発言をしています(マルコ14,25参照)。「神の国」は生と死の境を超えるできごとなのです。そうであるならば、「神の国」の到来を告げて回ることの方が、死者の埋葬よりもはるかに優先されるべき課題であると考えるのは理解できます。

 

IV

 最後の発言は、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」というものです(62節)。

 「家族にいとまごいに行かせてください」と申し出た志願者に向けて、イエスが言ったとされるものです。現在でも、たとえば修道会への志願者が誓願を立てるといった式典で朗読される聖書箇所であると聞きます。

 この発言の背景に、預言者エリヤがエリシャを弟子に召命する記事があるといわれています(王上19,19以下)。エリシャは「私の父、私の母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」とエリヤに願い出ます。預言者がそれを認めると、「エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた」(21節)。

 牛の装具を燃やしたとは、これまで従事してきた職業を放棄するという意味でしょう。エリシャは「鋤」を使って働いてきましたが、預言者エリヤに従うにさいして、これを棄てたわけです。他方、イエスの言葉で「鋤に手をかける」とは、古い生活のシンボルではなく、むしろ新しい課題に取り組む、また、そのためにこれまでの生活を放棄するという意味で用いられているようです。

 預言者エリヤが弟子を召したときよりも、イエスの召命ははるかにラディカルです。家族との別れなどどうでもいいことだ、と言わんばかりです。

 

V

 なぜイエスは、家族を棄てたのでしょうか?

 西欧の聖家族の絵画などを見ると、キリスト教はイエスとその母マリアが始めた宗教であるような印象があるかもしれません。確かに母マリアとイエスの兄弟たちは、イエスの顕現後にガリラヤからエルサレムに移住し、エルサレム原始教会に参加しています(使徒言行録1,14)。イエスの兄弟ヤコブは、弟子ペトロに続いてエルサレム教会の指導者になりました(同12,17; 15,13参照)。

 それでもイエスがガリラヤで活動していた時期、母マリアと兄弟たちが一家の大黒柱であるはずのイエスを呼びに、つまり〈連れ戻し〉に来たさいに、彼は周りに座っている人々を見回して、こう言ったと伝えられています。

見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。(マルコ3,34)

 これは神の国の名による疑似家族としての新しいつながりの宣言です。ただ、母マリアや兄弟たちには、「親兄弟の縁を切る」という意味に聞こえたことでしょう。

 イエスには妻子はいなかったのでしょうか?――少なくとも「神の国」の宣教活動に従事する彼に、妻や子の痕跡はありません。父ヨセフの影もありません。故郷ナザレ村の人々は、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(マルコ6,3)と言ったとあります。どうやら、家を飛び出したのは長男イエスのみであったようです。

 

VI

 以下、ひとつの推測を申します。

 洗礼者ヨハネが「罪の赦し」をもたらす洗礼を行ったとき、それに参加したのは誰だったでしょうか?――神の審判が下るとき、自分は必ず滅びると思った人々、つまり罪の赦しをもたらす犠牲を捧げるために神殿に詣でることすらできない、「汚れた」下層民であったろうと思います。

 つまりヨハネの洗礼は、汚れと滅びの予感に怯える人々、失われたイスラエルの羊たちにぎりぎりのところで「救い」をもたらし、滅びの不安から解放する役割を果たしたと思われます。――「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる」(ルカ3,8)とヨハネが言うとき、「石ころ」とは、当時の宗教的なシステムの中で差別された者たちの比喩であったかもしれません。

 他方でイエスは大工であり、決して最下層ではありません。ならば、イエスがヨハネの洗礼を受けた理由は、イエスが被差別者とともに生きようとしたこと、つまり彼らへの共感と並んで、自分が差別する側に属することへの罪責意識があった可能性があります。

 ユダヤ教は「アブラハムの子孫」という民族の血筋と、「モーセの律法」という生活習慣の二本柱からなる宗教です。それが、周辺文化の強烈な同化圧力に抵抗する基盤でした。しかし同時に、そこから民族内部に「罪人」――日本にいう「非国民」に近い言葉です――と呼ばれる被差別者が生み出されました。ユダヤ教内部に律法解釈を巡って諸派が乱立し、「我こそは本物なり!」と張り合っている一方で、徴税人、娼婦、流民、盗賊、悪霊憑き、肢体不自由者、レプラ罹患者を含む病人、寡婦や孤児たち、混血児たち、居留する外国人、奴隷などがいました。

 イエスに開けた「神の国」は、こうした被差別者・弱者を、破滅の中から約束の民の中心に取り戻そうとするものでした。つまり社会で周縁化(マージナライズ)された人々に自分を同一化するために、彼らと共にあるために、イエスは家族の絆から離れたと思われるのです。

 

VII

 そう考えると、イエスの十字架の死は、差別に抗ったイエスに対して当時の社会が加えた処罰であった、と理解することができます。被差別者に神の福音をもたらす者を、同じ神の名によって差別を生み出している人々は容赦しないのです。そしてイエスの復活は、イエスが呪いの死を死ぬことで達成された、大いなる解放のできごとでした。

 このことは受難節の賛美歌に、次のような言葉で印象的に歌われています。

いのちのいのちよ、死の死なる主よ…
あらゆる苦しみ み子は耐えられ
悪の鎖より われら解き放つ。
感謝ささげよう、愛するイエスに
(『讃美歌21』296番「いのちのいのちよ」より)

 そうであるならば、キリストの復活を信じる私たちは、あらゆる差別をもはや見過ごしにできないはずです。

 去る3月11日から一週間、日本基督教団が主催して仙台で開かれた国際会議に参加しました。3年前の東日本大震災における福島第一原発の爆発事故による放射能汚染の問題を踏まえて、教会としてのメッセージを世界に向けて発信するための会議でした。

 原子力発電所の爆発事故は、地縁血縁をとりわけ大切にする地方の人々の暮らし、そして家族の絆をズタズタに引き裂きました。逃げるべきか留まるべきか、地元の農作物を食べるべきか食べざるべきか、除染してもう一度住むべきか、それとも汚染物質を拡散させない方がよいのか――さまざまな問題について専門家の見解も違いますし、家族の中にも意見の違いがあります。

 国際会議には、植民地宗主国フランスが核実験を行ったフィジー諸島から、また高濃度核廃棄物の中間貯蔵施設をいきなり建設された台湾諸島部の少数民族から、それぞれ代表者が来ていました。

 原子力産業には、なぜこうも「差別」が付きまとうのでしょうか?――強い国が軍事力と国際的なプレステージを求めて、あるいは産業の発展した地域が安定的なエネルギー供給を求めて核開発を行います。核実験場や原発は必ず人口の少ない貧しい地域、少数民族の居住地域などに作られ、放射能汚染の直接的な被害を受けるのもこの人々です。

 先週、私の本務校で卒業礼拝があり、福島県出身の学生が他の仲間とともに奨励を担当しました。彼女は原発事故をきっかけに原発をなくすことを考え始め、そのとたんに、たとえば「就職に不利になる」といった不安も含めて、たいへん苦しい思いをしたそうです。とりわけいろんな問題について自分とぴったり意見の一致する人が、家族にも友人にもまったくいない、という事実が彼女を苦しめました。大きな孤独を感じたそうです。

 でも、彼女がたどりついた結論はこうです。――〈たった一人の人間になって初めて、私は自分という存在を自覚した。たった一人の人間になってこそ、他の人々と意見を交換し、社会に和解をもたらすために働くことができることに気づいた〉。

 この学生さんの自覚は、イエスが「神の国」の到来を告げ、被差別者と共に生きようとしたとき、家族の絆をいったん離れたこととたいへん類比的であると感じます。

 それはパウロが、次のように言うとおりです。

キリストにある人はだれでも、新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
これらはすべて神から出ることであって、
神は、キリストを通して私たちをご自分と和解させ、
また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。
(コリント二 5,17-18参照)

 

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