「私たちを神の子とする」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

今日は「降誕後主日」、そして、次の日曜日が「顕現祭」(エピファニー)に当たる。東方の三人の博士たちが馬小屋のイエスを拝みに来た日である。東方正教会では、この日にクリスマスを祝う。西欧でも、「顕現祭」まではクリスマスの飾り付けを残しておくのが、古来のならわしであった。私たちの教会でも、この伝統に従って、ツリーや星、クランツなどは今日までそのままにしてある。

世間では、25日が過ぎるとクリスマス色は忽ち一掃されて、門松としめ飾りに変わる。あれほど巷に溢れていたクリスマスの歌も、もう何処でも聞かれない。しかし、教会ではそのように「移り気な」祝い方をしない。御子の降誕の喜びは「一過性」のものではなく、持続するのである。そのことを表すために、我々は今日もクリスマスの讃美歌を歌い、説教のテキストも関連した箇所が選ばれている。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法のもとに生まれた者としてお遣わしになりました」(4)。

パウロは、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」(第一コリント2,2)と決心したという。専ら「十字架と復活の主イエス・キリスト」を宣べ伝え、イエスの地上の生活にはあまり関心を持たなかった。その彼が、ここではイエスの誕生について言及している。パウロの手紙の中ではここだけだ。

だが、パウロはここで「マリア」という個人名を用いず、単に「女から生まれた」と言う。それは何故だろうか。多分、具体的な誕生物語よりも、「すべての人間が女性から生まれるように、イエスもまた一人の人間として女性から生まれた」という一般的な意味を強調したかったのではないか。続けて、「しかも律法の下に生まれた」と言い換えていることも、そのことを裏書きしている。「すべての人間が律法の下に生まれるように、イエスもまた、律法の下に生まれた」というのである。

では、「律法」とは何か。聖書において「律法」とは、神からイスラエル民族に与えられた「戒め」、「十戒」を中心とした多くの戒律のことである。

むろん、戒律はユダヤ教に限ったことではない。イスラームの場合も「五行」というものがある。すなわち、

  1. 「神の他に神はない。ムハンマドはその預言者である」という信仰告白
  2. 毎日メッカの方を向いて祈ること
  3. 喜捨をすること
  4. ラマダンの月の断食
  5. メッカへの巡礼
の五つだ。そして、これに類する「戒律」は、すべての宗教に存在する。

パウロは、エルサレムのファリサイ派「律法学校」で厳しい訓練を受け、「律法」については極めて熱心だった。だが、イエスとの出会いを通じて律法の本質を悟る。例えば、にはこうある。

「律法が『むさぼるな』と言わなかったなら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました」。これは、律法の本質を鋭く突いた洞察である。

ある幼稚園で、子供たちが茹でた豆粒と竹ひごを使って工作をしていた。先生に急用ができて、少しの間教室を留守にしなければならなくなったとき、何か気になって、「豆粒を鼻の穴に入れたりしてはいけませんよ」と言い残した。数分後、帰って来て見ると、子供たちは一人残らず両方の鼻の穴に豆粒を詰め込んでいた、という。

「やってはいけない」と言われると、却ってやってしまう。特にあまのじゃくな人間でなくても、そういうところがある。律法というものは、「してはならぬ」とか「せねばならぬ」と命じることによって、却って人間の罪を「活性化」してしまう。今引用したローマの信徒への手紙7章には、続けてこう書いてある。

「律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法と関わりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、私は死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました」(7,8-10)。

に、「罪の支配下に閉じ込める」とあるのは、そういう意味なのである。我々すべての人間は、「してはならぬ」とか「せねばならぬ」と命じる律法によって、自己の罪を自覚させられる。律法によっては、究極の救いに達することはない。こうして、我々は人生の重苦しい問題を肩に背負わされる。

イエスは、そのような我々と同じような人間として、つまり、律法によって苦しむ我々人間の一人としてこの世に生まれた。それは、「律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした」(5)。どのようにして贖い出すのか?

イエスが神を「アッバ」と呼んだことは知られている。幼児語で、「お父ちゃん」に当たる。この呼びかけには、幼児が何の不安も恐れもなく父親にしがみついていくような響きがある。愛のない父親の、「コラッ」とか「駄目っ」という言葉に怯える子供のようではない。この関係を、彼は我々にもたらしたのだ。我々の苦しみを代わって負うことによって、我々と神との間に、何の恐れも不安もない関係、つまり「和解」を成り立たせた。そして、その生涯を通じてこの関係を示し続けた。イエスの誕生によって、我々の中に実現したのはそれだ。

それが、クリスマスの喜びなのであり、これは生涯持続するのである。


 
 

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